2022年06月の記事一覧

上には上があるお話

令和4年6月30日

私は自分でも自分が今している事を凄いと思っているのですが、私よりも勝る凄い方が一杯みえる事に驚きと感動を感じる朝の出来事です。と言うのは、私の事をリピーターの方はご存知の通りアラーム4時31分(本日は事情があり4時21分)により行動開始をして若宮八幡大神様と内仏様の水かえをしてから仏間に籠り祈りをしてから正信偈を唱えてから出張り神社経由で我が家のお墓まで行くコースのウォーキングをしているのですが、私が金剛杖を突きながら国道と町道の交差点の所まで歩いて行くと花壇があるのですがその花壇の所で草むしりをされている方を確認して「昨日もこの時間に草むしりをされていたな」と言う事で「暑くなる前に作業をしてしまおう。」との考えだとは思いますが「皆さんに見て貰おう。との考えでされているのは素晴らしい。」と思った次第です。

そして、朝刊を配っている少年も大体同じ様な時間に会うのも素晴らしい。ただし、私ははっきりと大きな声で「おはようございます。」と言っているのだから少しは反応を示して欲しいなと思うのは『要らぬお節介か。』そして、妙応寺の駐車場内の幸福地蔵菩薩様の所で手を合わせる前にエプロンと帽子をきちんとしようと石の上によじ登って直していると蜘蛛の巣がいっぱいあるので手で排除していながら「幸福地蔵菩薩様、私のしている事は要らん節介ですか」と聞きながら作業を続けました。そして作業をしながら、「何が作業がはかどる道具を持って来なくては。」とも思いました。

幸福地蔵菩薩様でのお参りを終えてトンネルでの響きを楽しんでいて、一番響きの良いであろうレンガ作りのトンネルの真ん中でしっかりと杖を突いたのですが、良い音がトンネルの上を通る車の音で邪魔をされて「世の中思い通りにはいかんな。」と実感しました。お寺の山門は開いていたのですが本堂の入り口は開いていなかったので「昨日も駄目だったし今日も駄目か。」と思いつつも元気よく幅広い階段を勢い良く上がって玄関の戸が開くかと試してみると開いたのです。そして勇んで本堂前に進むと線香が2本火が点いて立っていました。その線香の燃え方から私はニヤリとしてしまいました。と言うのは「線香を今点けました。」と言う感じで、しかも玄関の戸が開いていなかったのは方丈様が私の姿が見えたので玄関の鍵だけ開けて姿を隠されたのだと・・・。そこで私は「さりげなくをして頂いていてありがたい。」との思いました。

先ずはペットボトルの水を置いてから賽銭箱にお賽銭を入れようとズボンのポケットをまさぐると財布から出した覚えがない5百円玉があったので不思議に思いながらも「これは賽銭の中からごまきに願い事を書くべし。」と思い『がん克服』と書きました。リピーターの皆さん。このような行為は『偶然』ではなくて『必然』だと私は考えています。つまり、『夜明けは近い』と考えている私をリピーターの皆さん。これからも宜しくお願い致します。タイトルの中身がかなりずれましたがいつもの事ですがお許しください。

普通、歩きますか。

令和4年6月29日

昨日18時から彦根にある東福寺において護摩供養法要があると言うので(毎月28日です。)17時前に施設を出て参加しました。東福寺について不思議な少年に出逢いました。その少年は埼玉県からヒッチハイクで東福寺に来たとの事。しかも、岐阜市内で降ろして貰って夜中の午前零時から歩いて東福寺に14時に着いたとの事。しかも、何も食べずに歩いて来たとの事。大まかに距離は60キロです。歩き続けたとして時速5キロ(かなりの速足ですが。)12時間かかります。

