2023年02月の記事一覧

午後1時30分からジョイントカラオケです

何となく朝から体が怠かったのですが、いつもの様に朝のお参りとお墓参りは出来たのですが、本日のどんよりとした曇り空に呼応しているわけではありませんが、何となく頭がどんよりした感じです。但し、食欲は落ちて無いので大丈夫だと思います。そんなわけで午後1時30分からのジョイントカラオケがノリノリで歌えるか自信がありません。でもね、マイクを持った瞬間にはしっかりと歌えると思っています。何故なら、私の歌でも楽しんで下さる方が一人でもあれば一生懸命に歌わなければ入居者さん利用者さんに失礼だからです。いやいや入居者さん利用者さんによって生かされていると言うか助けて頂いています。午後1時15分になり、ジョイントするボランティアの高木さんがおみえになったので、先ずは会議室でお茶を飲みながら話をしていると最初の出番であるデイサービスの職員が呼びに来てくれてジョイントカラオケが始まりました。トップバッターは当然ながら高木さんです。高木さんはもうすぐ80歳になる方なのですが音程はしっかりしているし何と言っても台詞をテレビの画面を見る事が出来声量も凄いのです。だからデイサービスの利用者さんも歌に引きつられてみえました。私は高木さんと10歳は歳が若いのだから負けているわけにはいかないとギアを上げて歌いました。デイサービス、本館1階、2階と回っている内にエンジンはフル回転になり本館2階ではアンコールにも対応していました。本館2階でのイベントが終了した段階で午後3時25分になっていたので午後4時30分にお客様の約束をしていたのですが「この調子ではとても約束の時間には間に合わないと考えて事務所に連絡をしてお客様の約束の時間を午後5時に変更して貰う様に依頼しました。連絡をして新館1階に行くと今や遅しと入居者の皆さんは待って頂いていて正直「ありがたいな」と思った次第です。時間が押していたので1階の入居者さんもアンコールをしたそうだったのですが急ぎ2階に行き、これまた高木さんからスタートして、ここが最後のフロアなのでアンコールも受けて歌わせて頂きました。ここでのアンコールでは絶好調で北島三郎の北の漁場を熱唱しました。(自分で言うのだから間違いありません。)5会場全てを終了して再び会議室に戻り高木さんとコーヒーを飲みながら話をしていると午後5時からのお客さんがおみえになったとの連絡を貰ったので次回の日程を決めて高木さんを見送り、入れ替えにお客様を会議室に招き入れて役時間お話をして玄関にお見送りをしてからコラムを書いています。リピーターの皆さん。本日の私の反省は「時間には余裕を持った計画をしなさい。」・・・。でも自分で書きながら「無理無理」と言っているもう一人の自分がいます。こんな生き方しか出来ない私ですがこれからも宜しくお願い致します。

できるとき、できること、できるだけ

本日の大谷徹奘師の言葉に自問自答をしています。

だって自分自身その時々でしっかりと頑張っているのかと。少なくとも効率的には頑張れていないと自分でも思っているものですから。

「整理整頓が出来ない人は仕事が出来ない。」と良く言われますが、先ずはこの時点で私は失格です。私は何かをするときに一生懸命に完成するまでは頑張るのですが、後片付けがさっぱり出来なくて次に何かをしようとした時には周りの整理から取り掛からなければいけないのでいつもいつも効率が悪くて大変なのであります。

何故こんなに片付けが出来ないのかと言うと・・・。そうです、私が神戸北小学校4年3組の担任をしている時に6月に校内研の授業をさせて貰った時に最悪の授業をしてしまいました。この時は完全に準備不足で板書も適当だったので徹底的に校長先生の指導が入りました。(その当時の校長先生は教育センターから赴任されたエリート校長先生だったので。)この時は正直落ち込みました。

そして9月に岐阜県教育事務所の教育課長さんの指導があると言う事で父進さんの協力も得てしっかりと資料作りもして、父進さんから「板書が上手く行かないのであれば、板書したいことを事前にマジックでビー紙に書いておくと楽だぞ。」と教えて貰い、その通りに準備しました。結構な時間を掛け完成して余裕を持って研究授業に挑む事が出来ました。

