2023年02月の記事一覧

本日は名古屋で宿泊して明日は東京で会議です

令和5年2月28日

本日14時から名古屋で会議があり、懇親会もあるのでそのまま泊まらせて頂き、明日は9時30分からの会議に参加させて頂き11時30分までの会議なのですが13時30分から東京の全国老人福祉施設協議会理事会があるので、11時過ぎに退席させて頂き東京に向かう日程です。流石に強行軍だと言う話をしていたら、吉田部長がコロナ感染症で殆どズーム会議になる前に全国老人福祉施設協議会の総務・組織委員長を私がさせて頂いていた時に全国8ブロックある所で総務・組織委員会と各ブロックの役員さんとの懇談会があり日程調整の結果、関東ブロックが東京であり東京で宿泊をして、次の日は近畿ブロックが大阪であり、午前中に大阪に移動して懇談会終了後、次の日が東北ブロックが秋田であると言う事で伊丹空港から秋田空港に飛び秋田空港に着いた時には既に20時を過ぎていてホテルまでタクシーで行き遅い夕食を食べた記憶を蘇させてくれました。

それは4年前の事で、まだまだ体力に自信もあった頃ですがコロナ感染症のために移動を伴う会議等が殆ど無かった3年間の間に飛び回れる体力が落ちている事を痛感してます。自虐的は言い方をするならば「この5月16日に誕生日(決してリピーターの皆さん誕生日のお祝いなんて心配しなくて良いですよ・・・)で満70歳になるんだから仕方がないか・・・。」等とは思いたくないし「江戸時代だったら徳川家康は70歳を超えて生きていたから長生きだったけど今、70歳で長生きをした等と言う人はいない。」と強がる事も言いたくない。

正直に言います。昨日全国大会の下見で国際会議場の確認の為に一番上から下まで階段を降りて行ったのですが足がもたついている自分に少なからずショックを受けました。(手すりが欲しいと思ったものですから)そこで、朝のお墓参りの時には6ヵ所の所で10回ずつ屈伸運動をしました。たったそれだけなのですが何となく歩く足取りが改善された様に思っています。今は11時15分ですが、コラムを本部施設にいる内に打たないとコラムの連続更新が駄目になってしまうので一生懸命にパソコンの画面に向かっています。

関ケ原駅を12時22分に乗り大垣で乗り換えて名古屋駅から会場まで歩き会場に着いたら役員の皆さんとご挨拶などしていて14時からの会議に臨む事になり、ホテルの部屋に戻った時にはくたくたな状態だと思うのでとにかくコラムが完成したのでホッと安心です。11時40分に昼食を頂いて12時に関ケ原駅に送って貰います。多分明日我が家には21時頃の帰宅だと思うのでそれまではギアを上げた状態で頑張ります。

本日は午前9時30分から全国大会の下見です

実は下見は昨日17時30分から始まっています。

と言うのは全国老施協『大会フォーラム』委員長と幹事の2人が前泊で来て頂いたので、岐阜県の役員私を含めて3人で役員懇親会会場の下見を兼ねて交流を深めたわけです。大会フォーラム委員長は利き酒の認定を持たれた方だと聞いているので、地元の最高の酒4合瓶だけ持ち込んで味わって頂いて、その後はお店の方も配慮して下さり岐阜県多治見の辛口で有名な三千盛を提供していただきました。実はお店に入る前に車を降りるとすぐそばを長良川が流れていて、長良川を見て上を仰ぐとライトアップした岐阜城を見て頂いてロケーションの良さをアピールしました。

大会は11月に岐阜国際会議場と併設しているホテルで行いますので全国の事務局も3名来て頂いての打ち会わせをして会場のイメージを理解して頂いてから具体的に11月の大会までにしっかりとした準備をして、「岐阜での大会は良かった。」と満足をして頂いて帰って頂けるように頑張りたいと考えています。