2時間の仮眠を取ったとしても「速足で歩き続けと言う事ですか。」昨日の昼間の気温は35℃前後あったと思われるので「良くぞそんな過酷な条件の中で熱中症にもかからずに歩けたものだと感心しています。あまりに不思議な少年なので疑問に思った事を聞いてみました。「夜はどんな所で休んでいたの」と聞くとその少年は「夜に公園なんかで休んでいると警察に通報されてしまうことが多いので夜は歩いて昼間に休息を取ります。それに、夜の方が昼間よりは気温が低いので。」とサラッと答えられて私は「この子はこういう事に慣れているんだ。」と思いました。

また、「空腹でも大丈夫な生活習慣があるんだ。」と感心もしました。14時に東福寺に着いた少年の対応をした方によると「こんなに食べれるのか。と思えるほどに食べたのでビックリしました。」との話に私は思わず「人間も食い溜めが出来るのだ。」と言うのが正直な感想でした。その少年と住職である静慈彰さんはどれほどの関係かはわかりませんが静慈彰さんの『来るものは拒まず』の真骨頂だとは思うのですが、この少年は初めて東福寺に来たと言うものの「実に機敏に動く」いわゆる『今どきの少年ではない。』とも正直思いました。護摩供養が実施され彼が太鼓をたたく事になり、その流れの中で般若心経を太鼓をたたきながら唱えるのですが何度も般若心経を間違えてしまった事を全ての事が終わってから聞くと、「正直上がってしまいお経が飛んでしまった。」と詫びれる事無く正直に言うので「こんな素直な子が今どきいるのだ。」とこれまた感心してしまいました。

次に護摩供養で静慈彰さんが、真剣にお経を唱えながら護摩木を火の中に入れ出した時に私は自分の体に異変を感じました。と言うのは一生懸命に般若心経や不動明王様のご真言を唱えている時に私の肩が異常に重くなりました。たったそれだけの事なのですが今回も護摩供養に来て良かったと思っています。リピーターの皆さん、こう言うのは理屈では無いので私はこの様な現象を素直に受け入れています。私が弘法大師空海(お大師さん)によって導いて貰ったのは高校2年の夏休みに四国遍路に行き、自暴自棄になっていたところから救って頂きました。

そして2度目は私が社会福祉法人杉和会を設立するに当たって大変な時にも救って頂きました。そして今も3度目の救いを求めています。今までの2回についてはみんなで救って貰ったのですが今回は孤独な戦いでのお願いだったのですが東福寺に月1回参加させて頂いていて色んな形で救って貰える様に思える様になってきました。リピーターの皆さん。今回も自分の世界に入った形のコラムになってしまった事申し訳なく思いますがご理解下さい。

結局お大師様にすがっている私が見えてきました。

 

梅雨明けだとわかりました

令和4年6月28日

いくら私が小さい頃から理科が嫌い(『苦手』』と言った方が適切かな)だったとは言え、人生を重ねてきたから『夏雲』がどんなものかくらいはわかりますよ。また、昨日の朝起きて外を見たとき(4時30分頃)凄い靄が出ていて「梅雨の中での蒸し暑さはいやだな」と思ったものです。ところがお昼前には青空になり、ガンガンと温度が上昇してきたと思ったら、午後零時からのNHKニュースで「梅雨が明けました。観測史上最も期間が短い梅雨でした。」との事。と言う事は梅雨らしいジメジメした期間が短かったのは有難いけれど「まだ本格的な夏の暑さには体が慣れてない。」と言う事で本日のお昼の番組でも『熱中症』と疑われる救急搬送が昨日は多かったと報道しています。

そんなタイミングで昨夜、本部施設において全体会が行われ、私は思わず中学生時代の記憶が蘇ってきた事を職員に話しました。私の記憶も定かではないのですが、多分その当時のインドでの事だったと思うのですが、インドでの気温が40℃になり、少しでも涼しさを求めて木陰で人同士の皮膚と皮膚(肌と肌)をくっつけていると言うものです。どうして人と人がくっつけているのかと言うと、人間の体温は基本的に36℃前後なので40℃の外気温より低いので冷たく感じると言うものでした。その頃の私は「そんなものなのか」位に思っていたのですが、現代の日本でも今正に40℃を超えている所があると聞くと「日本ではどんな対応をすべきなのか」と言う事と「電力会社は需要が追い付かなくなるといけないので節電してくれ」と言ってるし、そうかと思うと「電力料金がめっちゃ上がっているので高齢者が冷房を控えて熱中症で厳しい状況になっても困る。」との懸念もあるので、対応に苦慮する毎日がこれからも続くと思います。

