2025年08月の記事一覧

高校2年の時からの四国遍路のご縁で

令和7年8月31日

本部施設の計画をして最初の土地探しは人任せだったこともあり見事に計画を断念した話はこのコラムでさせて頂きましたが2回目の候補地については私自身で汗を搔いたので上手くいったのですが、この時に上手く成立したお話をさせて頂きます。

『今須』と言う地区は大きく『下の谷』『町筋』『上の谷』に分かれていて私が住んでいる所は『町筋』であり、土地取得の候補地は『上の谷』と言う事で私が土地取得で動く時に地主さんの一人が頼りと言う中で一番多く土地を所有されている方の家に私一人で訪問した2度目の時に訪問先のご主人が「若山さんは四国遍路のご縁で滋賀信行会の青年会でも頑張ってみえたね。私も夫婦で四国遍路には何度か参加させて貰っていたけど一緒になった事は無かったけど、滋賀信行会で頑張っていた方の頼みだから断るわけにはいかんな。

だから、出来るだけ他の地主さんにも声を掛けてあげるよ。」と言われた時は「四国遍路のご縁で協力して貰えるのは本当に有難い。」と思ったものです。勿論それだけでとんとん拍子に事が運んだわけではありませんが、大きく前進したのは間違いありません。

また、四国遍路の延長線上本部新館、和合においても高野山前官大僧正静慈圓師の書を沢山書いて頂いていて4年前に実施した盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)の竣工式典では皆さんの前で梵字をかいて頂くパフォーマンスまでして頂きました。その様に考えていくと私の人生を大きく変えた出来事としては『四国遍路』は特筆すべき出来事の一つだとしみじみ思います。

人生に『もしも』と言う事は無いのですがこの様なご縁を頂けた事に感謝です。だから私は『出会い』を大切にしていますので本日も東京からお客さんがおみえになるので精一杯のおもてなしをしたいと思っています。

高齢者施設の計画での最大のピンチ

令和7年8月29日

平成8年度予算での計画が順調に進んでいると思われていたある日に、1本の電話が県福祉事務所の担当者からかかってきました。その内容は「大垣市は独自の福祉事務所を持っていて、大垣市内に2つの特別養護老人ホームの計画があり、そちらの計画を優先させたいので8年度の予算で若山さんが計画しているものの予算はないし、この2つの計画を実行に移せば西濃圏域の計画は足りるので、白紙に戻します。」との事で、私は電話での対応をしながらも怒りを通り越して頭が真っ白になりました。そらそうですよね。土地の確保の確約も取り、設計会社に図面も作って貰い、パーツまで準備してあったのですから。その日から3日間は正直何も手に付かない様な状況でした。

しかし「このままで終わってはいけない。」との思いを持ち「何をすべきか」と考えて行く中で「大きな計画を動かして行くには、政治力が必要だ」との思いに至り、その当時家庭教師をしている子の祖父が大垣商工会の会頭をされていたので「私の思いをぶつけて、何らかの方向性を導いて頂ければ」との思いで、家庭教師をしている子の母親に話しをすると「一度父に話してみます。」と言う事で話をさせて頂いた翌日には、会頭さんの家で大垣商工会の会頭さんに私の思いを熱くお話しました。そして次の日の12時頃我が家の電話が鳴り、会頭さんから直接、会頭室に13時30分に合わせたい方がいるので来てください。と言う事で昼食もそこそこに背広に着替えて商工会に向かいました。

受付を済ませると会頭室まで案内して頂けて、会頭さんの方から「いつも孫がお世話になっています。」との挨拶を頂き正直面喰いました。その後、会頭さんから「紹介したい人がもうすぐ見えますので、しばらく待っていて下さい。」と言う事で待っていると、顔の汗をハンカチで拭いつつ部屋に入ってみえ、会頭さんから「いつも世話になっている若山先生ですが、事業について困ってみえる様ですので話を聞いてあげて下さい。」と言って紹介して下さったので、私は思いを精一杯話させて貰うと、会頭さんから「若山先生は一生懸命の方だと思うので、力になって下さい。」と言って頂くと、紹介された方も「8年度は無理であっても計画が改めて上がる様にします。」と言って頂けたのは本当に嬉しかったです。