下見の打ち合わせは午前中で終わり岐阜駅まで委員長と幹事の方をお送りした後は本部施設で19時からの全体会議終了までびっしりと予定が入っていますので、9時30分からの打ち合わせ前にコラムを書いている次第です。(今は17時50分でバタバタの時間を終えて全体会前の時間にコラムを書くつもりです。)9時にフロント前に行くと既に岐阜県老施協事務局長と加藤事務局員が見えていたので挨拶をしたりしていると大会フォーラム委員会の委員長と幹事が見えたので昨日のお礼を言っていると続々と岐阜県の役員が顔を揃えられたので早速岐阜都ホテルの研修が出来る所を案内して貰い引き続き国際会議場も案内して頂きました。

私は正直200人程度が机を設置しての会場が沢山あるのに正直安心をしました。全ての案内をして頂いてから国際会議場の会議室をお借りしての第1回の岐阜県大会に向けての打ち合わせをしました。まだまだこれから11月28日~30日に掛けて準備する事は多いですし、岐阜県の会員施設の職員さんの協力無しには出来ませんので気合を入れて頑張って行かなければと考えています。

12時過ぎに打ち合わせを含めて全てが終了し都ホテルで委員長さんと幹事さんと私で昼食を頂いた後、委員長と幹事さんを名鉄岐阜駅までお送りして、一路本部施設に帰り、お客様との打ち合わせと職員の研究発表を4題聞くと共に評価をしました。

リピーターの皆さん私は毎日充実した日々である事に感謝しながらこれからも頑張って行きますので宜しくお願い致します。

大変な課題を頂いています。

先月1月26日、27日と栃木県宇都宮において全国老施協による全国大会があった事は既にこのコラムでも書きましたが、その大会の中で学会方式による研究発表会が6分科会に分かれ(※第1分科会は4分散会)9会場でそれぞれの発表があり、各会場で一番良かったのが「優秀賞」にその他2事例が「奨励賞」に選ばれて、「優秀賞」の9事例の中から「最優秀賞」を決めるべき審査員の一人に私がなったのです。勿論私が当日全部の発表を見る事は物理的に無理です。

そこで、審査の方法として先般、優秀賞に選ばれた方のレジメ、審査委員長の報告書、発表の時に使用されたパワーポイントと動画がメールで送られてきたのを見て審査するのですが、1事例15分以内と言う事で最初は正直「結構な時間がかかるな」と思いながら動画を見出したのですが、それぞれの事例が興味の湧くものばかりで9事例を一気に見させて頂きましたが、1回目では評価する余裕が無い程に見入ってしまいました。と言う事で本日2回目の視聴をしながら採点を付けています。

但し、私一人で見るのが勿体なくて幹部職員2人を呼び2事例だけですが一緒に見て「学会発表のレベルは凄いだろ。このレベルに追いつき追い越せで頑張るぞ」と激を飛ばしながら当施設も結構『優秀賞』や『奨励賞』を毎年の様に頂いた時期があった事を思い出し、「これはもう一度頑張って仕組み作りからやり直さなければいけない。」と思った次第です。と言うのは、今課長や部長になっている幹部職員は全国大会で発表する事でモチベーションを上げスキルも上げて来たのにいつの間にかその事が形骸化している事実に私自身動揺している次第です。

特に私が凄いと思った事例の中に8年間の積み重ねの中で頑固に取り組む中心者(発表者の事ですが)がいて、その考え方に共感していわゆる協力する職員がいて他職種連携(多職種連携とも言います。)が上手く行っている事例には全く舌を巻くいやいや脱帽でした。素敵な事を継続していく為には「言い続ける事」と「達成感を持てるようにする事」だと思います。今回、最優秀賞を決める為の審査委員の一人に選んで頂いた事に感謝して本日教えて頂いた事を必ず形にしていこう。その為には先ずはこの9事例を全体会等を通じて職員に視聴して貰い具体的戦略は幹部会で練って進めて行きたいと考えています。