本日はまだ6月28日ですから、まだ悩ましい日が2か月以上続くのかと思うとゾッとしてしまいます。本日はデイサービスと新館2階及び新館1階のお参りがあったのですが、熱いからと言ってお経さんの導師が手抜きには出来ないのでしっかりと声を出して頑張ったのですが、お経を唱えながらも背中に汗が流れるのが分かりました。但しこの汗は『快感』と言っても過言ではないし、新館のフロアではカラオケを2曲ずつ歌わせて頂くおまけつき。但し、新館2階の1曲目に久しぶりに地元の歌手である砂田おさむさんの『人生夢の途中駅』を歌わせて頂いたのですが、感情移入が過ぎて歌っている途中で涙がこぼれてしまいました。勿論最後まで歌いましたが歌い終わってからさり気無くタオルで涙を拭ったのですが、入居者さんから、「理事長さん上手だったよ」との合いの手が入ったのは「流石年の功」と言うより有りません。

リピーターの皆さん。お気づきだと思いますが暑さのせいで本日のコラムの内容は話題がつながらないものになっていますが、リピーターの皆さんも『合いの手』と言う事で・・・。

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100歳のお祝いに関ケ原町の藤田副町長さんが来て下さいました。

令和4年6月27日

大正11年6月26日生まれの100歳のお祝いに関ケ原町の藤田副町長さん、西村住民課長さんが来て頂き、身内の方も4人がおみえになり、優・悠・邑の職員も参加しての100歳のお祝い会が開かれました。優・悠・邑への入居は平成20年5月30日と言う事で優・悠・邑での生活が15年目と言う事です。入居当初は認知症状はあるものの身体機能はしっかりされており、『元気で頓智の効いた楽しい方で好き嫌いなく食事もしっかりととって頂ける方。』と言うイメージを持っていたのですが、15年の経過のなかで、残念ながら車椅子での生活になられました。とは言え興味のある事に対しては目力もあり楽しく生活されています。

また、家族の方への気つかい、職員の方への配慮も出来、大らかな性格が長寿の秘訣なのかとも思います。100歳になられる方はいくら日本が超高齢化社会とは言え誰もが100歳を迎えられるわけではないので『特権』のようなものがあるのだと思いました。と言うのは昨日が家族会主催の「誕生会」があり、家族会の吉田会長さんからお祝いの品を貰って頂いたばかりです。しかも、本当に6月26日と言う正に自分が生まれられた日に・・・。(誕生会は、月に1回実施されます。)これは、持って生まれた強い『運』のようなものを感じました。

優・悠・邑での生活は本館2階の方なのですが、本館2階の職員が『金屏風』と『久寿玉』を手作りしてくれたので、身内の方も非常に喜んで頂きました。私的には職員の「参加した方が喜んでくれたら嬉しい。」との気持ちがとても嬉しいと言う事です。(会が終了するまでに記念写真を撮ったのを、プリントアウトして身内の方に喜んで頂きました。『嬉しい』と言えば本日も妙応寺の本堂の玄関口が開けて頂けていて線香立てには2本の線香に火が点いていました。

線香の点き方から言って私はいつも絶妙なタイミングでお寺に行けているのだと思うと「これからも時間をきちんと守って頑張って行かなければ」と考えています。それと共に改めて『気づかい、気くばり、思いやり、そして、ほどほどの距離』をきちんと実践されている方丈様に畏敬の念を持つと共にこの対応は私が児童養護施設『誠心寮』に勤務している当時の理事長で禅宗妙心寺派の高僧だった方から『陰徳』について教えて頂いた事と同じだなと思いました。毎日出張所の神社から妙心寺に行きお墓まで行けているのは、風邪もひかずにましてやコロナにも感染せずに、頑張れているからだと思うとリピーターの皆さん。ある意味『神憑り』と言うと大袈裟かも知れませんが「いやいや、そうに違いない。」と思う私なのであります。

