2025年02月の記事一覧

悩ましい天気予報

令和7年2月18日

天気予報では寒冷前線が居座るような事を言っています。本日リモートで『岐阜県外国人介護人材対策協議会』が10時から実施されるので当初は「本部施設で会議を終えて昼食を食べてから岐阜県福祉会館で13時30分から行われる岐阜県老施協総務委員会の会議に出掛けよう。」と考えていたのですが、朝7時の我が家での窓越しでの外の状況は『激しい雪』と言う事で『方針変換』と言う事で「明日は10時から岐阜県健康福祉部の次長さんらとの懇談会があり、雪の為に参加出来ないのは老施協会長として許されない。

だから和合の施設で今夜は泊まりにしよう。」と言う事で、急遽泊まる準備をしてリモートでの会議は和合で対応することにして取り合えず和合に向かい、今はリモートの会議を終えて、福祉会館へ行く途中のコンビニで昼食を買って老施協事務局で昼食を食べさせて貰ってから会議に挑むことにしました。総務委員会も無事に終えて和合まで帰る途中で夕食を購入して、上智大学のまとめの講義に昨日同様参加させて頂きました。

昨日に「居室にいる入居者さんの所で話をして頂きたい。」と言っておいたのですが、「流石にキャリアを積んだ受講者さんばかりだったので、それぞれに工夫をして頂いたからだと思いますが「それぞれに上手に話を聞きだされている」と思ったので、私のまとめの話では「入居者さんたちはいつも以上に幸せな時間を持って頂けたと思います。」と感謝の意を示し、本日は和合で泊まらせて頂けるので大垣駅前のホテルに泊まられる方をお乗せしてお送りして、誰もいない事務所でこのコラムを打っています。

この後はゲストルームに布団を敷いてから理事長室に行き一人で夕食を頂きます。一人ではありますがお酒も少し頂きたいと考えています。お酒は本日一人での夕食でも明日が頑張れるようにとの『ご褒美』と言う事ですので、基本的には家での晩酌はしない私ですがリピーターの皆さんご理解下さい。

上智大学の集中臨床実習・演習Ⅱの会場として和合の施設を提供しました

令和7年2月17日

上智大学の社会人学生の方が1週間の研修の内5日間を和合の施設を会場にして実施されます。昨日は上智大学グリーフケア研究所大阪サテライトで事前学習を終えた8名と指導者2人の方だ8時30分過ぎから順次お見えになり多目的室で9時から施設でのオリエンテーションが始まり、その後施設見学を私の案内でして頂き10時過ぎから11時までのお約束で私が話をさせて頂きました。

受講生の経歴を事前に確認させて頂いていて素晴らしい経歴の方ばかりなので「どんな話をしようか」と直前まで悩んでいたのですが「私らしさと私の生き様の中で話をしよう。」と決めて、直前ではありましたが簡単なレジメを作成してお話をさせて頂きました。「多分時間通りに追われないだろうな。」と思ったので『11時』にスマホのアラームをセットして話始めました。と言う事は最初から11時をオーバーする予定でのセットです。(実際に11時にアラームが鳴ったので5分の延長の許可を得て、5分でまとめをして話を終えました。

私の臨死体験や四国遍路での不思議な体験、入居者さんが亡くなった方の家族へのサポートや毎年6月と決めて実施しているかつての家族を招待しての供養祭への思いについて語りました。勿論私が今、社会福祉法人杉和会理事長として高齢者施設の経営と運営に携わっての考え方についても語らせて頂きました。

ちなみにグリーフケアとは【大切な人が亡くなったことなどにより喪失感、悲嘆(グリーフ)を抱える人に対して、その声に傾け寄り添い、そのプロセスを見守ることで、その人の回復や成長を支援する事。】と言う事なのでその役割は非常に大切な事なので私の話が100%その意に沿ったものかは分かりませんが、私なりに伝えられたかと思っています。午後からは入居者と受講者の方とのコミュニケーションの時間なのですが受講者の皆さんは一生懸命な方ばかりなのでしっかりとした傾聴がして頂けるものと思っています。

資料を頂いたのですが

令和7年2月16日

おむつを提供して頂いている会社から、年間の提供数を書いた統計資料を頂いたのを見ながら思った事を、正直にレポートします。正直資料を見た瞬間に「せっかく頂いた資料だけれど、この資料を生かす見方が分からない。」と言う事で「私の能力が低いのか」と言う考え方もありますが、私的には「資料の分析をしたものを頂かないと、私にとっては『絵に描いた餅』だな。」と思ったのです。「親切に頂いたものにケチを付けるのは失礼だ」との思いもあるのですが、私の正直な気持ちは「業者として最低限の仕事をしている。つまり、作業としての仕事をしている」と辛口な事を言いたいのです。

