2025年07月の記事一覧

30cm程度の津波でも怖いと言う事を理解しました。

昨日はテレビを点けると、テレビの画面には日本地図に『津波の危険地域』が色分けして表示されています。情報によると『30cm程度』との報道だったので、昨日18時からの本部施設の全体会の折り、リスクマネジメントの専門家である法人顧問であり『びわこ学院大学』教授の烏野猛先生の話の中での質問を、私がさせて貰いました。その質問とは「津波情報の中で30cm程度との報道がされているのですが、30cmでも問題にしなければいけないのですか」と大いなる疑問について聞いてみたところ、烏野先生からの解答は「第一波が例え30cmでも第二波、第三波と来た時には大きな波となるから、注意看過されるのだと思います。」と言う事に、私は半分理解出来て半分理解出来ないところがありました。

そんな中で、全体会が終わり我が家で遅い夕食を頂いている時にテレビを見ていると、正に私の疑問を解き明かす様な実験がなされていました。それは「30cmの津波に大人が耐えられるか」と言うものでした。屈強な男性が両手で上から吊るされているロープを持って立っていて、30cmの津波を想定した水を勢いよく流していて、僅か30cmの流れなのにロープにしがみついていないと流されてしまう様な状況だったのです。その画面を見た時に疑問は解けましたし、タイミングの良い企画だったとも思いました。

実験を見て思ったのは、確かにカムチャッカで起きた地震による津波が一日もかからず沖縄まで到達しているのだから、凄い勢いで押し寄せてきているのだから、例え30cmの深さであっても大変な事なんだと改めて理解しました。そう言う意味では、東日本大震災の時の津波は40.5mを記録したと言う事なので、正に『未曾有の津波』と言っても過言では無いと思いました。

岐阜県は『海なし県』なので、万が一にも東南海を襲う地震の時には、受け入れ側としての備えを盤石にしていく必要があると考えていますし、準備をしておけば違う形で災害が起きた時にも役に立つと思っています。どちらにしても災害に見舞われたところに対して、お悔やみ申し上げます。

伊東市長の動向に色んな報道がされていますが。

令和7年7月30日

私は一方的な報道での情報だけですので正直コメント出来るような立場では無いのですが、敢えて意見をさせて頂きます。先ずは一番疑問に思うのは田久保市長が何をしたいのか、何が言いたいのかが全く理解出来ないと言う事です。端的に言えば「意味不明」と言う事です。だってそうでしょう。自ら東洋大学に出向き『除籍』だと確認したにも関わらず「卒業証書が金庫にしまってある。」と言うのは摩訶不思議な話です。

最も私が懸念しているのは「市長と言う立場は市の方向性を導く立場なので一日と言えども空白を作ってはいけない」と言う事でましてや伊東市民からのクレームが多く来ていてその対応で職員の本来の仕事が出来ないと言う職員からの切実な訴えに対して「クレームは市長自ら対応する」と言う発言に対して「そこかよ」と正直に思った次第です。現職の市長としては先ずは自分で蒔いた種を自ら刈り取る事が肝要だと思うのですが。

識者と言われる方の中には「大学を卒業したか除籍になっていたと言うのは大した問題で無い。」と言う方や「日本の大学は入学するのは大変だけれども卒業するのは大した事では無い」等とマスメディアを通して発言されている方が多々見えたのには正直腹が立ちました。その理由を具体的に言うならば、「論評している方は大学時代にそれ程努力しなかったけれども卒業できたから除籍でも退学でも関係ないと言うのは家庭の事情で或いは心身の病気等で大学を辞めざるを得なかった方に対して失礼だし、『私は卒業したけど何か』と言う上から目線だ。」と思います。

市長の弁の中に「司直に判断を任せているから議会での追及は受けません。」的な発言にも違和感を覚えています。と言うのは「犯罪で無ければ何をしても何を言っても許される」と言う世相を反映しているように思うからです。私が好きだった番組で『半沢直樹』と言うのがあり、その中でも「証拠があるのか証拠が」と言うフレーズがありましたが、田久保市長がそのレベルだとしたら伊東市民は気の毒だとも思います。私の勝手な捉え方ですのでご異議があれは教えて下さい。