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昨日は養母英子さんの7回忌法要を勤めました

令和4年6月26日

本日が正式には命日なのですが、集まるのが土曜日の方が良いと言う事で昨日勤めました。正式には本日なので本日は養母英子(ひでこ)さんの事を語ります。

私にとって養母英子さんは、私が大学生活を謳歌している時に「父親を一人にしておくのは申し訳ない。」との思いで姉春子さんの提案で父親に子ども二人から再婚を進める形で我が家に来て貰ったのです。その当時養母英子さんは私と2回り違うので43歳でした。(ちなみに父親である進さんは60歳なので17歳離れていたのです。)

大学時代の私は今の家に帰るのは良くて月に1回程度。正直生活費を貰いに行くのとガソリンを満タンにして家にあるもので使えそうな物を車に積む為に帰って来るような若者(バカ者とも言います。)ただし、我が家に来ていただいた日から「おかあさん」と言ってましたし、我が家にあるものについての説明と我が家の味付けについては私が責任を持って教えました。と言うより、私のわがままな味付けを通しただけなのですが。(基本的に砂糖は入れません。)

父進さんも英子さんも車の免許を持っていなかったので、たくさんの買い物をするときは(その頃は近くに八百屋さんがありました。)私が車を出して英子さんを買い物に連れて行きました。(50年前の時代なのに私は車の免許を頂いた日が車を買って貰った日なのであります。)近所の口うるさいオバサン連中からは「仲が良すぎる。」等と言われていたようですが・・・。「仲が良くて何が悪いの。悔しかったら息子に連れて行って貰えば良いだけでしょ。」と思っていました。

私が養母英子さんに対して出来たのは毎年5月第2日曜日の『母の日』と養母英子さんの12月18日の『誕生日』は欠かさずしていたと思います。私が養母英子を我が家に来ていただいて、本当の意味で母として受け入れたのは、私が大学3年4月の時に腸閉塞で執刀医の先生から手術が終了して体調が落ち着いた時に「あと数時間手術が遅かったら助からなかった。」と言われた時に病室で付き添ってくれた時だったと思います。前にもこのコラムに書いたように思いますが、手術が終了して3日後に全身痙攣を起こして何ともならなくて、多分、安定剤の注射だと思うのですが注射を打たれて意識が薄れていき何時間後かは定かで無いのですが、眠りから覚めた時に心配そうに私を見つめていてくれて(けしからん事に英子さん以外はいなかったのであります。)私が気が付いたのがわかったんだと思うのですが涙を一杯目にためながら「良かった良かった。」と言ってくれたときは「これで、本当の母代わりになってくれた。」と正直思いました。

母秋江さんとは僅か13年の月日。しかしながらめちゃくちゃ中身の多いものでしたが、養母英子さんとは実に44年の長きに渡るご縁を頂いたのですが、まじで喧嘩した事もありますし、「こんな親ならいない方が良かった。」と思うこともありましたが、今となっては、私の中で大きな存在であった事は間違いありません。

リピーターの皆さん。「今日が英子さんの命日だ。」考えながら4時21分の目覚めと共に行動開始して昨日と同じ様に(半ば期待をしていたのですが)2つ目のトンネルで本堂の入り口の戸が開いているのに気が付き歩きに加速して幅広の6段の階段も軽やかに歩き、先ずは金剛杖とペットボトルを置いてから期待を込めて用意した千円札を賽銭箱に入れてから護摩木2本にそれぞれ『諸障退散』『七難消滅』と書くと共に『若山宏』と書き、前回書かせて頂いた『心願成就』の隣に積まさせて頂きました。尚、本日も2本の線香が点けてあった事に感謝です。

