まだ、入院中ですが
令和元年8月11日
明日は私の父進さんの命日なのに入院していては我が家の仏壇やお墓でのお参りもできないので、命日を前にして私が38歳で他界した頃の話を書く事にします。
(平成4年)私の父進は明治の最後の年である明治45年4月10年生まれで、誕生日を迎えて満80歳になっていました。その年の6月末に体調を崩し当時の関ヶ原病院(現診療所)に入院しました。私はその年の4月末を持って児童指導員を退職し大垣女子短期大学の非常勤講師や家庭教師や教育カウンセラーとして不登校児の相談にのったりとフリーの立場で走り回っていて、父の世話は殆ど養母と奥さんに任せっきりで何も出来なかったように記憶してます。ただし、今回は厳しい状況だと認識していた私は、『今までにどれだけ迷惑をかけたか計り知れないので何かをしたい』との強い思いを持っていたので、『どんなに忙しく遅く帰ってからでも、先ずはお風呂に入り一日一枚般若心経を写経をする』と決めて書く事にしました。(書いたものは棺の中へ私が四国八十八ヶ所で判を押して貰った白衣と一緒に入れました。)
そして、忙しくフリーの仕事をしていた私ですが12日の日は一日空いていたので、生まれて初めて父親の付き添いの為に病院に泊まる事にしました。その日は確か18時頃に病院に着き、父親に「今夜は私が付き添うから」と父親に伝えると「仕事は大丈夫か」と言いながらも嬉しそうに感じたのは私の自惚れかな。でも確かに嬉しそうだったです。22時頃になると痰が絡んでだと今ならわかるのですが「かーかー」とうるさくてその当時の私は「親父、私は一日忙しかったので、少し静かにできん」等ととってもわけわからんことを言っていたのです。(今から考えたら何て馬鹿な事を言う親不孝な息子だったかと悔やんでも悔やみきれません。)ところがしばらくすると父親の寝息が静かになったので私はうとうとと眠っていたのですが、静かになったのではなくて息が細くなっただけで、翌早朝に息を引き取りました。
私は父親にとって最後の最後まで迷惑ばかりかけて何も役にたつことが出来なかった。でも、父進は「息子が病院に来て泊まってくれる」と安心したのだと無理矢理にも思うしかないのです。但し、私が病院に泊まった事で葬儀の手順は早く整える事ができました。私はこの父進の死によって否応無く『自立』『自律』共にせざるを得なくなりました。先ずは葬儀の最後のお礼の言葉はまるで私の決意表明のようになりましたが、それを聞いていた、父進が垂井小学校の校長時代に教務主任をされていた服部先生(当時児童文学で有名だった先生です)に大垣女子短大の非常勤講師室で「若山君の話は思いがこもっていてとても良かった。これは本当に君が父親の事を大好きだった事を素直に表現された証だと思います。」と言っていただけました。
あれから28年が経過するのですが、叶うことなら自律・自立した私の姿を父進と母秋江に見て欲しいとお盆を前にして思う私です。病院で時間があるからこその原稿だから入院も悪くないのかなと職員や関係諸兄に迷惑をかけている身でありながら思っています。