おむつの購入は、本部施設も和合の施設も年間にすると結構な額になります。そして、当法人ではおむつに対する拘りは、事業開始から26年の経過の中でも大切にしている事なので・・・。基本的におむつは誰もがしたくないものだけれども、快適に過ごして貰うためにおむつをして貰う、必要な方にして頂く。そんなおむつの存在だから『尿漏れ』などと言うのは決して許されない。だからこそ「しっかり鼠径部にフィットする商品の選定は大切な事」と考えています。限りある財源の中で、最適なものを無駄なく提供する為には、業者さんとのコミュニケーションと助言が必須だと考えています。

来月には来年度の予算を提案して、理事会及び評議員会の承認を頂いて新年度を迎えなければいけないので、改めて供給して頂いている業者さんに直接お会いして説明を受けることによって、無駄のない予算組みにしていきたいと考えています。勿論、おむつだけでは無くて、色んなものについても同様にしていきたいと考えています。法人の努力でねん出された予算については、法人のストック、職員の給与への反映及び入居者さんへの愉しみやゆとりの分に3等分していきたいと考えています。

一生懸命の中から学んだ事

令和7年2月15日

児童養護施設の児童指導員になった26歳までの私は『自分が無くて』周りに流されながらも何とか脇道に反れる事もなく生活できたのは生母秋江さんの『溺愛』を一手に受けながら長姉光子さんの母親代わりのガードを受け、高校2年生からは父進さんの加護を受けての日々だったと思います。

そんな私が26歳の時に旧徳山村で自由奔放な生活をしている時に「児童養護施設での仕事をしないか」とのお誘いを受けて「遠く徳山村まで来てのお誘いだから半年位はやってみよう」位の軽い気持ちで勤めだしたのが正直な気持ちでした。ところが実際に勤めだして分かった事は「頑張れば形になる成功体験をさせてくれる仕事」と言う事で半年ではなくて13年も勤務させて貰い児童から高齢へとの種別の違いはありますが、26歳から71歳の今もどっぷりと福祉の仕事に関わらせて貰っています。

45年もの長きに渡って(まだまだ進行形ですが)『行動の老施協』ならぬ『行動の若山』で『労を惜しまず』が出来たのは児童養護施設時代の無手勝流の展開で『指導しているはずの私が子どもから教えて貰っている』事ばかりだった様に思うのです。その事実を具体的に語っていきます。最初に経験したのは勤務について3日程度経過した中学生の集団学習(当時は3学年で13名だったと記憶しています。)でその当時1年生だった女子から「数学の計算問題を教えて欲しい」と言われて勇んで傍に行ってその問題を見た瞬間に「解けないから教えられない」と思った事から、かつての教員仲間の先生に教えを乞うようになった事によって『分からないところが分かるカリスマ指導員』のスタートを切りました。

その後、中2の男子が小学1年生の計算も出来ないと言う事実が分かり、その当時の養護学校の先生を父進に紹介してもらい教えを請いに行き、独自の教材の作り方を教えて貰い、一人ひとりに合う教材作りの大切さを理解しました。また、小学3年生で施設の来た男子がひらがなも書けなかったので、50音が書ける様に根気よく頑張らせました。

その時に分かった事は馴染みのある言葉から書けるようにと自分の名前から始めたのですが、50音の内25文字が書ける様になるのにかなりのエネルギーが言ったのですが残りの25文字は楽に覚えられた事に驚き、その時に私自身が確信したのは『学習にはバイパスがある』と言う事でした。この様な実績が見えてくると私一人でしていた事に対して保母(今は保育士と言います)さんからの協力が得られる様になり、小学3年生で習う『九九』を覚える事を職員が子どもに合う度に問題を出すと言う協力をして貰った事により楽しく覚える事が出来たのも愉快な思い出です。

子どもたちには限りない可能性があります。その目を摘むことをしないで延ばしていく事に全力を尽くす事の大切さを実践の中から理解出来たのは私にとっての誇りです。今は高齢福祉に全力で取り組んでいます。と言う事で入居者さんには今までのそれぞれの歴史を大切にして頂き毎日を精一杯謳歌してもらえる様に「今日一日楽しかった」を実感して頂ける様に頑張って行きたいと思っていますのでリピーターの皆さんもご支援よろしくお願いいたします。