時間があると・・・。

令和4年6月25日

昨夜の内にアラームの時間設定を10分早い4時21分にして寝ました。昨夜は寝付くのは早かったのですが、午前1時30分に部屋があまりに熱くてパジャマがしっかりベタベタだったので着替えをしてから窓を開けて再び寝ました。アラームが4時21分に鳴りアラームを停めてからもたもたしていたのだと思います。結局水かえを終えたのはいつもと同じで5時でした。

と言う事で、人間はと言うより私の性格的常に時間を計算して動いているのかと思うと「いつからこんな生き方になったのか。」と自分自身で悩んでしまいます。多分、児童養護施設の指導員として勤務しだしてから(26歳)だと思います。それまでの私は食事をするにしてもゆっくりで何事も自分で決めれない様な状況だったと思います。ところが、児童養護施設で勤務するようになってからは、『やるべき役割』がどんどん増えてきて、時間を上手く活用しなければやるべき事が回らなくなってきたことにより、時間を上手く回せるようになってきたのではないかと思います。

昔から『仕事や役割を依頼するのなら、時間が有り余っている人より忙しくうごめいている人に依頼した方がしっかりして貰える。』的な考え方があると思います。例えば、「本日は10分早く起きたのだからこの位の無駄は良いのではないか。」と言う事です。結果的には逆にいつもより遅くなってしまいました。だから、家に帰ってからのお風呂についてはいつもより時間を短くして対応しました。私の行動は決して機械の様に動いているわけではないので、時間を気にしつつも長くなった時にはどこかを短くして調整すると言うことです。こんな毎日を送ることが出来るのも毎日のやるべき事が充実しているからと感謝してます。

さて、本日は朝のお墓へのウォーキングでめちゃくちゃ嬉しい事があったのでリピーターの皆さんに聞いて頂きたいのです。その事は、これまたいつもの様に幸福地蔵菩薩様での祈りを終えてトンネルに差し掛かった時にいつもと違う感じがしたのです。と言うのは遠くに見える本堂の玄関の戸が開いているように見えたのです。そして山門とくぐってからはそれが確信に変わりました。と言う事で私の歩きのスピードは上がりました。と同時に方丈様の『お気づかい』に涙が出るほどに嬉しさが込み上げてきました。と言うのは、昨日方丈様は私の様子を見てみえたのだと思います。それで、さりげなく玄関の戸を開けて頂いていて「本堂の中に入りなさい。」との配慮だと思いました。だから、私は遠慮することなく本堂に進み、本来今須稲荷に納めていたお賽銭の一部を本堂の賽銭箱に入れてお経をしっかりあげさせて頂きました。

そして、しばらくして気が付いた事があります。それは大きな線香立ての中にある2本の線香に火が点いていることに。本日は方丈様の姿は見えなかったので既に読経は済んでいて、私がお参りしやすい環境を整えて下さったのだと思うてまたまた涙が出るほどに嬉しくなると同時に、お寺の敷地の入り口にある新になった言葉が頭によぎりました。その言葉とは『気づかい、気くばり、思いやり、そして、ほどほどの距離』(写真は昨日撮ったものです。)直接の会話を方丈様とさせて頂いたわけではありませんがリピーターの皆さん。私はそんな人間なのでありますのでこれからも宜しくお願い致します。

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本日は我が家のお墓で6時の町の広報チャイムが鳴りました

令和4年6月24日

この調子で外の時間が延びていくなら「アラーム設定を4時31分より15分早い4時16分にしなければいけないかな。」とお風呂に浸かりながら考えている次第です。さて、本日は岐阜県庁に16時にお約束がしてあるし、大切なお願いに行くので、仏間でのお参りにもより気合いが入りました。そして、いつものように準備して外に出ると靄が凄くて『雲の中』と言う感じでしたが頑張って歩きました。歩いていて「靴がしっくりこない。」と言う事なので途中で靴の紐を結び直し(この時にお腹が出ているのに苛つきます。理由はリピーターの皆さんなら理解されていますよね。つまり、トホホの話です。)靴紐を結び直し再び歩きました。分神社ではいつも以上に草むしりをしました。