その後、紹介して頂いた方の仲介で議会棟での話し合いが持たれて、その時の話し合いの時には会頭さんも同席して頂けて感動しました。その時の出会いがあり、今でも紹介して頂いた方には何かとお世話になっていますし、その時の会頭さんの対応は、私の生き方にも大きく影響しています。

人生に『もしも』はありませんが、あの時の『ピンチをチャンスにする』出来事によって、色んな意味で成長させて頂いたと思っています。私の生き方の中でとことん厳しい状況になった場面はたくさんありましたが、(これからもあるかと思いますが)その都度理解ある方に巡り合えているのは、神仏のご加護と父母を中心にした先祖のご加護だとも思っています。そんな私ですのでこれからも私が出来る事は精一杯頑張っていきたいと思っていますので、リピーターの皆さん、これからもよろしくお願いします。

自分ですべき事はしっかり自分でしなければいけない事を学んだ出来事

令和7年8月29日

平成4年3月末で児童養護施設を退職し、大学等の非常勤講師や家庭教師をしながら『教育・福祉カウンセラー』と言う名刺を持って色んな所に行き、今で言う『フリースクール』の様なものや『親の会』などを展開していく中で「拠点が無ければ本当にしたいことができない」と言う事で1年かかって『情緒障がい児短期治療施設』の計画をその当時の岐阜県児童家庭課に持ち込んだ時に「児童福祉施設をここ10年は計画しない。」との回答を得て、悶々とした生活を過ごしていく中でその当時福祉の重鎮であった吉田宏岳先生(当時は日本福祉大学中央福祉専門学校長)から「若山さんなら種別は違っても頑張れると思うから特別養護老人ホーム設立してみたらどうか」とのアドバイスを頂き、先ず最初に私が行ったのは関ヶ原町の高齢者の実態調査でした。

その結果を持ってその当時の高齢福祉課に建設に伴う相談に行ったところ、「先ずは土地の選定をして住民の理解を得る事が先決だ」との助言を頂いたので一先ず土地の選定に取り込む事にしていく中で地元今須に住んでいるかなり年上の従兄弟から、候補地の提案があり尚且つ、「地主を含めた地元の取りまとめはしてあげる。」との事でとんとん拍子に地元の説明会の開催にこぎつけ順調に話が進むかに思えたのですが説明会の会場に行ったらいきなり地主の一人が「しっから話を聞いていないし、土地を譲る積りもない。」との発言に私は真っ青になり、その会場を逃げる様にして帰ったのを覚えています。

その後しばらくして「地元の話し合いが上手くいかなかったと聞いてきたので私の土地も入れて7人の地主の土地で計画してみてはどうか」との話があり、尚且つ「地主さんへの話を私が取りまとめようか」との提案がありましたが「当事者である私が話をしなければいけないと思いますので私が回ります。但し私が突然言っても何の事か分からないので最初の紹介の時には同席して下さい。」と言って1回目の挨拶には同席して私の紹介をして貰い、その後は毎日の様に夜に地主さんへのお願いに行き、7軒の家に何度も足を運び1カ月くらいで地主さんの了解を得て地元説明会に挑むことが出来ました。その時の経験から「人任せは駄目だ」と言う事を理解して今に至っています。その経験から今でも事故等が起きたことは理事長として或いは施設長として』家族への対応には先頭に立って対応しています。

職員には「事故が起きた時の責任はトップが担うものであり、職員は同じ事で失敗しない様な配慮をした対応に努めて下さい。」と話をしています。こんなスタンスで27年介護事業を進めてきました。リピーターの皆さん、至らない所にお気づきになったら教えて下さい。

いつからなのでしょうか。私が何事にも一生懸命に頑張ることが出来る様になったのは・・・。

少なくとも、私は中学校を卒業するまでは痩せて色白で話すのも声が小さくて何につけても依頼心が強くて先生が投げかけられた質問に対して殆どのクラスメイトが手を挙げていると答えが理解されていなくても手を挙げていて「先生に当てられたら困るなあ」と思ってドキドキしながら手を挙げていることが度々であったことを今も覚えています。中学を卒業するまで改善されたかった理由は、保育園から1学級1クラスで小学3年生から分校(小学1年2年のみの分校)から本校通学になったクラスメイトを入れても34名なのでクラス替えが一切なかったので「若山は色白で華奢で声が小さくて直ぐに頬を真っ赤にする。」と言うのを演じていたのだと思います。

