2024年02月の記事一覧

携帯がスマホになったら手も足も出ない

令和6年2月29日

今迄ガラケーの携帯でスケジュール管理も電話帳管理もメールのやり取りもアラームのセットも行っていて重宝していたのですが、施設の携帯をロボット・ICTの補助金を頂いて(全額ではありませんが)ハードもソフトも一新するのに合わせて施設携帯を全員スマホに買い替えたのです。

一昨日にスマホを渡され「翌日9時に一斉に新しいスマホの方に切り替わります。」との事で、昨日は石川県能登町へ災害派遣チームが関市にある特別養護老人ホーム『ほほえみ福寿』を8時には出発するとの事だったので、お菓子や飲み物を団員に手渡し激励する為に行き、その後、義援金の対応について岐阜県高齢福祉課に相談に行く為に岐阜県庁の駐車場に着いてから連絡をするのですが全く反応しないので時計を見ると9時3分と言う事でガラケーの携帯からではつながらない事に気が付き新しいスマホで書けようとしても情けない話ですがかけ方がわからず直接受付に行ってアポを取る体たらくを早速してしまいました。

本日も10時から福祉会館で会議があるので車を運転しながら話が出来るシステムだったのですがどうしたら接続できるかがわからず、電話が着信になっていても出る事が出来ず「この調子だと血圧が高くなるな」と思った次第です。メールが来ても手も足も出ない状態で、適当な操作をしている時にこちらから知らない内に電話をしていた様で会議中に「電話を貰いましたか」との電話に面食らい、先程などはスマホの着信が鳴っているので出ようとしても出れなくて「昭和おじさんには手に負えない」と思うばかりです。でも、昔から「習うより慣れよ」と言いますので頑張って色んな事をして間違ってかかってしまった時はしっかり謝ってめげずに頑張っていきたいと考えています。

ホームページの全面リニューアルをする予定です

令和6年2月28日

早いもので優・悠・邑 和合が事業開始をして10年が経過します。と言う事はホームページが前面リニューアルをしてからも10年が経過したと言う事です。『十年一昔』と言う風に良く言いますが、10年前のホームページとしては斬新で評価も高かったです。その評価の一つとして全国老施協の広報コンテストのホームページ部門で最優秀賞を頂きました。

あれから10年、『今日の優・悠・邑』『今日のえりかの里』『今日の優・悠・邑 和合』は毎日更新され3年前からは『今日の優・悠・邑 和(なごみ)』が加わり、理事長である私が「毎日更新して欲しい」と言っていたので、私も『理事長コラム』を2018年8月24日から毎日更新しています。(自分で言うのも何ですが、敢えて言うと「5年6カ月更新し続けていて、今なお更新し続けている事に驚きと感動です。」)私のコーナーも毎日続けている中で、リピーターの方も徐々に増えてきているのも有難い事だと思っています。

10年前のホームページに対する考え方は、「世間一般の方に広く見て貰いたい。」と言う事で、項目もどんどん増えていき、殆ど見られないものも検索結果からも読み取れるような状態になってきていました。と言う事で、リニューアルの時期でもありました。今回のリニューアルはどの様な物にすべきかを考えていく中で、今あるものの中で残すものと無くすものの整理をすると共に、特に力を入れなければいけないものとして、『職員採用』に力をいれて、尚且つ学生さんが興味を引く様に動画やSNSも多く導入して行けるようにしたいと考えています。また、職員給与の手当の見直しもリンクさせていきたいと考えています。何故ならば、ここ何年かは新卒者の採用が無い事に危機感を持っているからです。また、入居を希望される方への資料提供にも力を入れて、他の施設との差別化も図っていきたいとも考えています。

当法人の考え方の一つに『今日一日楽しかったよ』があります。その『楽しかった』がホームページの中で表せる様にしたいと考えています。昨日のコラムでも「施設に入居して母は笑顔が多くなった。」と書きましたが、盛り沢山のものをシンプルに検索出来るように制作して貰える様に3月16日の業者のプレゼンで決定した業者としっかり共同して良いものにしたいと考えています。リピーターの皆さんリニューアルしてからも応援宜しくお願い致します。