但し、授業に持って行くものの準備はしたものの、マジックやビー紙や準備に使用した教材も含めてバンバラばんの状態で次の日を迎えたのですが、朝起きてバンバラばんの状態が綺麗に片付けられていて私は何の疑問も持たずに出勤して無事に研究事業を終え満足な気持ちで家に帰って父進さんにその時の課長さんの評価について話をすると自分の事の様に喜んでくれて、一言も片付けて無かった事については触れる事も無くて今はあの時の事を思うと父進さんは何と寛大な父なのかと、思わず手を合わせずにはいられません。

かなり話題が逸れてしまいましたので戻します。表題には「できるとき できること できるだけ」と言うのは良く理解出来るのですが、「あの頃の私は正直チャランポランだった。」と思います。今は「起承転結が大切だ」と言っている私ですが、若い時の私の生き方とは違う事に気が付きます。但し、片付けについては今もかなり出来ません。父進さんがいないのだから頑張らなければとは思うのですが正直出来ません。これは、父進さんが私を甘やかせたためだと・・・。父に転嫁している私です。

リピーターの皆さん私にはこんな面もあるのです。(威張って言う事ではありませんが・・・。)

 

 

弱い自分に出会った時が強い自分になるチャンス

令和5年2月16日

いつもの大谷徹奘師の日めくりカレンダーの本日の言葉なのですが今の私ならば「その通り。私の中に弱い自分をさらけ出し、のたうち回っている中で問題解決をして結果的に強い自分になってきた。」と自分でもしみじみ思っています。私自身は「長男の末っ子で尚且つ虚弱児だったから目の中に入れる様に真綿で包む様に育てられた。だから軟弱な性格の甘えん坊な育ち方をしてしまいました。」と言っています。勿論私と同じような境遇の方全てがその様に育つわけではありませんが本当に軟弱な生き方をしていたと自分の事ながら思っています。ではいつから打たれ強くなったのかと言えば「30歳で結婚した時・・・」「いやいや、まだまだ父進さんにもたれかかっていました。」「ではいつなの」と言えば「父進さんが他界した38歳の時」「いやいや、正直亡くなった父進さんに甘えていたぞ。でも、父進さんが他界した事は私を強くしていった時期と重なるから父進さんが他界したのは大きく影響しているのか。」「学生時代の私は色んな展開の中で無茶をしてきました。但し、父進さんの蚊帳の中」「そういう意味では滅茶苦茶迷惑を掛けて来たな。」「それどころか親父が惚けないのは私が心配を掛けているから呆けないのだからこれも親孝行なんだ。」等と嘯いていたな。この歳になってようやく「本当にごめんなさい」でもね、父進のお葬式時のお礼の挨拶を原稿もなく話をしたのを後日、大垣女子短大の非常勤講師室で父進が校長をしていた時に教務主任だった先生から、「若山君の話は父親に対する感謝の気持ちが伝わってくる良い話だった。」と言われた時には「色々と迷惑を掛けてきた事が走馬灯のように蘇った事を正直に話させて貰っただけなんだけれど。」と思いました。父進が他界する4カ月前に私は児童施設を退職して自分の思いを形にする為に辞めたとは言え、80歳になっても父は関ケ原民俗資料館で仕事をしていてくれていましたので私は家の中心者でなかったから出来た様にも思うし・・・。しかしながらその年の8月12日に他界しても正直「何とかなる」くらいにしか思っていなかったのです。しかしながら、それ以降の私はは自己責任で色んな事をさせて貰い弱気の虫が働いた時にその都度がむしゃらに頑張って来て今がある。30年は自己責任の中で頑張って来たけど、38歳からだからまだ人生の半分にもなっていない。リピーターの皆さんこんな考え方をする私ですがこれからも宜しくお願いいたします。