その後幸福地蔵菩薩様、トンネルといつものように進み2つ目のトンネルまで行くと本堂からの鐘と木魚が響いてきました。そのまま本堂に進んで行ったのですが、木魚がまだ続いていましたが玄関前で般若心経を1巻唱えて丁度お経が終わろうとした時にタイミングよく鐘が3回叩かれました。お経を終えてから今須稲荷でお賽銭を賽銭口から入れてりんの音を聞いていると方丈様が廊下を勢いよく歩かれているのがわかりました。多分、方丈様は「誰が来とるんか」と心配になって様子をみに来て下さったのだと思います。六地蔵さん前の草むしりをしてから(結構頑張りました。)昨日備えた湯飲み茶わんの水で手を綺麗にしてから改めて湯飲み茶わんにそれぞれ我が家から持ってきたペットボトルの水を注ぎました。そしていつものように4家のお墓の水を入れ替え般若心経を中心にしたお経を唱えているとこのタイミングで町報のチャイムが鳴りました。

本日は9時に関ケ原町企画課に補助金申請の不足分の書類を提出しに行く事になっていたのに、肝心の書類は施設に置いてきた事を思い出し取り敢えず施設に行き書類の確認をしてから役場に向かいました。企画課の担当者に書類の確認をして頂き「全て大丈夫です。」との事で現地の確認については6月27日に実施して頂く手はずを整え関ケ原町役場の2階から1階に降りて行くと参議院選挙の期日前投票のエリアを通ったので「投票用紙はまだ来てませんが大丈夫ですか」と会場前にみえた担当者だと思える方に聞くと「選挙管理委員会の者を呼んできます。」との事。

「選挙管理委員会は2階だし少し時間がかかるな。」と思い受付の方に「まだ投票用紙が届いていないのですが投票できますか。」と聞くと「大丈夫です。」と言われて1枚の用紙を渡されたので書類に必要事項を記入して先ずは1枚目の『選挙区』の用紙を渡されて名前を書き、投票箱に入れてから『全国比例』の用紙を貰い慎重に名前を書きました。2枚目の用紙を投票箱に入れてから『期日前投票の証明書』を頂き無事に国民の権利を行使する事ができました。

よく考えてみえるに投票所前にみえる方は何の為にみえたのかと思ってしまった私はがおかしいのでしょうか。私の感覚では「入口に立たれている方は全て理解されている方。」だとの認識なのですがそうで無かった事に違和感を覚えたのです。少し格好を付けた言い方で言えば「受付(インテーク)の段階で80%の評価が決まる。」と考えています。(この事絵のこだわりはいずれコラムに書きます。)さて、本日16時からは岐阜県庁内での大切な打ち合わせがありますので、少し落ち着かない状況ですのでコラムは早くに書きました。

 

本日は6時15分に家に帰り着きました。

令和4年6月23日

いつものように4時31分のアラームで行動開始をしていつものように水かえとお参りをしてからいつものように数珠、金剛杖、ペットボトルの水を持って家を出た時の時間は5時20分とこれまたいつもの時間です。大抵は家の手前あたりで町の広報の6時のチャイムがなるのですが本日は6時のチャイムは妙応寺の境内で聞きました。だからタイトルの通り6時15分に家に帰り着いた次第です。どうして15分近く時間がかかっているのかを考えてみるに分神社と六地蔵さんの2ヶ所で草をむしる事をしていた事。しかも『3本』にこだわらず「これも、これも」と草取りをしていて、手の汚れを六地蔵さんの水かえの時の水を活用して丁寧に手を洗ったりしていたから。それからもう一つ思い出しました。駐車場内の幸福地蔵菩薩様のエプロンいやいやよだれ掛けがだらしない感じだったので、石の上に乗り自分が気に入るまで直していてついでに蜘蛛が出てきたので(しかも3匹も)お地蔵様から追いやったりもしていたなと思い出しました・・・。私は毎日コラムの継続をしているのですがここまでの出来事と言っても妙応寺まで行ったことだけでここまでに書き上げているからこそ続いているのだと思います。(ここまでの原稿は朝食を終えて施設に出勤する前に書きました。)寸暇を惜しんでと言う程に大袈裟な事ではありませんが自画自賛です。『じがじさん』とパソコンで打ち込むと『自画自賛』と出てきました。「これは間違いではないか。」とこれまたパソコンで調べてみました。『自画自賛』が正解だと言う事を知りました。(めっちゃ勉強になりました。)