本部施設の全体会がありました。

19時からなのですが早出で16時過ぎに勤務を終えた職員も含んで多くの職員が参加してくれます。18時30分には法人顧問の烏野先生(びわこ学院大学教授・学部長)も来て下さり定刻の19時に始まり、先ずはこの1カ月で亡くなられた方に全員で黙祷を捧げ、次いで、新しく役職に就いた職員と新しく採用した職員の辞令を手渡し引き続いて、五次副施設長、吉田副施設長、吉澤施設長、烏野先生、水野施設長と理事長である私が話をしていきます。

今回は石川県能登沖の地震についての話もあり、皆真剣に聞いてくれていました。私の話は、外国人材のスキルを上げていく為に外部講師の体制も確立させていくと話をして受ける側も真剣に取り組んで欲しいと先ずは話をしてから、ロボット・ICTの補助金28.000.000円を頂いたので宝の持ち腐れにならない体制を取り、業務の効率化を推し進めてより充実したケアを確立していきたい。新体制に合わせてホームページもリニューアルをしてより見やすいものにして、職員確保や施設の紹介がより充実出来る様にしていくことなどの話をさせて頂きました。

そして最後に、先般亡くなられた入居者の家族の方が「母は家族を守る為に必死に働いて来たので日常の生活では厳しい顔しか見た事が無かったけれど、優・悠・邑での生活では朗らかに生活していたのか、送って貰った写真は笑顔で写っていたし、死に顔も優しい顔をしていたので最後の生活は幸せだったと思います。」とのコメントを職員情報共有の『福祉見聞録』で水野施設長が書いているのを確認して、私は本当に安堵していますがより、高みを目指してみんなで頑張って行きたい。と話させて頂きました。

本日も一日バタバタで、全体会が終了後にコラムを書いているので頭の切れが悪いので今一のコラムになってしまいましたが今は21時と言う事で限界ですのでリピーターの皆さんこの程度でお許し下さい。

東海北陸ブロック臨時WEV会長会議

令和6年2月26日

検討議題は能登半島地震支援対策の4回目の会議です。先ずは前回までの報告をブロック会長の太田会長(愛知県)が開会の挨拶と共にされてから、被災施設の「緊急レポート」として輪島市にある特別養護老人ホーム「ゆきわりそう」の小泉氏からの報告を聞きました。その中で先ず最初に報告されたのは1月1日16時10分に地震が発生した日の勤務者が比較的幹部の職員が多かったので落ち着いた対応をして貰ったが、電気も水もこない状況で、職員は家に帰らずに頑張ってきたが、看護のリーダーがダウンして救急車で病院に搬送され入院する事態になった。

また。電気が来ない状況に対しては2台の発電機で何とかしのいだ。入浴支援のボランティアに支援して貰っているが週一の入浴の時の応援があると助かるとの話の後、石川県からは毎日の様に「入居者を全員避難させた方が良い」との連絡が来ていたが、元の生活に戻った時に職員がいない状況への懸念と全く収入が入らない事への不安もあり、重症者の避難以外は施設に留まって頑張っていたら、石川県の方針転換で施設に戻す考えになったのか、石川県からの連絡は一切なくなった。との報告をされた時には涙を浮かべながらされたのには言葉を失いました。

その後、石川県老施協と石川県社協からの報告と全国老施協事務局長と災害対策委員長からの報告を受けた後各県からの報告になら最初に岐阜県老施協として私から意見を述べさせて頂きました。最初に岐阜県の派遣チームが今回発表された「ゆきわりそう」での派遣から帰って来た時の報告で「2日間に分けてお風呂に全員入って貰う介助をしたらとても喜んで貰いモチベーションが上がりました。」との報告をさせて頂きました。そして、岐阜県では隊員登録の方が72人に増えましたので、引継ぎも円滑に行く様に能登町の特別養護老人ホーム鳳寿荘に5日ずつ4名~5名のチームを組んで派遣できる体制を取っています。と報告させて頂きました。