私にとって『大変な事』とは何だろうかと考えてみました

児童養護施設の指導員をしていた時に、夜遅くまで子ども達と向き合って学習指導をしていた時代に、「毎日遅くまで勤めるのは大変だろう」と、同じように指導員をしている他の施設の方から言われましたが、私は決して格好を付けるわけでもなく「楽しくやっていますよ」と答えたものです。それは、自分で決めた事だから『大変』とは思わなかったのだと思います。児童養護施設の指導員を退職してフリーでいた6年間も、若山家の経済状態は火の車でしたが、自分の中に目指すものがあったので決して『大変』とは思わなかったです。6年の内の後半2年間は、特別養護老人ホーム事業開始と言う明確な形が見えていたので『ワクワク』の毎日だった様に思います。

初めての施設が本部本館で完成しての平成10年5月15日の竣工式典の時には、ワクワク感がピークで舞い上がっていたと思います。但し入居者さんの事が理解されて無い中での職員の対応の中、救急車の対応も正直頻繁にあり、夜間の対応も多く、対応を終えてから引き続き仕事する事も多々ありましたが、44歳と言う若さで乗り切れましたし、『自分の役割』と言う事で決して『大変』とは思わなかったです。但し近所の方から「救急車が度々来るのは煩くて困る」との苦情には、申し訳ない気持ちで一杯でした。しかしながら、今では地域の家での救急対応はたまにありますが、本部施設での救急対応はほぼ無くなりました。

月間スケジュールを月末にパソコンで作成して、職員が誰でも見られる様にしているのですが、先ずは対外的な予定を入れて、次に3施設での予定を入れてから空白になっている所に和合の施設での、午前はお参りを午後にはカラオケを入れています。私自身の予定は月1回の内科受診の診察と、3カ月に1回の泌尿器科の受診くらいでしょうか。でも、8月12日は父の命日とお盆供養のお参りで休みを頂き、その日に合わせて次男ファミリーと昼食を我が家でとって、孫2人の顔が見られるのを楽しみにしています。

私の生き方は他の人から見ると『大変だろう』と言う事になるのでしょうが「自分で決めた生き方が全うできる喜び」の方が強いので、私の辞書には『大変の文字が無い』と言う事なのだと思っています。この考え方は、他の人に強要する事ではありませんが、私に課せられたものを形にして行ける喜びを満喫しています。そう言えば児童養護施設協議会の調査広報委員会に所属している時に、石川県にある自立援助ホームの取材に行った時の施設長さんに「大変な事は何ですか」と聞いた時に、長い沈黙の後「う~ん。大変な事って何かな~。」と言われた時の驚きを思い出しました。と言う事は私も今はその域なのかな。

吉田宏岳先生との出会い以降のお話

児童養護施設指導員を退職してフリーになったと同時に、大垣女子短大幼児教育科の非常勤になり、週に2日は短大での講義と週3日の家庭教師の仕事の他に、不登校の中学生に対してフリースクールの様な形での展開の中で、不登校の親の会も主催していました。意気込みは凄いものがありましたが、実際には、若山家の家計は文字通り『火の車』状態でした。

そんな中で、月1回の割合で、名古屋鶴舞にある日本福祉大学中央福祉専門学校の校長先生であった吉田宏岳先生が主宰されていた『教育と福祉を考える会』と言う学会に、児童養護施設協議会でお世話になっていた先生に連れて行って貰い、最初の頃は大学の教授クラスのお歴々ばかりの中で、文字通り末席に座っていたのですが、ある時吉田宏岳先生のご自宅に行かせて貰い、吉田宏岳先生が真言宗豊山派の住職である事を知り、そんな中で四国遍路に吉田宏岳先生をお連れしてからは、何かと可愛がって貰いました。具体的に言うと、吉田宏岳先生からの声掛けにより、非常勤のコマ数は週13コマに増えて、大学等で使う教科書の執筆にも多く関わらせて頂きました。平成9年7月17日に社会福祉法人杉和会が認可された時には、筆頭理事も引き受けて下さり文字通り『後継人』の様な存在でした。

そして、最後の『師匠』は何と言っても中村博彦先生です。平成10年5月に事業開始をして8年の経過で、全国老施協総務委員会幹事に就任してからは「馬鹿じゃ、阿保じゃ、とろくさい」と言われながらも、官僚との接し方や業者との対応の仕方、将来に渡る展望の考え方まで、徹底的に教えて頂きました。この他にも言い出したら枚挙に事書きませんが、色んな場面で色んな方の協力を得てきたことは間違いありません。

