理事長コラム

息子から見た、父進の生き様を語ります。

令和3年12月25日

朝のウォーキング中に4人の写真を見ながら父進さんについて思ったことを語ります。父進は明治45年4月10日生まれですから生きていれば110歳です。(明治と言っても大正元年なのですが)明治生まれとは言え頑固さはなくて私にとっては優しいばかりの考え方によっては『甘々』な父進さんでした。かつてのコラムで書きましたが父進さんは石垣の陰から母秋江さんを見て一目惚れをして、今須のじゃじゃ馬お嬢の秋江さんが若山家の分家を春吉爺さんに作って貰った所へ養子に来たのです。私が小さい頃父進さんが年下の伯父さんを『春夫兄さん』と呼んでいるのに大いなる違和感を持っていました。と言うのも伯父さんは父進よりははるかに年下だったからです。もっとも秋江さんのお兄さんだから理屈の上では成り立つので、その事から見えて来るのは、父進は『筋を通して貫く生き方』だったのだと思います。

父進は苦学をしてでも戦前の師範を卒業したその当時としては教育界のエリートだったと思うのですが、母秋江が癌を患い闘病生活に入ってからは、『出世よりも母秋江との生活を優先した生き方』だったと言う事が今になって理解出来ます。そのような生き方を当たり前のように出来た父進の事を『今は』尊敬しています。尚且つ、母秋江さん中心の生活の中であっても不破郡で一番の学校であり自分が卒業した小学校の校長として君臨して、後輩の育成にも力を注いだ実績を評価して貰ったのだと思う現象として、退職した後も他界するまで『垂進会』(『垂』井町で『進』の会の意味で『すいしん会』)と言う会が年に1回は開催されていたのは凄い事だと今でも思っています。出世よりも母秋江中心だったのは、母秋江が他界した年は自ら申し出て、何かあった時に休みを取りやすいとの思いから、その当時の西濃教育事務所勤務を申し出たと言う事です。(今の私の立場だから理解出来た事なのですが。)

姉光子の話に移ります。何度もコラムで書いていますが、姉光子は22歳の10月に結婚して翌年の4月7日に急逝しているのですが、頭が痛いと言うのでその当時の関ケ原病院に入院したのですが、「痛い、痛い」と言い続けだったので隣の部屋から苦情がきて高校生の私は激怒したのを今でも覚えていますが、その事よりも私は父進に関ケ原病院ではなくて岐阜大学医学部附属病院に転院させるべきだと訴えましたが、父進は「嫁ぎ先の意向があるから」と頑なだったのを覚えています。今から考えると父進は『筋を通す事』を第一義に考える常識人だったのだと思います。

もう一つ凄いのは、23歳の若さでの出来事で医療的見地から解剖をしたいとの病院側の申し出に対して嫁ぎ先の方が判断に窮している時に父進は「医学の発展の為に寄与すべきだ」と毅然と話をして6時間以上の解剖をじっと待たれていた忍耐力も凄いものがあると思っています。最後に父進は家に帰ると73歳で内孫が生まれてからは本当に大切にしてくれたので、私は仕事に没頭できたのは本当にありがたかったです。

リピーターの皆さん、本日は何故か父進さんの事を語りたくなったのは、色んな事を振り返るべきだと考えているからかも知れません。イケイケドンドンだけではいけないと思うようになってきたからかなあ。リピーターの皆さん、どう思われますか。