令和5年4月4日
我が家のお墓参りも終えて本堂前の境内を抜けようとした時に大抵東に向かってトンネルの上を普通列車が通るのです。「今何時かな」と携帯で時間を確認すると6時24分でした。その列車の通過をいつも見詰めながら「結構に連結が長いな」と思っていました。(明日には何両なのか確認しておきます。)今の私は(この様に強調するのは小さい頃の私とは真逆なので・・・)疑問に思う事は調べて確認しないと気が済まない性格になっているからです。パソコンで調べました。
私が確認した列車は柏原駅を6時21分発だとわかりました。と言う事は僅か3分で柏原駅から今須妙応寺の所まで来てしまうのです。そんなことより、柏原駅を6時21分に出た列車は豊橋行きだと言う事も分かりました。ついでの様な情報ですが朝の段階で豊橋まで行く列車は6時41分、7時00分、7時21分、7時41分の5便であり、その後の列車は大垣止になります。と言う事は米原~大垣間の需要が少ないから本数も少なく連結も少ないと言う事か。
ちなみに米原から西に行く便は沢山ある様です。この様に需要が減っているのは働くのに或いは生活するのに不便な所と言う事なのだと思います。関ケ原町の広報誌の4月号での記事の中で(原文のまま紹介します。)
【「不破関の誕生」672(天武元)年、壬申の乱に勝利した大海人皇子は、翌年2月、飛鳥浄御原宮で即位し天武天皇となりました。ある春の日、天皇は妻のうの(漢字が見つかりません)野讃良皇女(うののさららのひめみこ)と、壬申の乱のことを振り返っていました。「皇女よ。私たちが勝利する事が出来た一番の理由は、不破道を塞いだことじゃ」と天皇がおっしゃると、皇女は「そうですね。畿内と東国を分けるとても重要な場所でしたから」と答えました。皇女の言葉を聞いた天皇は、しばらくして「そうじゃ。都での争いが広がらないように、要所要所に関所を作ることにしよう。唐の国には立派な関がいくつもあるそうじゃ」と、すぐに家来を集めました。「天皇。東国へ向かう3つございます。鈴鹿道(後の東海道)。不破道(後の東山道)、っして愛発(あらち)道(後の北陸道)です」「確かに。この3か所に関所を作れば、都から東国へ逃れることは出来ませんな」「よし。この3か所に関所を作ろう」天皇はそう決断すると、すぐに関所の大きさや建物の配置、役人の数などを検討するように命じました。こうして新しく作られる事になった関所は「鈴鹿関」「不破関」「愛発関」名付けられました。】
ながながと関ケ原町の広報誌の記事を書きましたが私が言いたいのは関ケ原町が経済的にも豊かになる為のヒントがここにあると思うのです。
つまり交通の要所であると言う事は流通の要である利点を活用しない手は無いと言う事です。基幹産業がしっかりすればインフラ整備もしっかりしてくると思いますし。少なくとも『米原~大垣間が本数が少ない』と言う事は少なくても無かったのではないかと思うのですがリピーターの皆さんのご意見をお聞かせ下さい。