本日は16日。つまり母秋江の大切な日です。
母秋江が他界したのは1月16日ですが私にとっては「16日」が大切な日なのです。そんな思いを持って、今朝の我が家へのお墓参りでの妙応寺本堂の大谷徹奘師の日めくりカレンダーの言葉『弱い自分に出会った時が 強い自分になる チャンス』を見た時に、毎月16日に見ているはずなので、10回以上見ているのに何故かいつも以上のインパクトがあったので、昨日の名古屋市にある盲養護老人ホーム瀬古マザー園の施設長を初めとした職員4名と盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)の職員との意見交換会については後日述べる事にします。
私は弱い自分には一杯出会ってきました。数えきれないと言っても過言ではありません。と言うより小さい頃は毎日が「弱い自分」だったと思います。しかしながら「強い自分になるチャンス」なのにそのチャンスを一切生かしてこなかったと言っても過言ではありません。強くなる必要が無かったからです。と言うのは母秋江の後ろに隠れていたら何とかなったのです。だって今須において母秋江は無敵の様な存在でしたから。(母秋江の父親は地元のうるさ型で母秋江の事をめっちゃ可愛がっていたので)
母秋江が他界してからは、少しは成長したのですが、姉光子がかなりカバーしてくれたので、若干の成長しかない「青白い顔のガリガリ少年」であった事は間違いありません。姉光子が急逝したのは私が高校2年4月7日である事は何度も書いていますが、姉光子の葬儀が終わってからほぼ4カ月間は、糸の切れた凧状態で違う意味で最も弱い自分を晒していた期間です。
その時には父進が防波堤の様に私を守ってくれました。と言う事は逃げまくりの人生は父進が他界した私が38歳の時まで続いていたのかと思っています。大学を卒業して、教員になった時も父進におんぶにだっこ(それではいけないと教員を辞めたのですが・・・)26歳からの児童施設での指導員時代には、弱い自分をさらけ出しては叩かれて見かけは強くなった様に思いましたが、本質は変わらない自分であったと思います。
父進が他界した38歳の時に児童養護施設を辞したのは危険を顧みず大海原に無謀にも飛び込んだ様なものでした。理想に燃えていたことは事実です。但し、若山家の家計は火の車になりました。そう言う意味では頼りない家長だったと思います。
紆余曲折があり、特別養護老人ホーム建設に向かって行く時には「弱い自分」を一杯晒しました。但し、自分で決めた事なので弱音を吐いていても問題解決しないので「強い自分」にならざるを得なかった。それからの25年の日々の中でも弱い自分が一杯出ましたが、その都度問題解決をして「強い自分」になって来ました。
38歳からは自分だけが頑張った訳ではありません。色んな方々に励まされ、時には咤激励をされて今があります。38歳からの私は「逃げても解決しない。だったら前進あるのみ」のつもりでいますが、リピーターの皆さんそんな私であっても弱い私がいたら強い自分」になれる様に支援して頂けると有難いです。