その後それぞれの県の代表者からの報告を受け、この派遣は長期にまたがるとの考えの中、今後の派遣の在り方についてもさせて頂き会議が終了しました。会議の中での話の中で当法人もいざという時の為にしておくべき事を改めて確認しました。例えば電気自動車の場合、電気の活用が出来る。但し、ガソリンが無くなっては使えないのでガソリンは半分になったら必ず満タンにすること。給水用のポリ容器は多く確保しておくこと。発電機を準備して燃料の確保も怠りない等々今すぐしておくべきだと思いました。リピーターの皆さん、参考になったのなら即実行してください。

優・悠・邑 和合の施設2階のお経のあとでの話から

10時30分を回っているのに気が付き、慌ててお参りグッズを押しながら2階に行くと既にお参りが出来る様に皆さんが集まって頂いていたので、経本と数珠をそれぞれの入居者さんに職員から配って貰っている間に、阿弥陀様、蝋燭立て、線香立てを準備し、「正信偈から始めます。今日は気温が低いですが大きな声で唱えて頂いて体が温かくなるようにして下さい。私も大きな声で唱えますので。」と言ってお経を唱えさせて頂きました。

正信偈の後、御文さんを読み、引き続いて、私が滋賀信行会の団参である四国八十八箇所で覚えた般若心経を中心にしたお経を唱えている時に、私が大学生で50人ほどの団体の先達をさせて頂いている時の事が頭に浮かびましたので、お経を終えてから講話の様に話をさせて頂きました。

その話を本日はさせて頂く事にします。その当時の滋賀信行会の団参は1番札所がある霊山寺の最寄りの駅(坂東)から23番札所薬王寺まで全て歩きです。団体は最年少は小学1年生から最高齢は75歳の方までと年齢層は幅広い50人程度の団体です。

1日目は6番札所『安楽寺』までは比較的起伏の少ない遍路道で何のトラブルもなく歩く事が出来ました。

2日目11番札所『藤井寺』までも問題なく歩けたと思います。

そして3日目は藤井寺の裏山から急な山道になります。この工程では12番札所『焼山寺』までの山の昇り降りを繰り返し焼山寺は海抜1200mある山の頂にあるので、朝7時に出発をして焼山寺に早い方は12時過ぎに着いているのですが、しんがりは2時間以上遅れての到着となります。その他にも20番札所『鶴林寺』の道は最後の上りは険しいものがあり、21番札所『太龍寺』の山越えも大変ですが、本日お話をさせて頂いたのは20番鶴林寺の奥の院『慈眼寺』の行場での話をしました。

『行場』と言うのはいわゆる『修業の場』のことです。そこは慈眼寺から急な坂を約20分歩いたところにあり、行場に入る前に身を清め男女共にパンツの上に白衣をまとうのみです。行場に入る前にそれぞれに1本の蠟燭が手渡されます。と言うのはその行場はいわゆる洞窟で人一人が通れるくらいの所なのです。実際には相撲取りの方でも通れると言うのですが時には通れなくなるアクシデントが起きます。その時に通れなくなったのは当時小学4年生の男児でした。その子は正直落ち着きがなくて先達である私の言う事がなかなか聞けなかった子です。洞窟の中では先頭を行く洞窟の事を知り尽くした方の言われる通りに進む事を約束して貰い、先頭の方が例えば「右足から進んで」とか「左向きになって左足がついたら左足を」とか言われた通りに進むのです。

ところがその4年生の子は自分が体が華奢だから大丈夫と思ったのか指示に従わなかった為か、身動きが出来なくなってしまいました。前にも後ろにも行けない中「体が通れますように」と全員で般若心経や不動明王様のご真言を唱えて30分後には何とか抜け出す事が出来ました。その後その子は指示に従う様になりました。この現象は「仏さんが罰を与えた」のでは無くて「戒めて頂いた」と思っています。と言う話をさせて頂きました。入居者さんはお経も含めて一生懸命に参加して頂いた事に感謝です。

