令和7年1月16日
私が中学1年生の本日1月16日に、子宮癌⇒胃癌⇒肺がん⇒骨癌と転移を繰り返した上で他界しましたので、人生の後半は(と言っても短い人生でしたが)苦しくて辛い闘病生活だったと思います。私は何度もこのコラムで書いていますが、末っ子の長男で、しかも生まれた時から虚弱だったので、母秋江さんにとっては『目の中に入れても痛くない』或いは、「カンガルーの母親がお腹の袋に入れて育てる」くらいに、大切に育てて貰った母秋江さんでした。
13年と言う短い年月でしかなかったのですが、『中身の濃い』母と子の関係でした。母秋江さんは、自分の事より誰よりも私の事を大切にしてくれていたと思います。一つのエピソードを紹介します。
以前にもこのコラムでも書きましたが、私が小さい頃には関ケ原病院(今は関ケ原診療所ですが)の分院として『今須診療所』があり、私はちょっとした事で高熱を出し、常に往診をして貰っていたのですが、正直前後の詳しい事は覚えていないのですが、とにかく診療所も本多先生が私への対応をしっかりして頂けなかった時に、母秋江さんは湯気を出す勢いで怒鳴りに行った結果、本多先生が後日沢山缶詰を持って謝りにみえた事を覚えています。その頃缶詰は貴重なものだったと思いますので、母秋江さんの怒りの凄さが今でも理解出来ます。
自分で言うのも変ですが、『いたいけな』13歳の私を置いて死期を理解した母秋江の心情は、計り知れないものがあったと思います。だからでしょうか、死別して50年以上経過しているにも関わらず、仏壇で或いはお墓でお経を唱えている時には、小さい頃に戻って甘えた事を思っている私がいます。
今の私は母秋江さんに出来なかった恩返しを、施設の入居者さん利用者さんに対して私が出来る精一杯の気持ちで、返しているのだと思っています。そういう意味では今の仕事は『天職』と言えるのかと思ってもいます。この様な書きぶりだと「若山はマザコンか」と言われたら「そうなんです。でも甘える母秋江は50年以上前に他界しているのですが」とややこしい事を言わなければいけません。本日のコラムは母秋江の命日での私のつぶやきですのでご理解頂ければ幸いです。