この様に、色んな方にお世話になれたのは何故かと考えるに、例えば研修会に参加した時に講演をされていた方が、演台から降りていけたタイミングで名刺を持って挨拶に行き、親しくお話をさせて頂き、研修から帰ってから手紙を書きます。書いても返事が無い場合はそれまでですが、大抵は何らかのアクションを起こして下さいます。その後は何か聞きたいことがあると聞くようにしています。

最近も介護労働安定センターの理事長さんが和合の施設に来て頂いたので、私が執筆した岐阜新聞の『素描』と共に手紙を送りました。その後のアクションはこれからですが、楽しみにしています。私の生き方はこんなスタンスです。ご理解頂けたら嬉しいです。

今の私があるのは温かく支援して下さった方が多くあったから

何と言っても生まれてから中学1年までは(何度も書きますが)母秋江さんの『溺愛』があります。

その後高校1年までは長姉光子の『母親替わり』プラス次姉春子さんの後方支援があった事。

高校2年4月からの1学期間は凧の糸が切れた状態の中『木の上に立っていた』父進さんが『木の上から降りて』のフォローをしてくれ、その年の夏休みが始まった時に『熊のような風体の鉄砲打ちの伯父さん』が四国団参に導いてくれ、その経験から「人の役にたつ」を志した私は10月に改選される生徒会会長選挙に出て一生懸命に汗をかいたつもりでした。が、現実には自分の思うような展開にならず、職員会議でも物議をかもすような事もあったのですが生徒会顧問の先生が上手く収めて下さることも度々でした。(この展開は文字通り『出る釘は打たれる』と言う事でしょうか。)

大学時代にも自分では正しいと思う活動をしていく中で私がした行為が大学の教授会で問題になった時も私が所属しているサークル顧問の先生が毅然と私の行為を擁護して下さり収めて頂きました。

その先生とのご縁は私が大学を無事に卒業してからの事ですが先生の奥様から「主人が癌に侵され爪が茶色になっていて癌には『猿の腰掛』が効くとの事。若山さんの所は山鹿なのでもし手に入るのなら送って欲しい。」との手紙を頂き、私が取った行動は我が家の玄関先の紅梅の古木に出来ていた猿の腰掛けをしっかり乾燥させたのがあったので、即座に藤沢市のご自宅まで届けました。

大学を卒業して教員になっての校長先生は校長として赴任される前は教育センターに所属されていた方だったのでフラフラの新米教師の私が心配で毎日の様に廊下から私を見守って下さっていました。(9月の西濃教育事務所の課長指導以降はピタッとなくなりました。)

児童養護施設の指導員になった時には教員時代に学んだ事の実践をする場となり、38歳で『自分なりの思いで福祉を全うしたい』と言う事で退職をして大学等の非常勤講師や家庭教師等を行いながら自分で出来る事を頑張ろうとした時も現実はそんな甘いものでなかった時に児童養護施設協議会活動でお世話になっていた理事長さんが支援をして下さり、その当時中部地区の福祉の重鎮だった吉田宏岳先生との出会いを頂き今の事業でと繋がっていきました。

それ以降もお話をしたいことがありますので明日に続けます。

人は人生のどこかで帳尻を合わせなければいけないものの様です

令和7年7月26日

私の人生の中で大学を5年で卒業するまでの生き方は『努力』と言う言葉は全く無縁で周りの人に庇護されるだけだった様に思います。今の学校では夏休みの課題なるものは殆ど無いと聞いています。しかしながら私が小学生であった60年以上前には日記、工作、読書感想文それから『夏の友』なるものに自由研究と言うのもありました。日記は毎日書けばさほど大変ではないと思うのですが全く書いてなくて夏休み終了まで「あと3日」と言う状況で書こうとすると大変なものです。(経験された方でないとなかなか理解して頂けないと思いますが)工作とか絵は全く苦手だったので(今もそうなのですが)姉春子さんに殆どして貰いました。(鬼の形相で手伝って貰っていて怖かったのですが「その節は大変お世話になりました。」)読書感想文は中味を読まずに編集後記に書いてあるところを適当に書いていたように思います。