本日も週刊東洋経済の記事から

令和6年2月24日

「機能不全の組織体制が生む、過去最多の高齢者虐待」のタイトルと共に「部屋に閉じ込める」「薬で動けないようにする」「複数の職員が関わっていた虐待事件の背景を追った。」とあり、記事の内容を見て目を覆いたくなる文字が躍っていました。具体的には「部屋の前に机や衝立を置いたり、トイレに鍵をかけるなど利用者の行動を抑制し、自由に動けない様にする。」との事例が書かれていました。この様な行為は一言で言えば『言語道断』『あり得ない』です。当施設の考え方は、タイトルにあった「部屋に閉じ込める」に対する答えは、「特養の入居者さんは如何に部屋から出て素敵な笑顔を醸し出すか。」です。

本日も、午前中は和合の施設で午後は本部施設で私が導師になってお参りをさせて貰ったのですが、椅子から立ち上がられる方も無く、特に本部施設の入居者さんは声も大きくお経を唱えて下さいました。午前の和合ではお経とお話をさせて貰った後に、車椅子の入居者さんが私に近づいてみえたと思ったら、お皿に載ったお菓子を差し出し「抹茶をたてますので少しお待ちください。」で水筒に準備したお湯で抹茶をたてて持って来て下さいました。この行為は「出来る事は精一杯頑張ろう」と言う意気込みだと思い心豊かになりました。

また「薬で動けなくする」に対しては「睡眠導入剤は基本無しで生活出来る様にしていく」と言う事です。その為には昼間の時間をしっかり起きて頂くような対応をしていく事が大切だと思って実践して貰っています。私が出来るのは一人ひとりの入居者さんとお話をする事と、カラオケとお参りだと考えて実践しています。また愛知県豊橋市の特別養護老人ホーム『つつじ荘』は【22年と23年の夏場にエアコンが故障したことから、入居者をロビーで生活させていた。人前で排泄をさせたり、仕切のない状態でおむつ交換をしたりしていたことが、性的虐待と認定された。22年3月には紙おむつが不足したため、オムツ交換を1日6回から3回に減らした。東洋経済が入手した市の調査資料には、「漏れていても交換しない」「(汚れたおむつの)使い回しもあり」といった関係者の証言もある。さらに18年から5年以上にわたり、入居者からの預かり金を無断流用していたことも発覚。これらの虐待の被害者は合計153人で、虐待を行った職員は38人に上る。】との記事を読んでいくと、「入居者さんを何だと思っているのか。施設を信じて入居させた家族にどの様に説明するのか」との憤りしかない。

この様な事例を「人材不足」と言うひとくくりで考えず、入居して頂いた以上は「人間としての尊厳を守り、日々が快適である施設にどの施設もなって貰いたいと願っています。

週刊東洋経済の続きです

令和6年2月23日

東京大学名誉教授で社会学者の上野千鶴子先生の記事がインタビューの形で掲載されていました。上野千鶴子先生について、個人的には10年程前に全国社会福祉協議会高齢福祉部会でご一緒させて頂き「端的に物事を判断してしっかりとした意見を言われる方だ。」と言う印象を強く持っていたので、興味深く読ませて頂きました。質問に対する答えに「うんうん」と頷くばかりでしたので、紹介させて頂きます。

(質問)介護事業の中でも最も不利な働き方が訪問介護。その報酬引き下げとは、怒りを通り越してあぜんとした。これではますます働き手がいなくなるだろう。なぜこうなったのでしょう。

(上野先生の答え)報酬の低さが招いた人災だ。そもそも介護保険を施行する当初、訪問介護を「身体介護」と「家事援助」(後に「生活援助」に変更)に分けて価格差をつけたのが問題だった。生活援助の報酬は極端に安くされた。背後には、家事は女がやってきたタダ働きと言う誤った労働観がある。