「おもち」の事を初めていとおしいと思いました‼️

令和5年2月15日

いつもの様に4時25分のアラームでの行動を開始して着替えを済ませて我が家の住民である猫の「おもち」が毛布の上で寝ている所に近付いたのですが、いつもだとその場から逃げるか逃げる暇がなかった時は毛を逆なでて威嚇するので大きな声を出して追いかけたりするのが日課だったのですが、本日は逃げる事も無くじっとしていたので「おはよう。」と声を掛けると「にゃーー」と可愛く鳴いたので、私は思わず「いとおしいな」と思った次第です。野良を一年近くしてから我が家に来た住民なので、心を許すのには時間がかかるのだと改めて思った次第です。

朝食の時にその話を我が奥様かをり様に話をすると、奥様かをり様曰く「真っ白な猫は目立ちやすいので外敵に狙われやすいので、警戒心が強いので心を許すまでに時間がかかるの。但し、頭が良いのです。」とのたまわれたので「ふ~ん。そうなんだ」と思いつつ朝食後に2階に上がって行き廊下の戸を開けたら思いっ切り急いで自分の部屋に走って行ったので「本当に仲良くなるにはまだまだだな」と思った次第です。

かつて我が家に20年生活していた猫「リッド」は、20年の内19年間は私の事を天敵のように思っていたのか、2階の自分の部屋から降りて来て1階のリビングで奥様の傍でのんびりとしていたのが私の車が車庫に入る音がすると慌てて2階に退避する毎日だったようです。奥様から聞いた話では、リッドは結構玄関先の靴入れの上で寝ている事があり、宅配の方がおみえになっても動ずる事無く立派に座っていて、10キロの体重があった時は業者の方が驚かれる事が度々あったとの事。この話を聞いた時には「外の方にも動じないのにご主人様には逃げて行くとはどういうこっちゃ」と思いました。その時ふと思い出したのは、ゴリラの飼育員はゴリラが小さい時に蒸気機関車をリモートで操作して、ゴリラの赤ちゃんが怖がっている目の前でその蒸気機関車を投げて「蒸気機関車を投げて僕を(私を)助けてくれたヒーローだ。」と言う事でその後自分の方が体も大きく腕力も強いのにその飼育員の方には従順でいる。との話を聞いていました。但し私の場合は『怖いおじさん』でずっと来てしまっていたのです。

ところが昨年の1月からは急に私に寄り添う様になり、私の布団の上で寝てくれる様になったのです。この激変の理由を考えてみるに、私が事業の事で落ち込んでばかりいたのと重なるのです。と言う事はリッドは、と言うより猫には素晴らしい感性があり、相手の気持ちを素早く理解する能力があるのだと思います。だとすると、リッドの様に19年もかかってはいけないので、おもちにはせめて1年位で心許してくれるように努力をしたいです。いやいや待てよ。先般、『トムとジェリー』の映画がテレビでされていたのを録画してみたのですが、ひょっとして私はトムの役割りをしているのか。だとすると「おもちよ許せんぞ。」いやいや家族ですから仲良くしますので、私のベットに乗ってくれるように努力することをリピーターの皆さんに誓います。

こけたら起きればいいんです

いつもの様に大谷徹奘師の日めくりカレンダーの言葉です。当たり前と言えば当たり前の言葉ですが、人生においてはなかなかこれが難しい。私は凡人だから今回の転びを起き上がるのに半年以上かかりました。起き上がるきっかけになったのは今朝も実施した4時25分のアラームでの行動開始での仏間でのお参りとその後の妙応寺経由のお墓参りです。朝の2時間のウォーミングアップが一日の活力と気力の源になり、「弱虫の虫」を押さえ込んでくれたので今も頑張れています。朝のお墓参りの時には色々な事を教えて貰えます。昨日の朝のお参りでは妙応寺の本堂でのお参りをしようとすると、吉澤施設長からプレゼントされた携帯用のライトで本堂を照らしていたのが失礼だったのか、本堂を照らそうと思った瞬間あんなに明るかった明かりが突然消えたのです。私はその時「この時間に本堂を照らすには明るすぎたのか」と思い、本日はそれ程明るくないライトを首にかけていきました。私はこう言う現象をこの様に考えてしまう性格なのであります。

