理事長コラム

相手を思いやる心 2

令和2年10月4日

今でこそ『相手を思いやる心』等と言う言葉を使っても大丈夫な生き方だと思うのですが、26歳までの私は真逆な生き方だったと思います。(自分の事しか考えられない生き方)いや、正確に言うと25歳の時に教員として、神戸北小学校4年3組の担任になり、その年6月に校内研究で自分のいい加減さを理解して、10月の西濃教育事務所の指導課長さんがみえての研究授業で自分なりに初めてと言っても過言ではないような成功体験をさせて貰い、その時に「私の授業の為に子ども達が頑張ってくれた。だったら、今度は私が子ども達に出来る事を精一杯に頑張らねば」と思ってからかな。

でも、結局は形に出来なくて自分探しを父進さんの寛大な対応により(勘当されました)徳山村での半年にも及ぶ居候生活を経て児童養護施設での13年間は正直自分は滅茶苦茶甘くて幸せな生活だったのかを指導員として仕事をさせて貰っている時に教えて貰いました。だから、その時代は「この子達一人ひとりに何をしていけば少しでもこの子ども達の将来が明るいものになるのか」と言う事ばかり考えて私なりに出来る事をしてきたつもりでしたが実はその実践は私自身を成長させて貰うばかりだったと今になって思っています。そして、それぞれの場面が真剣勝負だったし、極端な言い方をするならば、常に絶壁に立たされているようなものだったと思います。

だから今では厳しい状況におかれて、例え頭に血がのぼっていても、どこかで冷静沈着な気持ちでいられるのだと感謝してます。そんな中から『相手を思いやる心』が芽生え、相手の方が喜ばれるだろうと思いながらしていく事にワクワクしながらの毎日です。もちろん今でこそ、そのような気持ちですが、その域になるまでには色々な事がありました。でも、色々な苦労・・・いやいや試練があったからこそ今があると思います。そして、今は自分の置かれている立場の中で『私が出来る精一杯の事をしていく事』こそが『相手を思いやる心』と信じて事業を進めています。

正直な事を書くならば、最初に出来た本部施設本館は、児童養護施設を辞めて個別指導で切り開こうとの考えが現実的には生活が出来ない正直霞を食べて生きていかなければいけないもので、拠点がなければ思い通りの事が出来ない事を知り、それではと、色々とうごめく中で『情緒障害児短期治療施設建設』を目指しましたが、その当時の岐阜県に受け入れられず挫折した中から、「とにかく福祉施設をつくって福祉の形を確立したい」との思いから出来たものでした。

本部施設が出来た2年間は措置施設の枠の中で、霞を食う以上に厳しい生活を強いられましたが、契約による介護保険に制度が変わり、職員も育っていく中で、今の状況の中で地域のお役に立つものとの考えの中で新館を造り、和合を造り、今は盲養護老人ホームの建設に向かっています。無謀とも言える計画も根底には福祉の心を持っての信念です。つまり、自分(杉和会)が出来る精一杯を形に表していく中からの計画だと考えていますので、これからも変わらぬご支援をリピーターの皆さんお願い致します。