(私の意見)地域の介護を守るのに不可欠なのが訪問介護です。確かに「家事援助に専門性がいるのか」との問題は昭和38年(1963年)に出来た老人福祉法にまで遡り、在宅介護をしないで公的なものに頼るのを善しとしてこなかった長い歴史があると考えています。その当時の政治家の中には「家での介護は当然」と言い切った方も多くいました。

(質問)人手不足を補うためだとして、国はICT機器を導入する施設の人員配置を緩和しました。

(上野先生の答え)ありえない。現場の介護職員たちは、安全面からこれ以上は人を減らせないと言っている。人件費を減らそうとする経営者や官僚の発想は、現場感覚とは懸け離れていると思う。

(私の意見)ICTを導入したからと言って、人件費の削減につなげるのではなくより密度の濃い寄り添いケアにつなげていくものと、経営者の一人として考えています。

(質問)少子高齢化が進み、保険料をめぐって「高齢者vs若者」という構図が持ち出されます。

(上野先生の答え)若いひとたちに言いたいのは「介護保険が無い時代を考えてみて」と言う事。あなたが親から離れて安心して生活できているのは、介護保険があるから。世代間対立をあおるのは政治家とマスコミ。対立に乗せられてはいけない。

(私の意見)元気な高齢者の中にも「介護保険の利用はしていないので、介護保険料は返して欲しい。」等と言われる方も時にはあります。そんな時は「ご利用になられている方はもっと大変な思いをされていますよ」と答える様にしています。若者にしても、親戚関係にお世話にならなければいけない方がいる事を理解して欲しいし、「いつ介護の世話にならないとも言えない。だからこそ介護保険制度があるのだと思います。」と言う風に考えています。

(質問)介護業界は、医師会や看護協会のような政治力がありません。

(上野先生の答え)ワーカーたちの声が小さい。業界団体もまとまりがない。だから政治力が弱い。福祉の仕事に従事する方々は我慢強く、抗議や批判をしないと言う風潮すらある。私は「あなたがたの地位と処遇の向上を、利用者が代弁することは出来ない」と言い続けている。当事者たちに、もっと声を上げてほしい。

(私の意見)政治力を持たなければ実態に即した処遇を受ける事は出来ない。介護事業に関わる一人一人が『我が事』としてとらえて自分たちの権利を守ると言う気構えを持って欲しいと考えています。私は今『全国介護福祉政治連盟』の幹事長代理の立場で一生懸命に汗をかいていきたいと考えています。

3度目のどじょめ

令和6年2月22日

「どじょめ」と言うのが何の事かもわからず何と無く使ってしまいましたが、とにかく本日は次男家族が我が家にやって来ます。お正月に来ることになっていたのが、私が体調を崩した為にキャンセル。その次は次男の仕事のシフトが変わったと言う事でキャンセル。そして本日16時と言う事で我が家での会食が実現します。と言う事で「3度目のどじょめ」なのであります。

昨年暮れに我が家に来て以来なので、2ヶ月振りです。 昨年5月に生まれた孫娘も生後9ヶ月なので、随分成長したのを見ることが出来るのは楽しみです。70歳の今もガンガン役割をこなしている私はなかなか次男家族とゆっくりすることはままならないのですが、年に数回しか会えないからこそ、本日は楽しみです。但し、午前中は前立腺がんの治療の為にホルモン注射の投与をした関係で乳房が大きくなってきて、右の乳房が痛いのです。ホルモンの関係だとは思うのですが「心配な事は解決しなければ」と言う事で、徳洲会病院の院長先生の診察を受ける為に病院に来ています。診察前にいくつかの検査をして(サーモグラフィの検査は恥ずかしいし、痛かったです。)今は診察室前の待合室で診察の順番を待っています。