この様に全く『努力』などしなかったのであります。ところがそんな甘い生き方をしていた私が社会人になった途端に因果応報の様な現実に出会ったのは大学を卒業して教員になって4年3組の担任になった6月に『校内研』の時に子ども達からは慕われた存在だったと思うのですが授業の下準備が全く出来ていなくて正直全くダメで落ち込んでしまったのですがそれ以降は家にいる時も無駄な時間を無くして事業の準備に注ぎこんだ毎日でした。

そんな中その年の9月に西濃教育事務所の課長視察があり、私の授業を見て貰い6月とは違って高評価を頂いた時に正直初めての経験として「努力は報われる」との経験をしました。その後児童養護施設指導員になり、夏休みの課題を一緒に取り組んだ時に、読書感想文など書けない子の感想文は小学1年なら1年生になった様に書いて清書だけ本人に書かせたりしたものです。

その時の経験から「相手の身になって」の考え方が出来る様になったので私にとっても良い勉強になりました。『甘ちゃん」だった私が「人の為に役に立つ」と言うのは高校2年の時に四国遍路に巡り合ってからですが、児童養護施設指導員になり親の支援が受けられることがとても有難い事だと理解してから、そして今は高齢者施設の経営をしていて困っている方の役に立つ事が出来る幸せを知ってしみじみ思う事のは、母秋江さんから溺愛を受け、父進さんからは文字通り『木の上に立って見る』愛情を注いで貰い、地域の方からも一杯優しい声掛けをして頂いたし、『師』と仰げる方にも多く恵まれたお陰です。

まだまだ完璧な姿にはなっていませんがこれからも一杯頂いた『恩』に報いる為に頑張っていきたいと思っています。

横綱大の里について

初土俵から13場所で横綱に昇進した大の里について私なりの勝手なコメントをします。勿論私自身は相撲の事もましてや大相撲の事も何も知らない中でのコメントですのでズレたコメントであってもお許し下さい。

先ずは初土俵から13場所での横綱昇進は過去にないとの事ですから『とんでもない逸材』である事は間違いないと思います。勿論192cm、191㎏と言う恵まれた体の持ち主であり身体能力も高いのだと思います。横綱に昇進しての初めての土俵でも初日を無難に勝利して「向かうところ敵なし」と言う圧倒的強さに感心していたのですが、本日の取り組みも入れて既に3敗をして2敗の力士を追いかける状況に「初日の圧倒的な勝利からは予想も出来なかった状況」に改めて横綱の立場の難しさを感じています。(そんな単純な事ではないのでしょうが)

そこで学生時代(日本体育大学相撲部)の記録をパソコンで検索してみました。そうすると大の里の偉大さが見えてきました。と言うのは大の里が大学1年の時にことごとく優勝して「向かうところ敵なし」の様な状況だった様です。ところが2年生になって多くの猛者から研究されスランプに陥ったと言う事でしたが1年後の3年生からは文字通り向かうところ敵なしで大学卒業後に幕下10枚目でデビューしてからはトントン拍子での横綱昇進での今場所と言う事だと思います。横綱と言う存在は相撲界の頂点であり、ましてや、もう一人の横綱豊昇龍が早々に休場したので『一人横綱』として頑張らなければいけないのだからプレッシャーも計り知れないものだと思います。横綱が負ければ勝った方には金星としての特典があるので、学生時代の研究されてのスランプ以上に厳しい状況があると思います。しかしながら学生時代にも克服した経験がある大の里は恵まれた体と身体能力で現状打破をしてくれると信じています。負けがつくと「何故ここで引き技を出すのか、悪い癖が出て」等と言われていますがまだまだ若い横綱ですので堂々とした勝負の中で打たれ強く頑張って貰いたいと思っています。

明日は本部施設においてデイサービスの監査があります

デイサービスに特化した岐阜県の監査は、事業開始の1998年から考えても初めての事ですので、「何を見ていかれるのか」が皆目分からないので、本日は午後からデイサービスの責任者に対して、私が『監査官』になって『模擬監査』を実施しました。私自身『受ける立場』ではなく『実施する立場』になると、『受ける立場』では見えてこなかった事が見えて来て「これはこれで有意義だ」と思った次第です。