本日は10時30分から、3施設合同の給食会議を厨房の委託業者である日清医療食品を交えて行いました。3施設合同での給食会議は初めてだったのですが3施設合同だと言う事で色んな視点から意見が出たのは有意義でしたので、理事長として最後に「お互いに入居者さん利用者さんにとっての生活により豊かになる為に、出来る事を精一杯して頂きたい。」と話をしました。午後からは盲養護老人ホーム優・悠・邑 和(なごみ)の施設でお参りと共に全体会に参加する為に移動して和(なごみ)の施設で昼食を頂き、時間なく仏間に移動して皆さんと共にお経を唱えお参りが終わった後は予定通りカラオケで歌わせて頂くのですが『奥飛騨慕情』のリクエストを頂いたのですが、私は岐阜県民でありながら歌った事が無いので上手く歌えなくて1番のみ歌った段階で「御免なさい。次回までに勉強してきます。」と言って北島三郎の『祭り』と『酒よ』の2曲を歌わせて頂き名誉挽回しました。リピーターの皆さん。バタバタの毎日ですが地に足が着いた毎日にして頑張りますのでこれからも宜しくお願いします。

雨が降っていましたが・・・。頑張りました。

いつものように、仏間でお経をあげてから、数珠、金剛杖、ペットボトルの水を持って外に出ると細かい雨が降っていたのですが、「ここは気合いを入れて」と分神社に向けて歩きだし、分神社に着いて3社に手を合わせ、それぞれに『心願成就』を祈願していると雨足が少し強くなってきたので急ぎ家まで戻り「ここで終了は駄目だ。」と玄関先にあった傘を持ち、改めて妙応寺に向けて歩きました。いつもの様に『幸福地蔵菩薩様』に手を合わせながら「南無幸福地蔵菩薩様」と言いながら幸福地蔵菩薩のよだれ掛け(この表現は失礼か。前掛けの方が正しいかも)が真っ直ぐになっていないのが気になり(結構背の高いお地蔵様で)石の上に登ってきちんと直そうとすると蜘蛛が出てきたので殺す事はしたくないので「ここから離れて」と言って手で蜘蛛にはお地蔵様から離れて貰いました。トンネルを2つ抜けると山門は開いていたので本堂まで真っ直ぐに進み般若心経を1巻唱えて「諸障退散、七難消滅」を一生懸命に唱えてから、今須稲荷に進み家で準備した1円、5円、10円、50円、100円をズボンのポケットから出して1個ずつ賽銭口に入れると澄んだ音でおりんが鳴り音の違いを楽しんでいました。今須稲荷では『心願成就』をお願いしてお参りを終えると本堂の方から鐘と木魚の音が響いて来て「今日はいつもより早くに方丈様が読経をあげているな。と言う事で何となく幸せな気持ちになれました。その後『関ケ原与一』の五輪塔に手を合わせながら、「私に力を」と気合を入れました。次に六地蔵様の所に行き先ずは草を抜き蝋燭があったのでライターで火を点けてよくよく見るとお地蔵さんそれぞれの所に湯飲みが有り湯飲みを囲む様に数珠があるのは理解していたのですが湯飲みの中の水を入れかえる発想には至っていなかったのですが「ペットボトルの水があるがね。」と言う事で6個の湯飲みの水を我が家の水に替えさせて頂き我が家のお墓に行き我が家の湯飲みの水を替えてから、吉澤家、及川家、柴田家の水を替えて回ると「あ~ら不思議。ペットボトルの水が丁度でした。」こんな事も不思議だと思える心の余裕が出来ている事に私自身嬉しくなりました。「だって、つい最近まで心に余裕が無くてイライラしていたのに」と思える自分がいました。正直今はとても厳しい状況が有りますが、厳しい状況だからこそ『本当の支援者とそうでなかった人』が良く分かります。つまり、今は自分を見つめ直す良い時期なのだと思います。リピーターの皆さん。私の大親友の一人に児童福祉の専門家である、八楽児童寮(愛知県新城)の太田一平理事長がいるのですが、彼は私の事を「若山さんの常にプラス思考でいる姿が素晴らしい。」と言って頂いているのですが、そうではなくて小さい頃はマイナス思考ばかりだった反動だと思うのですが、マイナス思考より、プラス思考の方が良いと思いませんか。