乳腺科の待合室は流石に女性ばかりで肩身が狭いですが、私の他にもう一人男性がみえましたので、少しホッとしています。本当にホッとするのは診察の結果で大丈夫とのお墨付きを貰う事です。順番が来て院長先生に検査の結果を見ながら説明を聞き大丈夫とのお墨付きを頂きました。これで、14時からの和合での全体会にも安心して参加して気合いを入れて話が出来るし、もちろん、次男の家族との会食もしっかりと楽しめます。この日の為に次男が好きな八海山を準備したし、孫娘には遅くなりましたがお年玉も準備しました。親バカ爺バカと言われたって構わない。年に数回しか無い楽しみを本日は楽しみます。

関ヶ原駅を11時21分発の列車で岐阜に向かいます

令和6年2月21日

10時から全国大会の最優秀賞を決める審査があり、本部施設の幹部会とブッキングをしたので早くに本部施設に行き最優秀を決める審査資料の印刷をして、資料確認をすると共にズーム会議の接続をして いると、9時に吉澤施設長が来たのでホームページ及び職員手当ての提案の打ち合わせをして、10時からの幹部会の予定を早めて会議に中抜けしても大丈夫な様に理事長としての思いの話をして、進行を水野施設長に任せて事務所に戻りズーム会議での最優秀賞決定の為の会議に挑みました。各分科会の優秀作品の審査を事前に審査員は点数を付けており、その上での最終確認なので、それぞれの審査員からの意見を聞く形で進行して行きました。最初に大山会長が意見を言われて2番目に開催県を代表している私が意見を述べさせて頂きました。各審査員の点数で最も高かった発表に私が一番点数を高くしたのと一致していたので、何故点数を高くしたのかについて話をさせて頂きました。委員さんの考え方によって多少の違いはありましたが皆さんの意見の後、最優秀賞が決まりました。10時25分で終了したので、再び幹部会をしている会議室に急ぎ、11時には私が退席するので、 それぞれの幹部からの提案を一旦中断して貰い、ホームページ及び職員手当ての話を吉澤施設長から提案して私からも意見をさせて貰い11時になった段階で水野係長の運転で関ヶ原駅まで送って貰い今は電車に乗っています。12時前に岐阜駅に着き会場である16プラザに迷うことなく行けたので「少し早かったかな 」と思いつつ、受付に行き「開会式に招待を受けた者ですが」と言うと目敏く「ご案内します。」と係員の方が来て下さり、役員控え室に入ると陣羽織を渡され(徳川の家紋要り)私より早くにみえていた役員の方と名刺交換をしていると次々と部屋に入ってみえたので、順次名刺交換をして行きました。労働局長さんや商工労働部長さんなど凄い肩書きの方ばかりで、大きな体を小さくしていたら(決して小さくなりませんが。)リハーサルがあると言うので舞台に案内して貰い、一通りの流れでリハーサルが行われました。今回は関ヶ原武将隊の方の掛け声に合わせて「エイエイオー」で拳を振り上げる役割です。この時は昨年11月29日の全国大会の開会式で私が鎧兜を身に付け「エイエイオー」の掛け声を出したのを思い出しました。リハーサルを終えて一旦控え室に戻り定刻の12時35分に再び舞台に行き本番の開会式に挑みました。13時から企業フェスの入場が始まったのでしばらくその様子を確認してから岐阜駅に行き列車に乗るためにホームに行くと列車が10分遅れと言う事でした。今は帰りの列車に乗ってコラムを打っていますが、帰りも関ヶ原駅に迎えに来て貰い、その後は本部施設で打ち合わせ等をして16時から関ケ原町地域ケア会議に参加して、時間によっては途中退席をして17時30分からフォーラムホテルでの長城の会に参加します。JRの粋な計らいにより、定刻を過ぎている乗り継ぎの列車に乗れたので14時過ぎには本部施設から迎えに来て貰えるので2時間近く仕事が出来るのでラッキーです。待てよ、お昼を食べていないのを忘れていた。「腹が減っては戦が出来ぬ。」か「武士は食わねど高楊枝か。」とにかく、時間を有効に使えている事に感謝です。本部施設に送って貰い急いでカップの焼きそばを食べてから今回ミヤンマーからの外国人の受け入れの契約書に目を通していると「気が付けば15時35分」と言う事で地域ケア会議の会場であるやすらぎに急ぎ3分前に着き、会議に挑みました。最初に会の委員長と副委員長を決めたのですが私は副委員長に再選されてから委員会が始まりました。今回は3事例の検討だったので、16時50分に終了して、挨拶もそこそこに車に乗りフォーラムホテルに向かいました。結局2分遅れで会場に着くと既に始まっていましたが温かく向かい入れて貰い和やかな雰囲気の中で会食を頂きながら情報交換をしました。19時35分に全てが終わりご挨拶をしっかりして、猫田県議の車を見送ってから直接家に帰らせて貰い今は(21時5分)湯船に浸かりながらコラムを打ち終えます。本日は結局介護崩壊のコメントは出来ませんでしたが、昨日、久しぶりに前の全国老施協正副会長とのライングループに東洋経済の記事についてラインを送った返事がたくさんきてましたのでじっくり見たいと思っています。すみません。本日はここまでと言う事でリピーターの皆さんご理解下さい。