高校は日大大垣高校と言うマンモス校(当時は1学年で600人位だったと思います。)で、同じクラスの中には私の存在を知っている子がいない状態で中学までの呪縛が解けて小さく固まっていた私が大きく羽を伸ばせる環境で、しかも当時の日大大垣高校は『自由でのびのび』の校風だった様に思います。『自由』と引き換えに『責任』が生じるのは当然の事。そんな中で『火中の栗を拾う』事を高校時代から大学時代に一杯してきた事が『一生懸命に頑張る』の礎を築いてきたのではないかと思っています。だから小学校の教員時代にはその当時のテレビ番組で水谷豊さん主演の『熱中時代』の先生そのものの様な先生で文字通り『ガキ大将』の様な振舞の中で私なりに一生懸命だったので子ども達にはお友達感覚で楽しくやっていたのですが、教育界では認められずに旧徳山村での父進さんの勘当の生活も『転んでもただは起きぬ』精神で民宿に泊まりに来たお客さんと目一杯のおもてなし(沢山お酒も頂きました)で色んな議論をしました。特に新聞社やテレビ局の方が多くてとても勉強になりました。児童養護施設の指導員時代にはその当時の子ども達は親が子どもの学習には興味が無くて必然的に低学力だったのですが、「親の支援も期待できない状況の子たちが高校も行かないで社会に出るのは厳しすぎる」と言う事で、子ども達に『湯気』を出す勢いで学習指導に全力でした。そこで私が救われたのは子ども達が私の強引なやり方にもついてきてくれたお陰で『全員の高校進学』が達成出来ました。その当時『学習指導のカリスマ指導員』と言われていたのは素敵な子ども達がいてくれたからだと今でも思っています。

紆余曲折があり今は大きな拠点施設を3つも持っていますが、その期間においても、厳しい状況は数えきれないほどありましたがその都度、厳しい状況で「何ともならない」と言う状況になった時に救世主の様に相談に乗って下さる方や援助をして下さる方があり今に至っています。厳しい状況を経験したからこそ『打たれ強い人間』になれたのではないかと言うより『打たれても打ち切れない』様な人間になったのではないかと思っています。但し、自分の事で何かのお願いをすると言う事はからっきし駄目で、困っている人がいたらとことん無敵で頑張れる様な生き方です。「う~ん。随分厄介は生き方になっている」と自分でも思います。

経験していない事は出来ません

リピーターの皆さん方の中で「何と言うテーマだ」と思われた方も多いのでは無いかと思います。

午前中の県との会議終了後、労働局の課長さん、介護労働安定センターの所長さん、岐阜県の福祉関係の課長さん等々と話をしていたら和合の施設に入居者の家族の方が待っているとの連絡を貰い急ぎ和合の施設に行きました。

話が長引き、話が終わった後は入居者さんと話をしてくれとの申し出があり、その対応をしていたら15時前になり、「15時30分から本部施設で約束がある」と言うので6分遅れで本部施設に着くとお客さんは既に会議室でお待ちになっていたので、息つく時間も無く会議室に急ぎ、16時30分にお客さんが帰られて「お昼ご飯を食べていないけど、今から食べると私の事だから馬鹿程食べてしまいそうなので飲み物だけにしてコラムを打つことにしよう。」とパソコンに向かいました。

でも、こんな時は書く内容も浮かんでこない中で「教えて貰っていない事や経験ない事は出来ないな」と何の脈絡もなく思ったので、鮮烈な経験をした体験を書くことにします。

(前置きが長くてすみません)私が児童養護施設の指導員になったのは26歳の9月です。

小学生や中学生の学習指導は父進さんから連絡して貰った学校の先生の教えも請いながら何とか頑張っていたのですが、その年の年末の大掃除の時の事です。

私が勤務した所はお寺が経営されている所で庭も広く墓地もあったのですが、私は掃除の仕方も分からない中、施設で生活している小学校高学年と中学生の子どもたちは例年の事なので言われた仕事を一生懸命にしている中、私は何をして良いのかも分からず、尚且つ12月の伊吹おろしが吹く中で「みんな良く頑張るな。」と思いながらその当時な文字通り世間知らずの26歳と言う事で両手をズボンのポケットに入れて見ているしかなかった私の姿を確認した経営者の方から機関銃の弾が飛んでくる様な勢いで怒られました。