私の食事のペースが早くなり声が大きくなったわけ

私は生まれてから中学を卒業するまで食事のペースは滅茶苦茶遅かったと思います。だから学校での給食は誰よりもダントツに遅かった事を覚えています。どうして遅かったのかと言うと我が家の中で私が食べたいと思うものについては家族のみんなで私が食べるのを見守っていてくれたので極端な話ではありますが食事に疲れて眠ってしまっても怒る事もされなかったから・・・。生存競争の激しい家族が多い所だったら食が細くなってしまう所です。野生の動物の世界だったら体力がなくて食べれないものは自然淘汰されるのですが私の場合はそんな事も無かったのです。

では、いつから食のペースが早くなったかと言えば間違いなく児童養護施設の指導員時代だと思います。児童養護施設の指導員になり1年が経過した頃はある程度の事を任される様になり、夕食の場面では食事の準備が出来てみんなで合掌をして食べだすのですが私は子ども達が食べだしてからも色んな注意をしたり怒ったりして、私は自分の食事に手を付けれないのです。そして、早く食べる事が出来る子が大方食べ終わったくらいのタイミングで食べだして食べるのが遅い子が食べ終わるまでに食事をかっこみ、私は再び子どもたちに注意をしたり、連絡をするのです。その時の習慣が抜けなくてゆっくり頂ける状況があっても早いのです。だから、今では会議が終了してお弁当が出た時でも誰よりも早く食べてしまうので、時として恥ずかしくなることがあるので「ゆっくり食べよう」と努力するのですが駄目なのです。

もう一つの声が大きくなった事についてですが、小さい頃の私は文字通り『蚊の鳴くような声で』だったのです。だから、中学生になり部活は卓球部だったのですが、オリンピック選手が「シャー」等と大きな声を出されているような事は絶対に無かったです。但し、何故か高校生になり『対人恐怖症の赤面症』は全くなくなり、自然と声が出る様になりました。特に生徒会会長をしていた時は毎週月曜日に全校集会があり、全校生徒2000人の前で堂々と話が出来る様になりました。特に声は、大学5年間の内に増々大きくなっていきました。小学4年3組の担任をしている時は『担任』と言うより『ガキ大将』のノリで話していた様に思います。そして児童養護施設の指導員時代は指摘しなければいけない事があった時には間髪入れずに話す事が出来ました。私は今、特別養護老人ホーム優・悠・邑で施設長をしているのですが、生まれた地に施設があるので中学卒業以来の同級生が実家の親さんの事で相談に来た時などは私の方は同級生と分かっているので、どこかに面影を見つけることが出来るのですが、同級生の方は私の中学時代のイメージのままでいるので体形も(これが一番大きいかも知れませんが)話し方も大きく変わっているので、こちらから名乗らないと100%分からないようです。但し、名乗った瞬間に中学時代に戻れるのは嬉しいのですが「なんや、ひろっさんか。めちゃ太ったね」から大抵始まるのはいささか・・・。筋金入りの『対人恐怖症の赤面症』だったのに色んな試練があって今があるとしみじみ思っています。

児童養護施設の指導員時代

徳山村での伸び伸び(気楽な生活)ぐびぐび(お酒の話し)の暮らしに終止符を打って貰ったのは、その当時中学校の校長先生をされていた児童養護施設経営者の関係者の方でした。正直、将来展望が見えない状況の中だったので、「わざわざ徳山村まで来て頂いての紹介だし、この段階が潮時かな」と思ったのでその日の内に紹介をして頂く方の車の後ろをついて行きました。

8月の終わりの頃です。児童養護施設だと聞いていたのですが着いた所はどう見てもお寺だったので「?」と言う所から始まりました。だって私は福祉の事など全くと言って良い程に理解していなかったので「?」のままお寺の庫裏と一般的に言われる所に案内されて「?」。話を聞いている内にお寺の敷地内に社会福祉法人で児童養護施設を経営されている事を理解して、この施設は親の元を離れて生活をしている施設なのだと言う事は理解したものの、資格も無い知識も無い私に勤まるのか・・と思いました。そこで疑問に思った事を聞きました。すると「若山さんは小中高の教員免許を持っているので指導員資格は充分です。」と言われたので私自身は「そんなものなの」と思いながら色んな話をしていると、面接をして頂いている方から、夏なのでカッターシャツの下に首から掛けている数珠の事で質問されました。そこで高校2年の夏から毎年春と夏に四国遍路の歩き団参をしている事を話すと、お寺自体は禅宗妙心寺派だけれども本堂にお大師様が奉ってあるとの事で、即採用との事。面接を終えた三日後である9月1日からの採用になったのです。