本部施設のデイサービスは、特養に併設された施設なので、特養と一緒になっての企画も多く、お風呂の設備についてもデイサービス単独の事業所よりは、遥かに充実している事を前面に出しての事業展開です。と言う事は、例えば研修一つとっても、特養の企画と共に実施すればかなり密度の濃いものになっていると思います。また、ボランティアによる企画も相乗り出来るメリットがありますし、イベントにしても規模の大きなことが出来ます。ただし、特養と比べたらデイサービスの職員の数は遥かに少なく、デイサービスの職員が何もしなくても実施出来てしまう事も起きてしまうので、その点については留意しながら、役割を明確にしながらの展開を心掛けています。

記録にしてもしっかりと対応している事を確認しましたので、当日の監査はスムーズに出来ると思っています。スムーズに終わらなければ、午後からは13時30分スタートで岐阜県福祉会館において、岐阜県健康福祉部の福祉担当の関谷次長さんを始め、高齢福祉課の主たる職員と岐阜県老施協正副会長委員長との懇談会があるので、遅くても12時には終わって貰って懇談会に行かなければと思っています。

午前も午後も大切な事ですので気合を入れて挑みたいと思っています。

80歳を前にした高木さんのカラオケ

月1回の割合で地元藤下地区の高木さんとの『ジョイントカラオケ』と銘打ってのカラオケに本部施設に来て頂いています。

いつも思う事なのですが「私よりも8つも年上なのにしっかりとした声で歌ってみえるな。」と思うと共に『一人カラオケ』にいって音階を確認に行かれていると言う事にも感心していたのですが、残念ながら先月は体調を崩されていて高木さんとのジョイントカラオケは中止にさせて貰っていて「今月は元気に来て貰えるのか」と心配していましたが、先週16日に参議院選挙の応援で垂井文化会館で元気な姿を見たので「ジョイントカラオケ宜しく」と声を掛けると高木さんから「声が出ないか心配で一人カラオケに行って3時間歌ってきたら高得点ばかりだしたので大丈夫だと思います。」と言われたので「あいからわず凄いパワーだし、この実直さは見習わなければいけない」と思いました。

高木さんの事を『気難しい人』と評価される方がありますが、私は「是は是、非は非」との純真な心の持ち主だと思っています。

と言うのは引き受けた事には『完璧で挑む』と言うスタンスは素晴らしいと思っています。

私より8歳も年上の高木さんが素敵な歌を皆さんの前で歌って下さるのだから、「8歳年下の私も負けられない」言う事で頑張って歌いたいと思っています。

元気で頑張れるのは入居者さん、利用者さんを始め多くの方が応援して頂けているからだと思います。

と言う事で「感謝、感謝の毎日」なのであります。

 

 

 

気づいた事の報告を

本日10時から和合の施設で全体会がありました。全体会の冒頭に理事長である私から1997年7月17日の法人設立に合わせて勤務10年と5年の賞状と金一封を手渡しました。次に責任ある立場の職員から色んな報告がされて課題の共有化に努めて貰いました。その中でエアコンの使用の仕方であったり、事故報告であったり、褥瘡についての報告がありました。

私はどの課題についても共通項があると思いました。つまりはキーワードで表すならば『気付きによる報告・連絡・相談の大切さ』と言う事で総括しました。『気付き』と言う言葉を理解出来ないといけないので最後の総括で私なりの解釈を話しました。エアコンの件については「この温度設定と強さで良いのか」と言う事を考えて気が付いた事を報告して対応すると言う事の大切さを話ししました。事故報告の件数については、事故報告の6件なのに、ヒヤリハットはゼロと言う報告に「いきなり、事故になることは考えにくいので事故になる前にヒヤリハットが出る様にしていく事が事故を防ぐ事にある。これも気付きの問題だと思います。」と言う事です。褥瘡について言うなら、褥瘡の確認をするのに一番わかりやすいのはお風呂に入って貰う時に身体のチェックをして傷や痣の確認をして早くに対応したら、重症化しないで済むのに報告が遅れるとなかなか治りにくくなってしまうので、確認したら直ぐに報告するのも『気付き』として大切な事だと話をしました。

「言われていない業務だから関係ない」と思って報告をしなかった事により、大変な状況になったら余計なエネルギーを使う事になる事を理解した展開をすると『寄り添いケアの充実』に繋がると思うのですが。

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