今朝(5時30分)外に出ると息が白かったです
天気予報での岐阜県の最低気温は7度との事でしたので、多分我が村『今須』の気温は5度位だと思うのですが自分の吐いた息が白かったのには感動しました。だから外に出た時には「さむいな。」と思いましたが歩きだすと寒いのは気にならなくなり、橋の欄干で屈伸運動をしていた時にはじわっと背中に汗をかいているのがわかり「健康的だ。」と思った次第です。
本日は盲養護老人ホーム『優・悠・邑 和(なごみ)』で10時から入居者さんと一緒にお経を唱え、引き続きカラオケで私が歌を歌わせて貰い、その後、会議が出来るように会場を設定した後に全体会があります。14時からも緊急の大切な会議があるのでほっとする時間はありませんが、本日は本部施設の昼食はバイキング料理なのですが、昼間は外ばかりなのでバイキングの様子を見ることは出来ませんがバイキングについては職員に任せて理事長としての仕事を頑張りたいと考えています。
寒くなると思い出す事があります。それは高校1年生まで悲惨だった『霜焼け』の事です。特に小学生の頃の私は11月の声を聞くと両手両足の手首足首までリンリンに腫れてまっ赤、赤のてかてかで、学校から帰ると母秋江さんがゴボウの湯がき湯と冷水を準備して待っていて、湯と冷水の入った中に10秒ずつ手を入れる事を繰り返しするのが日課でした。
リンリンに腫れている時はしくしく泣いていて、少し良くなって布団の中に入るとむず痒くて「痒い、痒い」としくしくしていて、自分の事だったのですが今となったら「面倒な子」だったと思います。小学校へ行く時には靴を履くのも痛いと言って小学3年生までは姉光子さんにおんぶして貰っての通学だった様に記憶しています。(御免なさい。春子お姉さまにはカバンを持って貰っていたのですよね・・・。「ですよね」と書いたのは私の中での記憶は無いのです。「すみません。」)小学4年からは何とか自分で歩いて行ったのですがその理由は姉光子さんが中学校を卒業していまい、春子お姉さまにおんぶを頼むのは恐れ多かったのだと思います。
中学生になり、流石に『軍手』の様な腫れ方はしなくなりましたが、間違いなく高校1年の冬までは霜焼けがありました。では、高校2年生の時から霜焼けが出来なくなったのはどうしてかと言うと私は高校2年の夏休みに四国遍路に行ってからだと記憶しています。(私はこの現象を「ご利益を頂いた」と思っています。)
そして、本日10時から盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)のお参りで正信偈と般若心経を唱えてから「お経さんを大きな声で唱えさせて頂くと汗が出てきました。これは身体が活性化されている証です。」とお話をさせて頂きました。と言う事は今の私は小さい頃の私とは全く違った体質になっていると言う事で「ありがたい」とつくづく実感しています。その他にも春子お姉さまに「小さい頃の宏は音痴だったのに。」と言われているのですは、お話のあとで、しっかりとカラオケで2曲(『シクラメンのかほり』と『浜防風』)歌わせて頂きました。
リピーターの皆さん、私はますます進化していますので、これからもよろしくお願いします。
【追記】今朝の妙応寺の本堂にある大谷徹奘師の日めくりカレンダーには『ほしいのは 自分に 負けない 心です』とありましたが今の私は「負けとるわけにはいきません。」の考えしか浮かんできません。だからと言って奢った気持ちは全くありませんので。つまり、今を活かさせているのが嬉しくて嬉しくて・・・。