昨日のコラムで「私の思いと違う」との意味を書きます

私は小さい頃、「虚弱で勉強が出来なかった。」と言う事は何度もこのコラムで書いているのでリピーターの皆さんはご理解されているかと思いますが、だからこそ『勉強で分からないことが分からない』指導者ではなくて『分からないと言う事が分かる』カリスマ的学習指導者だったと居直った言い方をしていました。

「分からなかったからこそ勉強が出来ない事を共有できた。」と言う事で『人生無駄なし』だと思っています。

中学卒であったが為に社会に受け入れられず反社会的な人生を歩んでしまった卒業生には殆ど何も出来ない無力さを知った私は「最低でも高校卒業の資格を取得させる」との決意をして『鬼気迫る指導者』に徹した12年間だったと思います。

私の勤務時間は14時から22時で週2回の休みと言う事でしたが、2年目からは基本的には休みを取らず午前中には出勤して一人ひとりに合った教材を手作りして、16時から18時までは小学3年生から6年生の宿題+本読みを見させて貰い、18時から19時は子どもたちと共に夕食を頂き19時から22時まで中学生の集団指導、それ以降の時間は時間を決めずにマンツーマン指導を行いました。

子どもたちは「若山先生がしてくれる事は僕たちの為にしてくれているんだから頑張るしかない」と言う事を浸透させるのに2年近くかかりましたが、苦労して高校進学出来た先輩から後輩に伝えられ私が子どもたちに引っ張られるような事もありましたが13年間全うすることが出来ました。

頑張っても公立高校への進学が難しい女子2人が「それでも高校へ進学したい」との望みを叶えたい。と言う事でその当時の理事長にお願いしたところ「その子らの努力が足らなかったと思うが若山さんが夜遅くまで頑張っている事に免じて私立の入学金は私が出します。」と言う許可を貰ったので本人2人に「初めての事だからあなた達が無事卒業できなかったら後輩たちへの配慮は出来なくなるので頑張るしかないぞ。」と話をしたのを今でも鮮明に覚えています。

その後、この2人の実績により県単事業の補助が付くようになったのは有難い事に違いありませんが、他の施設では私が所属していた施設のようなプロセスはなくて、何の努力もさせずに「この点数で行けるのはこの高校だ」くらいの指導で安易に進学させていたのか「先生が高校へ行ける。と言ったから行っただけや」と簡単に高校を退学する子が続出する現象に苛立ちを覚えていたからです。

本題の意が理解して頂ければうれしいです。

人材確保と育成で私が実現したいこと

令和7年2月13日

私は38歳まで児童養護施設の児童指導員をしていて、その後6年の経過の中で紆余曲折の結果44歳の時に生まれ育った関ケ原町今須において特別養護老人ホームの事業開始をして27年の年月が経ちました。その間に本館・新館・和合・和(なごみ)の事業展開が出来るまでになり、職員も200名を数える組織にまでなったのです。そんな中にあっても『児童養護』への拘りは今も脈々と流れています。

介護事業での大きな課題の一つが『人材確保と育成』です。私を大きく育ててくれたのは児童養護施設における子どもたちとの格闘です。その中でも26歳で勤務した年の卒業生の中で高校に進学出来なくて就職した子の中で社会に適応出来なかった子がいたことに違和感を持った私は「とにかく親を頼る事が出来ない児童養護施設の子たちには自らが鎧を纏える様にしなければ」と高校全入とそれ以上の学歴や資格を取れるようにと自分で言うのも変ですが心血を注いできました。

ある年には公立高校に進学出来ない子に対して、その当時の理事長にお願いして私立の入学金を出して頂き、その対応が評価されて、それ以降の子には岐阜県単独の助成金が頂ける様になり、ある意味「努力もしない子が進学出来る」システムが出来てしまいました。(今となっては私の思いと違う形になってしまいましたが)27年前は専門学校、短大、大学を卒業した者が当たり前の様に採用出来ましたが今は外国人材に頼らなければいけないのが現実です。

そんな中で私は児童養護施設から高校へは進学したものの簡単に退学した子を徹底した支援をして介護で一人前の職員にしていく事を実現したいのです。その為にはマッチングのルートをしっかり確立することも、キャリアパスの道筋も確立しなければいけません。幸い岐阜県児童養護施設協議会会長は私が児童指導員をしていた時に私を慕ってくれた方なので、私が熱く語る中で確立していきたいと考えています。

