理事長コラム

薬師寺執事長の大谷徹奘師から送って頂いた『メールde法話会』

令和2年4月17日

新型コロナウイルスの影響によって、薬師寺での生での法話を聞くことが出来ないのですが、その代わりで今回が4回目の『メールde法話会』が送信されてきました。私は大谷徹奘師と初めてお会いしたのは、師が薬師寺の副執事長をされている時に、岐阜県老人福祉協議会の総会の折りに講演をお願いして名刺交換を講師控室でさせて頂き、講演内容も大変聞きやすく分かり易くお話をして頂き、その折り購入した師の本とDVDを折りに触れ聞いたり読んだりしているのですが、既に2年以上前のご縁なのに今もメールを送信して頂けるのに感謝すると共に今日の内容があまりに深いものだと思いましたので、師の許可も得ず紹介させて頂きます。(多分お許し頂けると思っています。)

タイトルは「他人の邪を見るなかれ」とあり、他人の邪(よこしま)を見るなかれ、彼が何をなし、何をなさざるかを言うなかれ。我が何をなし、何をなさざるかをおもうべし。」(法句経 第50・高田好胤和上訳)と最初に書いてありました。これは、今から約2200年前、初めて文字化された経典である『法句経』。の一説だとの事です。その説明を大谷徹奘師は「私達には、外側に向いた目・耳・鼻・口・皮膚と言うアンテナはあるものの、内側(自分)向きのものはありません。これによって他に対する時は厳しいのですが、自分に対する時はもの凄く甘いのです。しかし、これが人間の特性だから「仕方がない」の一言で片づけていては、より良い人生は歩めません。他と接する以上の厳しさで、自分と向き合うことが大切だと説くのが、仏教の基本です。修業を40年重ねても、自分に甘い私がお尋ねするのはおこがましいのですが、あなたはどんな態度で自分と向き合っていますか。合掌」と書いてありました。

この『メールde法話』を読ませて頂き、先ずは2200年も前の先人が残された言葉の重さを感じながら、尚且つ、大谷徹奘師もとんでもない修業をされた方の謙虚さに舌を巻きつつ、私の生き方はどのレベルだろうかと自問自答して分析してみました。私の幼少期は『我が家は自分中心に動いている。』事に何の疑問も持たず、少年期は『自分の生活から手(母秋江)足(姉光子)を奪われもがくばかり』で青年期は『自己責任の中で進み』(実は色んな方に支えられていたのに)38歳以降は『有言実行を猪突猛進に』の生き方の中、基本的には『相手の方の素晴らしさを身に付けたい。』『相手の身になっての実践』を念頭においてきたつもりであっても、振り返ってみると不十分なことばかり。やっぱり、生きている限り修業の身なんだと大谷徹奘師のメールから改めて思いました。

リピーターの皆さん、本日のコラムは自分でも何を言いたかったのか理解に苦しむものになってしまいましたが、毎日読んで頂いている方には理解して貰えると勝手に思っています。※ 自分で理解出来ないものの真意をリピーターの皆さんで理解しろとはわけがわからない。多分これは、いつ終息するか分からない新型コロナウイルスの性だとこれまた勝手に思っています。自分では、昨日のコラムは絶好調で本日はコラムは絶不調と言う事でお許しください。