しかしながら、何をして良いか分からないでいた私の気持ちも分かって欲しかったと今でも思っています。

だから、当法人では新しく入職した職員に対しては先輩職員が指導していく体制を取っています。

蛇足的ではありますが翌年からの大掃除については子どもたちに指示を出しながら楽しく出来る様になりました。

勿論その様になるために施設においての先輩である中学生に教えを乞う事はしましたよ。

学習にはバイパスがある

昨夜は疲れがあり過ぎなのか睡眠が浅く、浅い眠りの中で色んな事を考えていたのだと思うのですが、そんな時の記憶は殆ど朝の目覚めと同時に忘れてしまうのが常なので(わたしの場合はですから違う方もあるとは思うのですが)「この事を明日のコラムネタにしよう。」と言う事で、半分眠ったような状態ではありますが、携帯に打ち込んだタイトルが『学習にはバイパスがある』と言う事で、本日のコラムにしました。多分、色んな事を考えている中で、私が26歳から38歳まで児童養護施設の指導員時代の事を想い出していたのだと思います。そして「これはコラムネタにしなければ」と言う事で、携帯に打ち込んであったので忘れる事無くコラムネタにした次第です。

『学習にはバイパスがある』と言う言葉は、私が児童養護施設の指導員時代に、神戸大学の先生がその当時書かれた本の中の一文の中にありました。神戸大学の先生が書かれた意味を、児童養護施設の指導員時代の実践の中で経験したお話です。

その当時小学1年生の男子児童で、1年生にしては体の大きな子だったのですが、その当時小学生低学年男子担当の保母さん(今は『保育士』と言いますが)から、「全くひらがなが書けない子がいてどうしたら良いでしょうか」と言う相談を受けた時に、正直私も答えを持ち合わせていなかったので、「一先ず小学1年生の子は学校から早く帰ってくるので、私に預けて下さい。」と言う事で、一先ずひらがなが書ける様になる為に、私が最も苦手な忍耐を持って指導する事にしました。

「自分の名前が書けるようにしよう」と言う事で、来る日も来る日も名前を書かせる事にしました。最初の内は『鏡文字』になってしまったりしましたから、私が書いた文字をなぞる事から始めました。正直私も途中で投げ出したくなるような状態でしたが、3カ月近い月日をかけて五十音の内の25文字を「自信を持って書けるようになったな」と思っていたら、残りの25文字は2週間足らずで書ける様になった時に私は「『学習にはバイパスがある』と言うのは本当だ」と思ったのです。そしてその男子児童は、そのことが自信につながったのだと思います。自分で出来る事は進んで出来る子になりました。そして私の『忍耐力』も培われたと思っています。

蛇足的ではありますが、改めて『学習にはバイパスがある』と言う事の説明をします。基本的な事を理解するベースを構築するのは大変だけれども、基本がしっかりしたら、次へのステップはスムーズに行くこと言う事です。私も勉強が苦手で出来なかったのですが、児童養護施設の指導員時代に中学生や高校生に勉強を教えなければいけない立場になった事により、色んな方に迷惑を掛けながらも必死に勉強に取り組んだ事により、今の私があると思っています。『人生に、もしもと言う事は無い』のですが、あの当時の頑張りが今につながっているとも思っています。

「お」「も」「て」「な」「し」

どこかで聞いたフレーズですが、介護事業にも相通じるところがあると思い、今日のコラムのテーマにしました。

『おもてなし』と言うのは「誰かに言われてするのではない」と言う意味では、これと同じように言われているのが、四国の文化として脈々と続いている『おせったい』と言う言葉だと思っています。どちらの言葉も日本の文化に根付いたものであり、日本が誇るべきものだと考えています。「介護事業に相通じる」と言ったのは、当法人の理念の一つに『お世話するもの、されるものではないと言う構図でなければいけない』と言うのがあります。つまり、「相手の方がいかに安楽であり、有意義な生活を過ごして頂くか」と言う事です。その為には、相手の方の事を理解した上でプランを立てて、その通りにお世話する事です。