本日は歩き出すと風が吹くと冷たく感じましたが妙応寺の本堂のお経を唱えていると背中の方から温かくなります。だから元気に一日を過ごせます。そして、私は12月の初めから放射線治療をして先週の木曜日(2月9日)で38回の治療が終了したのですが毎朝4時25分のアラームで行動開始の規則正しい生活をしていたので、1回も放射線治療をする前の尿量検査で放射線治療に直ぐにいけない事は無かったのも神仏のお陰だと思っています。だって、尿量検査の結果で1時間以上待合で待ってみえる方があるのですから・・・。前立腺がんがステージ2と言われた時に大学時代に腸閉塞で手術をしているので手術治療は出来ないと言われ放射線治療になりますと言われた時は少なからずショックでしたが、今は無事に放射線治療も終わり3月に泌尿器科で血液検査等をして頂き治療の効果があったと言って頂ければ「転んだけど起き上がれた」と清々しい気持ちで言える事を願っています。リピーターの皆さんも一緒に願って頂けると嬉しいです。

物価高騰に思う

令和5年2月13日

ロシアのウクライナ侵攻が始まって1年が経過して、原油の高騰から色んなものが値上がりをしている。岸田総理は「物価の値上がり以上の賃金アップを」と言われていますが、岸田総理の意向を受けて賃金を上げられる企業はそれ程多くはないと思います。景気よく賃金アップをするニュースはテレビやラジオや新聞等々で伝わってきますが、「賃金アップなんてとんでもない」と思われている企業もたくさんあるのではないかと思います。物価高騰の一番にクローズアップされたのはガソリンの値上げだったのですが、今は電気代と食材料費のアップが最も話題になっています。

電気代の高騰についてですが、電力会社は政府の認可も無しに知らない内に金額が上がっているのが「燃料調整費」と言うわけのわからないものだと思います。例えば本部施設の例えば令和3年3月の燃料調整費が「―66.184円」だったのに対して令和4年12月には「+309.630円」と言う事でこの±の差は約37万円です。その上4月には大幅の値上げの報道があります。そんな状況の中で岐阜県老施協では岐阜県老健協と岐阜県グループ協にも働きかけて3団体で岐阜県と協議して岐阜県議会で10月の補正で食費の補助を1食当たり30円(入所施設では一人当たり90円、デイサービスは30円)の補助を12月の議会において決めて頂き、光熱水費について特養においては1人当たり12.000の補助を決めて頂きました。

勿論この補助金だけで全て解決と言うわけにはいきません。特に職員の給料の原資について国は何も示していないので、今後も国及び県に対して粘り強く折衝をしていかなければいけないと思っています。当法人の厨房委託業者も4月からの値上げについて提案に来ました。当法人のみならず、契約提案がなされている事と思いますので、アンケートを会員事業所に送り、事業所の厳しい状況をまとめてしっかりとした根拠を作成して粘り強く折衝していきたいと考えています。このままでは介護事業所のケアの質を落としてしまう事にもなりかねないので勿論節約できる事は徹底して行った上でものを言って行きたいと考えています。リピーターの皆さん、介護事業所の実情にご理解願えれば有難いです。

大切なのはこころの向きだと思います

令和5年2月12日

大谷徹奘師の日めくりカレンダーの言葉です。「こころの向き」だと言われれば、私は地域の為には身を粉にして、また、地域のニーズに応えて頑張りたいと常に考えています。しかしながら、かつて児童養護施設に勤務していた頃に、県内の児童福祉の中心にみえた方で常に全力で話される方だったので私は尊敬していた方だったのですが、私が44歳の時に本館の完成をして50歳の時に新館を増床した頃に会合でお会いした時の休憩時間に私がいないと思われていたのか、それとも故意かどうかはわかりませんが私の事業展開について「拡張路線で行くのは良くない。」的な話をされていました。正直少なからずショックでした。私は決して私腹を増やしたい等とは考えた事はありません。地域のニーズに合わせて出来る事をしていきたいとの思いで頑張ってきたのに・・・。