負の遺産を正に素晴らしい遺産にすることは並大抵の事では無いことは分かっていますが、土地も資金も無かった私がそれなりの事業を出来るまでになったのは児童養護施設時代があればこそ。恩返しの意味も込めて頑張りたいと考えています。『夢は形にしてこそ価値がある。』リピーターの皆さんの支援を宜しくお願いします。

杉和会の職員にも色んな特技を持っている方がいます。

盲養護老人ホーム優・悠・邑和なごみで9時45分からお参りと全体会があり13時30分から労働局主催の就職氷河期プラットフォーム検討会があるのでなごみの施設で昼食を頂いたのですが、その時に私用のお餅らしきものが特別にあったので食べてみるとあきらかに餅米ではないことは理解したのですがお餅の食感でいて餅のような粘りが無いので餅を食べたような満足感があり尚且つ安全な食べ物と言う事で作ってくれた職員に話を聞くと旧春日村の食べ物で材料は大根と片栗粉で作ったとのこと。作った栄養士さんの話では旧春日村の職員に聞いて初めて作ったとの事に感心しきり。尚且つ職員同士のコミュニケーションも素晴らしいと思いました。

入居者さんにとって有利な事は他の施設でも作って貰いたいので栄養士さんが一生懸命説明して貰っても私は右の耳から左の耳に抜けてしまうの直接栄養士さん同士でやり取りしてもらう事にしたいと思っています。

週刊現代の記事から

令和年2月11日

2月15日号の最終ページの特集に『朽ちる団地』「千葉・茂原市「「真名団地」」を歩く」のタイトルが目に飛び込んできました。

(原文のまま)【まるで下界からの進入を拒むかのように、広大な畑を隔てた小高い丘の上に無数の寂れたアパートが立ち並ぶ。巨大な廃墟群にしか見えないが、いまも住民が生活を営む市営住宅だ。名を「真名団地」と言う。1971年から造成が始まったこの団地は、約5万6000㎡もの敷地に建てられた。主に2階建てメゾネットタイプの棟を中心とし、平屋建てや4階建ても含めておよそ60棟、全299戸から構成されている。この団地を歩いてみると、恐ろしいほどに人気がない。(中略)現在ここに住んでいるのは平屋建ての8世帯のみ。大半が2DKの間取りで家賃は1万円を切る。2021年には老朽化により団地を取り壊すことが決定。今後は3月までに5世帯が転居、来年3月までに残り3世帯が転居する予定だ。

団地近くの一軒家に住む農家の女性が往時を偲ぶ。「ここは市内の団地の中でも一番人気で抽選待ちは当たり前、299戸すべてが埋まっていました。若い家族なんかも多かったですよ。(中略)」折しも高度経済成長期、全国各地で団地の建設が盛んにおこなわれていた時期だ。ご多分に漏れず、真名団地も郊外につくられたニュータウンとして隆盛を極めた。当時の茂原市には日立製作所や東芝などの工場が立ち並び、県内から多くの働き手が集まって賑わいを見せていた。】

(ここからは私なりのコメントをします。)『1971年』と言えば私が高校3年生の時です。日本が経済的に最も元気だった時代です。当然の事ながら大きな工場が立ち並べば『衣食住』の必要性は高まり、街自体が元気になるのは当然です。そこで私が高校生だった頃の事を思いだしていても、関ケ原町には大きな工場として当時の『日本紡績』があり、多くの若い女工さんがいましたが、現在工場は完全撤退しています。男性工員が多かった関ケ原石材や関ケ原製作所はかなり縮小されて、勤められている方は半減以下の状態です。と言う事は同じ様な事は起きているので、人口減は著しいのですが、『真名団地』の様に建てられたものがそのまま放置されていないだけ良いと思えるのか、茂原市は先の見込みがかなり甘かったのかはわかりませんが、特集記事の中で「幽霊はいないがイノシシは出る」の様な自虐的は言葉が書かれているのには、コメントのしようがありませんが、日本のいたるところにこの様な状況の所が多くあると思うと、バブルに踊されたつけはこれからも払いつずける事になるのでしょうか。

歌謡劇団『てるてる座』のショーを梯子しました

本日、午前10時から和合の施設で、13時30分から本部施設でボランティア活動をして頂くのですが『てるてる座』の座長から「スペシャルゲストで1曲お願いします。」と言われてその気になり和合の施設でも本部施設でも歌を披露することになりました。