本採用だったのですが勤務時間は14時から22時までの8時間で夕食は入寮している子ども達と一緒に食べて、勤めて1カ月間は22時になると「先生ご苦労様でした。」と鍵を閉めにきて下さって正直「困難で大丈夫か」と思っていたのですが、「世の中それ程甘くない。」と言う事で仕事を覚えていく事によって加速度的に仕事の量は増えて来て、私の出勤時間は14時が10時頃になり、休日も殆ど取らなくても『やりがい』の方が勝ってしまう状況で「私は大学5年間と徳山村での半年は事前に休暇を前倒しで貰っていたので休みはいらない。」等と言っていたものです。

但し、「何も出来ない宏クン」に事件が起きたのは年の暮れの大掃除の時です。冒頭書いた様に施設はお寺の敷地の中ですので敷地が広いのです。ところが小学生の高学年、中学生、高校生は例年の事だからとテキパキと作業をしているのを私は寒がりだからズボンのポケットに手を突っ込んで「良く動く子ばかりで凄いな」と見ていると、面接をして下さった方から機関銃の様にバンバン注意を受けました。その時の私は「どの様にしたら良いのかわからないから見ているのに」と思っていたのですが、但し、翌年の年末の大掃除では指示が出せるまでになりました。つまり、私が色んな意味で動けるようになったのは児童養護施設に13年お世話になったからだと思います。リピーターの皆さん人生無駄なしです。

出会いに感謝PART2

令和5年2月23日

昨日のコラムで生まれてから児童養護施設の指導員時代まで書きましたのでその続きを書きます。児童養護施設の指導員を退職してフリーになった6年間は色んな方との関りを積極的に持つ素敵な時間になりました。但し、フリーの仕事は自分で選べて自由な代わりに収入は激減しました。但し、この6年間の生活によって節約すべきことの大切さを学ぶことが出来ました。(スイカの皮を漬物にするとキュウリよりあっさりした味で美味しく食べる事が出来る事も理解しました。)一生懸命の中で「教育・福祉カウンセラー」の名刺を持って色んな展開している中で場所の提供をして下さる方にも恵まれました。

フリーになり1年が経過した時にしっかりとした拠点を持たないと我が家の家計が何年もしない内に破綻する事を自覚して(非常勤講師の1コマは8000円程度でとても我が家の財政が正常な状態にはならない事を理解しました。人の口には戸が立たないので「若山は霞を食べて生きて行くつもりか」等と揶揄されたものです。)自分がしたい事をしながら頑張る為には拠点を造らなければいけないとの事で『情緒障害児短期治療施設』の計画を考えて愛知県半田市にある『ならわ学園』に行っては色んな事を一生懸命に教えて頂きました。私が一生懸命に情緒障害児短期施設の建設に向け無鉄砲な展開をしているのを聞きつけた遠戚の方が土地の提供の提案があり、パーツまで作成して岐阜県庁の児童家庭課(当時)に持ち込むまでにも多くの方に支援して頂きましたが、当時の岐阜県の意向は「10年間は予算の関係で計画出来ない。」と言うものでした。

あの頃の私は猪突猛進だった様でかなり無鉄砲な動きです。(今も大して変わらないのかな)その後も情緒障害児短期施設の計画からの変更を余儀なくされ色んな方にアドバイスを頂き、特別養護老人ホームの建設に取り組むことにしました。とは言えどこから手をつけて良いのやらも分からない中、講演依頼を受けた時等に飛び込みの形で施設見学をさせて頂いたのですがどの施設でも温かく招き入れて頂き色んなアドバイスを頂いたのは本当にありがたかったです。そんな中で計画が俎上に上がってからは、「お金な無いけど時間はある」と言う事で特殊浴槽・瓦・家具等々を見に行きより良い建物になる様に提案をしましたしアドバイスも一杯頂きました。