私が特別養護老人ホームの建設に着手したのは38歳で児童養護施設を退職して児童の分野で私なりの思いを形にしたいと言う事でした。だから、大学の非常勤講師や家庭教師や時には講演をしながら個別指導に力点を置いた展開をしてきました。しかしながら、現実には我が家の経済力は厳しい状況に陥り、拠点となる施設を造らなければ何も出来ない現実の中で情緒障害児短期施設を計画して土地の確保や建物の図面まで作成してその当時の岐阜県児童家庭課に持ち込んだのですが、10年先にしか建設の予定はないとの中から紆余曲折の結果特別養護老人ホームの建設に対するアドバイスを頂き完成したのが本部施設本館でした。

完成して2年後には特別養護老人ホームの制度が措置制度から契約(介護保険制度)になり、入居の需要が急激に増えた事もあり、地域のニーズに合わせた展開と職員の頑張りの中での展開をしてきた事に対するコメントがあのようなものなのかと思うと正直愕然としました。その後の60歳の時に大垣に優・悠・邑 和合を造った時は「これから先に個室ユニットばかりを造ると、利用料が高くて払えなくなる方が出てくるとの考えでした。

2年前に造った盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)は岐阜県内に視覚障害者の養護老人ホームがないのは視覚障害者の方にとっての安心が担保されないとの思いでした。つまり私のこころは一貫して変わっていません。但し、児童福祉から高齢者福祉に変えた時には凄い葛藤があった事は否定しませんが、今は高齢者福祉で全くぶれる事無く頑張っていますのでリピーターの皆さん、私のこれからの展開についても見守って下さい。

 

あるアンケートの結果に思う

令和5年2月11日

私がみたアンケートの質問にあった「削減して欲しいのは何ですか」の回答の中に「介護保険料」と答えられている方が沢山ありました。私はその結果を見た時に思ったのは、確かに「介護保険料を支払っているのに介護を全く利用していないので勿体ないので、利用していないのであればもっと安くても良いのではないか」とのお考えだろうと思います。昔の諺に『転ばぬ先の杖』と言うのがありますが、元気な内は誰もが「私が転倒して、ましてや骨折などするわけがない。」と転んで骨折するまでは思っている方が殆どではないかと思います。『介護』の場合の『杖』は介護保険料の支払いではないかと考えています。私が本部施設の計画をした28年前には、地元の方の中には『高齢者施設=迷惑施設』と思われていた方も少なからずおみえになりました。しかしながら、今その様な考えの方は皆無だと思います。

この28年の間に高齢化は顕著に進み、尚且つ加齢に伴い認知症になられるかたも多くなり、地域の中にも結構な数に上っているので、今では『高齢者施設=迷惑施設』から『高齢者施設=安心施設』になっていると思います。但し、元気な高齢者の方も多くみえるので、「全く活用しないのに結構なお金を支払うのは如何なものか」と思われている方は意外にもたくさんみえる事が分りました。私はその様な方に言いたいのは「自分が或いは自分に関わる方が介護のお世話にならないで元気でいられるのは幸せな事だ。もしも自分が介護のお世話になったら、介護保険料の支払い云々等とは言っておられない。」と言う事です。

介護のお世話になるのはある日突然予告も無くやってきます。突然病気や転倒によって入院しても、最近の傾向としては入院期間が短くなる傾向があり、入院されてからパニック状態で家族の方が相談にみえる事が度々あります。そんな時にしっかりと施設の機能や利用料の説明(家族の収入や本人の収入によっては利用料に対する公的扶助の制度がある事の説明)や緊急の度合いによっては入居の待機期間を短くすることもあること、その他にも日常の過ごし方等々の説明も行います。施設側にとっては『当たり前』の事であっても相手の方にとっては『分からない事だらけ』である事が多い事を、施設側は充分に理解すべきだと考えています。そして最も気を付けなければいけない事は、福祉に関わる制度は『申告主義』である為にしっかりと説明をしなければいけないと言う事です。