妙応寺では色んな発見や思い出が浮かびます。

令和4年6月21日

『関ヶ原与一』は藤原基清と言う人物で牛若丸にも関わった(殺されたと言う事ですが)と言う事ですが、平家と源家が争っていた平安時代末期の事で歴史で語られるのは『勝者からみた伝えかた』になるので、真相はわかりませんが、謡曲になって伝わっている位ですから、どちらにしても関ヶ原を中心とした有力者に違いないと思います。本日も山門が開いてなかったので山門前で般若心経を1巻唱えてからぐるっと回り六地蔵さんに行き、それぞれのお地蔵さんに手を合わせ、草をむしってから我が家のお墓に行き、水かえを4ヶ所(若山家、吉澤家、及川家、柴田家)してからしっかりとお経を唱えて再び六地蔵さんから今須稲荷、本堂経由で帰ることにしました。

六地蔵さんから『常在不滅之塔』に移りいつも気になっていた木魚に頭を乗せて眠っている可愛いお坊さんを見て本日はふと私の次男が小学生の時に四国遍路に一緒に参加させた時の事を思い出しました。その出来事とは大阪から船底に乗って四国に向かった時に(旅費を安くする為の方策だったと思います。)次男は初めての船に興奮すると共に自販機でカップ麺を購入して食べたりするのが嬉しくて何度注意しても眠りに着こうとせず、(私はしっかり寝ましたが)殆ど寝てない状況でいざ四国遍路が始まって札所ごとにお経を唱えるのですが、次男はお経が始まると階段の所に頭をもたげて寝ているのを思い出しました。

その時は父親らしく「あれ程寝なければいけないと言ったのに。でもこれも良い経験だ。」と思いましたし、何となく次男の事を微笑ましく思っていたことを思い出しました。次の写真は本堂の屋根から雨どいの水受けの大きな物に龍がレリーフの様になっているのを見つけ(何度となく見ているはずなのですが興味を持って見ていなかったようです。)龍は私にとってトレードマークの様なものなのに今まで気付かなかったのが不思議な気がしてます。本堂の写真は流石に別格本山としての威風堂々と言う感じでしょ。私が小さい頃は(50年以上前)修行僧も沢山みえて、クコ料理の精進料理があり、観光バスでのお客さんもあり、近所のおばさん達が多くお手伝いに行かれていたのを覚えています。(今はその様な事も無くなってしまい非常に残念に思います。)赤い鳥居がある写真が『今須稲荷』です。本堂の西隣にあるのも当たり前の様に存在してますが本当は不思議な事の様に思います。

山門の右手にある鐘突き堂なのですが実に立派な建物だと思います。この鐘突き堂へは12月31日の夜には紅白歌合戦が終わってから鐘を突きに毎年参加してましたが、正直紅白歌合戦を見なくなってからはその年中行事が若山家から無くなったなとしみじみ思った次第です。「あっ。そう言えば思い出しました。」小学生のころは日曜日学校が開かれていて座禅やお経を習った事を。リピーターの皆さん。朝早くウォーキングマシンが動かなくなり、外を歩くようになって小さい範囲ですが『地元探訪』を楽しんでいます。これは一石五鳥位になっていて素晴らしいと自画自賛です。と言うより、子どもの様な目で色んなものが見れる事に幸せを感じています。

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