『おせったい』をして頂いた時の話をします。私が大学生の時に、50人の学童を中心にした団体の責任者(先達と言います)の一人として参加した、全て歩いての土用団参での事です。あまりに暑くて歩くスピードが遅くなった時は、口数も少なくなっていたので、大きな屋敷の車庫に車が無かったので、家の方に許可も取らずに休憩をさせて貰っていた時に、家の方が飛んで来て「責任者の方は」と言われたので、「私が責任者の一人ですが」と答えると「何人いるのか」と言われたので参加者の人数を報告すると、家の方は「15分くらい待っていてくれ」と言われて、屋敷の中に停めてあった軽トラでどこかに行かれました。そして15分もしない内に戻ってこられて「アイスクリームをみんなで食べてくれ」と言われたのには驚きもありましたが、感謝でしかありません。その方が言われるには「今どきこんな暑い時に歩いての団体で、しかも小中学生の子どもも沢山いて感心した。私が出来るのはこの程度の事だけれども『おせったい』が出来たのは嬉しい限りだ。」と言われたのは今でもしっかり記憶しています。損得無しに、或いは掛け値なしの行為だった事を私は今でも心に大切に思っていますし、私の今を育てて下さったものの原点だとも思っています。

私は介護事業を開始して27年の月日が流れましたが、事業開始の日から片時も携帯を離しません。入居者さんに何か異変があり連絡があった時に、速やかな対応をしたいからです。そんな話をすると「大変だし、ゆっくりやすめないでしょう」と言われる方がありますが常に「そんな事はありません。それよりも連絡が無くて悔しい思いをする方が嫌ですから」と答えます。今は多様化の時代ですから「みんながそうすべきだ」等とは言いません。でも、『相手を思いやる心』は日本の文化として永久に残していきたいと考えています。リピーターの皆さん、私はこんな人間ですが今後ともよろしくお願いいたします。

本日は本部施設4か所においてお参りなのですが

令和7年8月24日

午前中の2か所を終えてコラムを打っています。2か所目の本館2階のお参りを終えていつもの事なのですが入居者さんに向けてお話をさせて貰っている時の話です。お経自体はそれぞれ約30分位なのですが最初のお経である正信偈と御文さんを皆さんと唱えたあとコップに用意してある水を頂き喉を潤す事にしています。

1階のお参りを終えてお話をさせて頂く前にもお水を頂いてからお話をさせて頂き階段で2階に行くと1階より遥かに多い入居者さんが待っていて下さったので1階の時より気合を入れてお経を唱えさせて頂き、1階と同じくコップの水を飲もうとした時に1階とは違ってコップの水は氷が入っていて喉を通る水が冷たくて美味しく感じました。お経を終えて2回目の水を飲む前にお盆の所にこれまた用意してあったおしぼりで顔を拭って感動しました。と言うのはおしぼりが気持ちよいくらいに冷たくしてあったからです。

私は2度目の水を頂いたあと『氷入りの水』と『冷たいおしぼり』の事を入居者さんに話しさせて頂きました。と言うのは水とおしぼりを準備してくれた職員のさりげない行為が嬉しかったからです。1階の水は『業務としての対応』であり、2階は「理事長が大きな声でお経を唱えてくれるし、お経とお話の後に気持ちよくカラオケを歌って下さると入居者さんが喜んでくださるので、少しでも理事長さんに快適さを感じて貰えたら」との思いが私に伝わってきました。

そこで、冷たいお手拭きで顔を拭い冷たい水を頂いた事を正直に入居者さんへのお話で伝えました。つまり、「相手の方に出来るだけの事をしたいと言う思いを持っての行為は嬉しい事だ」と言う事を。この行為も『気付きの一貫』だと思っています。2階でのお参りとカラオケ(『恋の季節』と『浜防風』)を終えて1階のフロアに戻って行った時に車椅子に座っている入居者さんが素足で靴も履いていないにも関わらず誘導をしようとしている外国人介護職員に対して、「素足ではぶつけた時のリスクは増すしフットレスの上に素足では駄目ですよ」と注意しました。

単なる業務としてでは無くて「自分だったらどうなの」と言う事を考えれば相手に対する配慮が出来ると思うので、『単なる業務では無い専門性を持ったケアについてしっかりとした指導をしていかなければと考えています。リピーターの皆さんもお気づきの点がありましたらどんどん教えて下さい

『寄り添いケア』について述べる事にします。

令和7年8月23日

昨日のコラムで「家での生活が出来なくなった入居者さんへの当法人の考え方」について述べましたが、基本的な考え方の中で『寄り添うケア』について本日は語らせて頂きます。随分前の事になりますがその当時三重県老施協も役員の方から『「寄り添いケア」について職員に話しをして暫くしてから若い職員に「寄り添いケアを頑張ってる」と聞いたら「先日、入居者さんの隣で添え寝をしました。」と元気に応えてくれたので、「少し意味が違うんだけどね」と言う話がありました。確かに問いかけた役員の意図とは違いますが当法人の本部施設においても同じような事がかつてありました。