本部施設本館では土地探しからだったので地主さん7軒の家には毎日の様に訪問もしました。この時には根気よく粘り強く話をしました。この時の経験は今も生かされていると思います。本部施設本館の建設から25年が経過しましたがその間にも色んな方々との出会いがあり、今考えても色んな体験は一つも無駄な事は無かったと思います。リピーターの皆さん、これからも人との出会いを大切にしながら地域の為に頑張りますので宜しくお願い致します。

心の中で自分だけという毒キノコを育ててる

令和5年2月21日

いつもの大谷徹奘師の言葉なのですが、少なくとも私の中では『毒キノコ』と言うものは育ちようが無い毎日である事に感謝しています。どうしてそんな事が断言できるかと言えば『感謝の日々』であり自分自身『多くの方の支えによって今がある』と思っているからです。私は、今までの人生の中で常に「人の出会いに恵まれてきた」と思っています。「おぎゃ」と生まれた時には「宏命」の母秋江がいて、母秋江さんの言う事には逆らわない父進さんがいて、病弱な体ではありましたがぬくぬくの生活でした。中学1年で母秋江が他界してからは6歳年上の姉光子さんが私を守ってくれる存在でした。姉光子は全く豪快な性格で高校を卒業して関ケ原町役場に就職していましたが本当に頼もしい存在でした。私が高校生になり姉光子は結婚して関ケ原町役場は退職しましたが地元の企業に勤めて私が学校帰りに甘えれる存在でした。但し、姉光子は私が高校2年に進級した4月7日にくも膜下出血の為に急逝して、その時の1学期間は凧の紐が切れた様な生活でしたが、その時はその当時学校長をしていた父が学校に謝りにくる日々で私を支えてくれました。そんな荒んだ4カ月でしたが、その様な状況を心配して来てくれたのが熊のような風貌の鉄砲打ちの伯父さんでした。伯父さんは、その当時熱心な弘法様信仰をされていて地元の支部の支部長をされていて滋賀信行会主催の四国巡礼歩き子ども団参の先達をされていて私を弘法様信仰の道に導いて下さいました。その体験から「人の役にたちたい。」と言う事で生徒会の副会長になり、会長までさせて頂きました。その時の生徒会の顧問の先生にも色々な事を教えて頂きました。大学では色んなサークルに関わりながらも「郷土研究の会」(柳田民俗学です。)を頑張って行く中で、文化庁出身の顧問の先生にも一杯色んな事を教えて頂き可愛がって下さいました。大学を卒業して教員になった時にはいい加減な教師であった私を厳しく指導して下さった校長先生の存在は大きかったです。教員を辞めて徳山村で自分探しをした半年間には徳山村の語り部だった増山さんの民宿にお世話になりながら、増山さんの甥っ子である「ふるさと」の原作者である平方浩介先生にはお酒を飲んではダム移転に伴う問題について熱く語りあい色んな事を学ばせて頂きました。その後、児童養護施設の指導員をしていた13年間にも色んな先生に指導を仰ぎ自分磨きが出来ました。その間に35歳の時に児童養護施設の代表者17名の中に選ばれてアメリカ研修に行かせて頂いた同志との出会いも私にとっては大きな財産となりました。リピーターの皆さん。色んな私の出会いを一日では書けません。残りは明日に譲ります。

 

ほしいのは 自分に 負けない 心です

令和5年2月21日

今の私は余程の事がない限りは負けないと思います。だって、自分で言うのはおかしいかも知れませんがあえて言うなら、朝4時25分のアラームで行動開始(大抵はアラームが鳴る前に目を覚ましているので、あえてこの表現にしました。)をして、花等の水替えをしてから仏間で祈りを30分したあと、お墓参りに出掛ける毎日が昨年の6月から続いているのは凄い事だと思うからです。