和合の施設では理事長室に置いてある緑のジャケットに北島部長から借りたシルクハットの帽子で登場して『宗右衛門町ブルース』を歌いました。

ジャケットとシルクハットへの衣装替えなので簡単に準備出来たのですが、本部施設では黄色のヒラヒラのドレスに銀色のロングヘアのかつらを被っての衣装替えだったので出番は最後の方だったのですが早々に着替えをして、会場に行くわけにも行かず、事務所で仕事をしながら出番を待っていたのですが、お客さんが事務所を覗かれる度に「どうしてこのような姿でいるのか」の説明をしなければいけなかったので、ある意味大変でしたが、理解して頂くと異口同音に「大変ですね」の言葉を頂きました。

「大変ですね」の言葉をそのまま受け取れば良いのか複雑な気持ちもありますが「入居者さん、利用者さんの為にその気になって一生懸命」との気持ちが伝われば良いと思っています。

本部施設ではドレスに着替えて銀色のロングヘアのかつらですから曲目は石川さゆりの『天城越え』にしました。曲のイントロが流れて来て皆さんの前に出て右に左に両手を拡げながらヒラヒラのドレスを見て貰いました。

私は手を拡げながら歌を歌っている時に思ったのは「感情移入を直ぐに出来るのは素晴らしい」と思ったのですが、その思いは『自惚れ』ですか・・・。

リピーターの皆さんはどの様に思われますか。

昨日の出来事です

令和7年2月9日

既に昨日のコラムで前日に和合の施設で泊り朝から施設内の除雪をした事は書きましたので、除雪を終えてからの9時30分からの1階でのお参りと13時40分からの3階でのカラオケについての報告をさせて頂きます。

除雪を終えて汗をかいたので着替えをしてさっぱりして、本来であれば10時30分からのお参りタイムなのですが10時45分から事務所の会議があると言う事で1階に「これからお参りでも大丈夫か」との確認に行くと「これからでも大丈夫です。」と言う事で理事長室においてある『仏壇セット』を引きながら持って行き1階の皆さんに「久しぶりですがお参りをしま~す。」と言って私が仏壇セットの準備をしている時に職員が正信偈の書いてある教本と数珠を手渡してくれて準備が出来て正信偈から私が大きな声を張り上げて唱えるのに合わせて多くの入居者さん利用者さんが唱えて下さいます。

その中でも際立っている方が見えるのでその方の事を少しお話します。その方は明らかに認知症があり、何事についても声掛けが必要な方なのですが、正信偈のお経が始まると教本も見ないで一生懸命に声を出して下さるのです。かつて娘さんが面会にみえた時にその話をすると「確かに家でお経はやっていたので、お経は覚えていたんですね。」と涙ぐみながら喜んで貰えた事を思いだし「お参りになるといつもとは違う元気を貰って貰えるんだ」と思った次第です。

午後のカラオケは本来13時30分からなのですが13時25分に3階へ内線電話で連絡すると「本日がカラオケと把握していなかったので10分待って貰えますか」との事だったので13時40分に3階に行きカラオケを開始しました。最初に私が石川さゆりの『天城越え』と八代亜紀の『舟唄』の女性歌手2曲を3段階上げて歌いました。(女性の方のキーは基本的に低いのです。)2曲の歌を歌いながら曲の合間に入居者さんの選曲を聞いて回りカラオケにセットして大忙しです。だってその間には当然の如くMCの様な事もしながらマイクも運ぶのです。カラオケも回数を重ねて来て歌って貰える方も把握が出来る様になり進行も段々スムーズになってきました。

その中で歌は歌われないけれどもリクエストをして楽しんで頂ける方があります。私は出来るだけそのリクエストに応えて歌わせて貰っている内に今まで歌った事が無かったのも結構そこそこに歌えるようになり私の持ち歌になったのも多くあります。その中の2曲が本日最初に歌った『天城越え』『舟唄』です。

その他にも『宗右衛門町ブルース』や『ああ 上野駅』などなどがあります。聞いて楽しむ方、歌って楽しむ方、リクエストをして楽しむ方と様々ですし、カラオケはダメでもお経は大丈夫な方と様々です。それぞれの個性に合った事が出来ると良いのですが、私はお経とカラオケで頑張ります。いかん、いかん。花魁とドレスも楽しんで頂かなければ・・・。

 
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