それは看取り期に入っていた入居者さんの状態がより厳しい状態だと感じたので「何か起きたら」と言う事で若い職員だったのですが添い寝をして暫くしたらやすらかに文字通り『眠る様に』ご逝去された事がありました。三重県の事例と当施設の事例の違いをリピーターの皆さんは理解して頂けますでしょうか。三重県の事例は『単に恰好から入った事』であり、当施設の事例は『何かを感じて』の出来事だと言う事。

つまり、平生の対応の中で入居者さんの状態をしっかりと把握しての対応こそ『寄り添いケア』と言う事では無いかと考えています。先般行われた『特別養護老人ホーム優・悠・邑 和合』での月1回の全体会において『気付きの大切さ』を理事長・施設長としてしっかり話をさせて貰ったのですが、『気付き』の積み重ねの集大成の中から『寄り添いケア』の確立が出来、入居者さんから素敵な笑顔が頂け、職員のやりがいに繋がっていくと考えています。

一生懸命に頑張っている職員が正しい援助方法をしていなくて腰を痛めて介護の世界から離れていくのも悲しい事だし、結婚を機に給料が少なくて異業種の世界に行ってしまうのも悲しい事です。正しい援助方法は時間を掛けて根気よく教えていかなければいけないし、収入を上げていく事はしっかりと国に訴えて行かなければとも考えています。リピーターの皆さんのご理解も宜しくお願い致します。

インターネット情報でこんなのを見つけました

タイトル『「帰りたい」要介護の父、《入所3日》で泣きながら電話…面会に行った長男が「言葉を失った理由」』を見た時に、「凄く気になるテーマだ」と言う事で、原稿を読んでいく内に思う事があったので本日のコラムで書くことにしました。

書き出しの文章に【高齢者の施設入所は、「安心」と引き換えに日常の自由や人とのつながりを失うリスクもはらんでいます。身体のケアが整っていても、精神的なケアが十分でないと、入所後に孤独感や不安を深めてしまうことも。家族の支え方やコミュニケーションの取り方によって、その後の生活の質が大きく左右されることがあります。】とありました。この前文については介護事業を展開している私にとっては「当たり前の事」なのですが『忙しい』と言うのを隠れ蓑にして『手抜き』の様になってしまってはいけないし、『家族の協力があってこそ』の施設運営だと私も考えています。

つまり、入居者へのお世話は施設の職員だけで完結するものではないと考えています。その為に家族会を組織して色んな企画に対して参加を促していますし、面会についても積極的にして頂ける様な情報提供をしています。そういう意味ではコロナ感染症対策の為に面会等の規制をしなければいけなかった時期は厳しい状況があった分、職員は良く頑張ってくれたと思っています。その後のみだしに『「やっぱり家がいい」・・・父の涙のワケ』に私は「正直私だって絶対、施設よりも家で面倒見て欲しい」との考えはあります。

しかしながら「色んな理由で入居しなければいけない方々なのだからこそ、家では出来ないような楽しみと日々の生活安心な展開をしていかなければいけない。」と考えています。そう言う意味で当法人の考えの中に『今日一日楽しかったよ」と言うのがありますし、その展開こそ大切だとも思っています。次の見出しには『孤独を防ぐため・・・家族にできるサポート』とありました。

冒頭には述べた様に家族のサポートは大切です。そこで、色んな事情で家庭介護での限界が来た時には『デイサービス』や『ショート』を上手く活用することが必要ですし、比較的介護の度合いが軽い方はグループホームやサービス付き高齢者向け住宅の選択も有りだと思いますし、家族に対する相談事を『地域包括支援センター』にしていく事も大切だと思います。最終的にいよいよ特別養護老人ホームに入居されたとしても、家族との絆は大切なので、決して特別養護老人ホームに入居されたとしても関りを持ち続けて頂きたいと考えています。勿論、施設側も精一杯の対応をするのは当然の事と思っています。

ただし、コロナ感染症対策後に良く言われた『エッセンシャルワーカー』の評価を高める機運が高まった様に思ったのですが、現実には賃金が全国平均で月83.000円も低いと言うのは如何なものかと思っているのですが。

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