本日5時25分に家を出ると屋根は真っ白で「寒い。でも頑張るぞ」と言う事で頑張りました。但し、道路はバリバリに凍てついていたので、慎重に歩きました。いつもお墓参りの時には金剛杖をついて歩いているのですが、歩くとき金剛杖の方が私の体より先につく事になるのですが、本日ほど金剛杖が有り難いと思った事はありません。と言うのは金剛杖をついた時に金剛杖が「ツルッ」と滑った様になった時には「より慎重に歩け」と教えて頂いたと思ったからです。但し、幸福地蔵菩薩様の四段の階段では本当に「ツルッ」と滑りそうになったので、正直、手をつきながら階段を上りました。その時に頭に浮かんだのは大学を卒業して揖斐高原のスキー場の梺にある坂内中学校に赴任して、初めてスキーをした時に滑っていて恐さを覚えるとへっぴり腰になってしまい、よりスピードが出てしまい結局転んでしまった事を・・・。と言う事で、わかっていてもへっぴり腰になるのを自覚しながらも何ともならないのをイライラしながら対応していました。

本日は金剛杖が支えになり転ぶ事無く家に帰れました。本日は午前11時から岐阜駅前のじゅうろくプラザにおいて『オール岐阜・企業フェス 就活大冒険』が開催され11時の開催萎えに初日と言う事で開会式典があり、来賓で招待されているので久しぶりに在来線に乗って岐阜に行きました。早くに着いたので県職員の方と話をしていると、式典で陣羽織を着るとの説明を受けて何となくワクワクしてきました。(直ぐにその気になれるのが、今の私のキャラなのです。)順次来賓の方々が控室に入ってみえて、舞台に移動してのリハーサルでは、岐阜信長武将隊の3人のメンバーの指揮により右手で拳を作り「オー」の掛け声を出しました。勿論本番はみんなばっちり出来ました。1日100社のブースが4日に渡りあるので、400社の企業が就職を希望している参加者にアピールをするのです。この様な企画を岐阜県でして頂ける事に感謝しています。

② ①

もう一度「自分に負けない」に戻しますが、私は小さい頃今須生え抜きの無敵の母秋江の庇護が当たり前の生活でしたから、私自身が強くなる必要が無かったので決して私自身強くなる必要が無かったのだと思います。だから何も出来ない幼少期だったのに、打たれ強くなったのか・・・。多分計り知れない程の経験をさせて頂きその都度、ぎりぎりの中で救世主が現れて救って下さったからだと思います。今の状況は決して自分一人の頑張りでは無い。色んな体験をさせて頂いて強くなってきた事に感謝して、これからも私に出来る事を120%で頑張りますので、リピーターの皆さん今後宜しくお願いします。

嬉しい限りです。

令和5年2月20日

かつての入居者さんの家族の方から「今は名古屋で生活しているのでかつて住んでいた家を売る事になり、必要で無い物を処分するが施設で使えそうな物を取りに来て欲しい。」との事で昨日頂きに行き(私はご挨拶に行っただけで搬入の戦力にはなりませんでしたが)かつての入居者の家族の方に何年か振りにお会いしたのですが、暖かく迎えて下さり、尚且つ、「私の為に部屋を空けといてくれよ。」と言われたのは本当に嬉しかったです。

ただし、その時の私は「ゴルフをされる様な方が特養の入居は絶対に申し込みすら出来ません。でも、入居したいと言って頂けるのは大変ありがたい事です。」と答えました。この様にかつての入居者の家族の方が声を掛けて下さる事は大変にありがたい。この現象は当法人の「ご縁を頂いたら亡くなられてからも継続的にご縁を頂きたい。」と言う事でコロナで規模を縮小していますが例年6月の供養祭、8月の夏祭り、9月の千巻経の案内はご案内を出させて頂き、欠かさづに参加して下さるご家族の方もあります。