最後は話題が違う観点になりましたがリピーターの皆さん、私が日頃思っている事を含めて書きました。ご理解頂けるとありがたいのですが。

堂堂と生きる 自分に嘘はつかぬこと

令和5年2月10日

毎日のように大谷徹奘師の日めくりカレンダーの言葉からの書き出しですみませんがリピーターの皆さん今日もお付き合い下さい。この言葉の意味を私の都合のいい解釈で紐解いてみる事にします。私は父進の絶大なる包容力によって私が38歳の時に父進が他界するまで自分の考えのままの生き方を(我儘と言われても仕方が無いのですが)許して貰った生き方でした。

それは『堂堂と生きる』とは程遠いものですが、自分がしたい事を自由にさせて頂けたと言う意味では滅茶苦茶幸せな生き方だったと思います。しかしながら父進が他界してからは「自己責任の中」で自分が「したい事」「すべき事を」を頑張って来たつもりです。法人認可を経て特養の経営が始まってからも紆余曲折はありましたが自分なりに堂堂と頑張ってきました。「自分に嘘」と言う事はしたくないので、心身共にしんどくて夜間や早朝の対応を「パスしたい。」と思う事は何度もありましたが「初志貫徹」で25年間突っ走ってきました。

そんな中で自分の生き方にも自信が持てる様になってきたのは間違いありません。「自信を持って」と言う中で「自分を褒めてやりたい」事が一つあります。それは、どんなに疲れていて爆睡している時でも携帯が鳴ると3コールまでには目を覚まし連絡に対する指示をだし、必要に応じて施設に行く事はしっかりと出来ています。但し、最近「自分が出来ているから誰もが出来る」と思う事は間違いだと言う事に気が付きました、何故違うかと言うと『覚悟』が違うからだと当たり前の考えに至りました。

そう言えば随分前に当法人の顧問である烏野猛先生(びわこ学院大学教授・学部長)から、「若山理事長が10人いたら完璧な法人になりますがそんな事は有り得ません。」と言われたのを思い出しました。う~ん本日のコラムも何が言いたいかよくわからないものになってしまいましたが宜しくお付き合い下さい。この現象は気分的に落ち込んでいる証かな・・・。

人間は一生難しい年頃

令和5年2月9日

私は今、69歳でこの5月16日で満70歳になるのです。にも関わらず今も迷ったり悩んだり次に進めない状態が続いたりと、本日の大谷徹奘師の言葉の通り「難しい年頃」を地で行っています。今までにどれだけ「火中之栗」を拾う人生を歩んできたか。いやいや、今も拾い続けているのですから・・・。但し、火中の栗を拾うのは「地域の為」、「組織の為」と思い全力で実践しているから「大変」と思った事はありませんが・・・。いやいや、逃げ出したいと思う事は何度もありましたが、その都度支援をして頂いて今があります。

古くからの友人からは、「若山さんのプラス思考の考え方には恐れ入るよ。」と会う度に言われていたのですが、最近会った時に「立ち上げ時の資金計画を見た時には、私だったら絶対に実施しなかったな。」と言われた時には、私自身の危うさを指摘された様で考えさせられた次第です。

否定的な事ばかり言うのは私らしくないので話題を変えます。私が前立腺がんと指摘されたのは昨年の6月です。その時ステージ2だと言われ、私が大学3年と4年の時に2回に渡って腸閉塞の手術をしているので前立腺がんの手術は出来ないと言われて、約6カ月間のホルモン注射や投薬での治療をした後、昨年12月5日から放射線治療が始まり、基本的に午前中は毎日大垣市民病院に行く生活になりました。放射線科の受付を終えて更衣室で治療着に着替えて先ずは尿量を測定して貰い的確な量である事を確認して頂き(規則正しい生活を送っていたので一回で大丈夫だったのはありがたかったです。)放射線治療になるのですが、ドームのようなところに入りジッとしている時間の長く感じる事。そして、「放射線を当てていきます。」と言われて、「これで本日の治療も終わる。」とホッとする毎日が続きましたが本日無事に39回終了しました。これで完治したわけではありませんが私にとっては大きな喜びです。それは、「明日の放射線治療を気にすることなくお酒が飲める・・・。う~ん懲りない私なのであります。」

リピーターの皆さん、こんな私ですがこれからもよろしくお願いします。

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