本日も週刊東洋経済の原稿でコメントします。

44ページのタイトルは『低賃金にあえぐ介護職』でサブタイトルは『塾には行かせられない』『結婚相談所は退会した』と言うのに正直私は「何処で取材されたのかは分からないけど、ネガティブな文字が並ぶと真実味が増して介護職はブラックだと思われてしまい益々人材不足になってしまう。」と正直思いました。当法人のシステムを紹介します。

先ず最初に「夜勤をしないと正職を外されパート職になってしまう。との書き出しには正直「今どきそんな施設があるのか。」と思いました。確かに夜勤を確保するのは簡単な事ではありません。しかしながら、結婚して子どもが出来て子育てへの配慮をするのは当然の事です。だから当法人の考え方は「子育てに対する考え方は職員の希望に基付き、子どもが高校を卒業するまでは夜勤を免除して出来るような状況になったら夜勤を復活して貰う。また共働きで子育てを中心に置きながらも仕事をするとの事で時短での勤めになっても正職のままにして1日6時間であれば8分の6での給与計算にして、経験は豊かにあるので役職はそのままで頑張って貰っています。当法人の職場結婚をしたケースも何組かありますが、例えば夏休みなどは親子で出勤して、子どもには学習環境を確保して時には私が勉強を教えたり、横着が過ぎた時には私を含めた職員で注意する事もありますが、毎年12月29日と決めての餅つきには保育園の頃から参加していた子が小学高学年になり、ちょろちょろしているだけだった子がしっかり作業が出来る様になったり、中学生高校生になり成長していく過程を目の当たりにするのは楽しいものです。夫婦で働いている職員のなかには、子どもが2人、3人、4人といて、しっかり育てている中で、学習塾や部活もしっかり頑張っている報告も聞いています。

勿論今の給料で良いとは思いませんが、決して結婚が出来ない様な状況ではありません。当法人は介護報酬から給与を支払っているので所謂公定価格です。頑張っている職員には頑張っただけの対価を支払う為には公定価格が上がる為の運動をしていく事が肝要だと考えています。2000年(平成12年)に介護保険が始まり24年が経過しようとしている今、介護報酬の収支は1%しか上がっていないのには違和感があります。介護保険の原資は介護保険料が半分で税金が半分なのですが保険料を上げるのが難しい状況があるのであれば税金の投与を大胆にしていく事を国も真剣に考えていかないと週刊東洋経済が特集しているように介護保険の崩壊になってしまうのではないかとも考えています。安心安全の為に国民の理解が得られる様な運動をしていかないとネガティブなイメージばかりが先行してしまうのでは無いかと懸念しています。

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