また、もう一つ最近入居申し込みに対して嬉しかった事があります。それは、本部職員が私の所に深刻な顔で「ご相談があります。」と言って来たのです。「私は何事」と思い会議室で話を聞くと「自分の母親の実家の母親(つまり、職員の祖母)が元々要介護4で自宅で介護をしていたが先般脳梗塞を発症して救急車で搬送され入院したのだけれど、退院してから自宅介護は厳しいので優・悠・邑でお世話して貰えませんか。」との事だったので私は「内の施設で出来る事はさせて貰える様に配慮しますよ。」と答えると相談に来た職員は安心した顔で部屋を出て行きました。

この時私が嬉しく思ったのは職員自身が「自分の働いている施設で身内である祖母のお世話して貰いたい。」と言うのは、「自分が勤務している施設に祖母を入居させたいと言うのは勤務しているのに誇りを持っていると言う事で素晴らしい」と思った次第です。かつての入居者の家族の方と実際に勤務している職員の2つの事柄から今の施設の運営に間違いは無いと自信を深めました。勿論だからと言って今のままが完璧と言うわけではありませんので今後も是は是、非は非で切磋琢磨していきますのでリピーターの皆さん今後共、素晴らしければ褒めて頂き、駄目な時には厳しく指摘して頂ければ有難いです。

 

逃げればこわさがましますよ

令和5年2月19日

大谷徹奘師の言葉に「この言葉は私の人生を物語っているな。」と先ずは思った次第です。と言うのは、中学生までの私は何事にも消極的で後になってからうだうだと後悔している生き方でした。これは、私が小さい頃は虚弱であったが為に母秋江さんの大きな包容力の中でぬくぬくと育ち文字通り手も足も出さなくても良くて、それでいて頭の中ではうじうじと考えている生き方だったのです。しかも、中学を卒業するまでは、1学年1クラスだったのでその殻をぶち破る事が出来ず軟弱を演じ続いていたのです。

高校生になり私立のマンモス校に入学したので、お馬鹿をすることが出来るようになったのですが、今度は父進さんの庇護を受けてのものでした。では、大学時代はどうだったかと言えば、実家を離れての長屋のような学生向けの住宅で、凧の糸が切れた様な生活で自分なりに色んな事を頑張りたいとあがいた時期でした。中学生までは対人恐怖症の赤面症だった反動の様に、高校生の時は良くしゃべる性格になっていたので、生徒会長等をしていたのが役にたったのか、大学2年の時にサークル活動として郷土研究の会(柳田民俗学)に所属していて色んな展開の中で活動をしていたので、学術局(他に文化局と体育局)に加入する事が出来、半年後には学術局長として学生会活動にも関わる様になりました。

確かに大学時代は色んな事をさせて貰いましたが、今から考えるとその時は大真面目にしていた事も、本当に責任ある対応だったかと言うと甚だ疑問です。本当の意味で自己責任の中で行動をしてきたのは、やはり、社会福祉法人杉和会を設立してからだと思います。と言うのは、法人の中で何をするにも私が最終的な責任を追わなければいけません。そんな時に正直「逃げたい」と思うような場面がこの25年の間に沢山ありました。でも、私が責任を持ってやらなければ誰も出来ないのです。だから、厳しい場面に出会った時には下腹に力を入れて言葉を慎重に選びながら対応をしていきました。良い結果になるまでは正直イライラもしながら、ドキドキもしながら眠れない夜を何日も過ごして、でも、良い方向に向かっていった時に振り替えると、私自身が強くなっていることに気が付きました。

まだまだ、「上り坂」ばかりでなくて、「下り坂」もあるだろうし「まさかの坂」もあるかも知れません。正直人一倍打たれ強い人間にはなりましたが、まだまた出来ないことも沢山ありますし、やりたいこともまだまだあります。と言う事は、これからも決して逃げることなく頑張っていきますので、リピーターの皆さんこれからも叱咤激励を宜しくお願い致します。

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