2022年03月の記事一覧

早くに行動してもお風呂には6時を過ぎてまう

令和4年3月31日

昨夜は(と言うより『昨夜も』の方が正しい表現かな)21時には異常に眠くて、20時30分にはベットに横になりました。1週間に一度の熱燗(コップに一杯のみ)を飲んだ性で食欲旺盛で、一人前に食事を食べてから、大きなアラレを「もう1枚もう1枚」と食べて、だめ押しにアイスクリームをベットに持ち込む体たらく。アイスクリームを食べ終わって21時には眠りにつき、午前3時に目を覚まし、その後はベットの中でもぞもぞしていて、(午前3時にそのまま起きるとその日は1日中眠いので)いつものように4時38分にアラームをセットしてあったのですが「何時かな」とビデオデッキで時間を確認すると4時37分で「よ~し、行動開始」と思った瞬間にアラームがなりました。何とも凄い「グットタイミング」アラームに勢いを得て、効率よく若宮八幡大神様と仏壇への水替えが出来て5時前に仏壇の前で正信偈を唱えてウォーキングマシンに乗っての般若心経13巻を効率よく進んで行ったので6時には全てを終えたので『6時にはお風呂に入れる。』と思ったのですが、「そうはとんやがおろせない・・・」何故ならウォーキングマシンに乗っての般若心経13巻を終えた後で若宮八幡大神様の所で不動明王様のご真言と高野山の静慈圓大僧正様から頂いたお札の『諸障退散』と『七難消滅』を繰り返していて蝋燭の火を消してお風呂にいくと、6時30分になっている。ベットを抜け出しおおよそ2時間は仏間に籠るのが習慣化したと言う事か。でも良く考えると1日の中で一番充実して心落ち着いている時間なのかも知れません。

話は変わって、我が家の『紅梅の木』の話をします。我が家が今の所に住むようになったのは、昭和21年に父進と母秋江が結婚してしばらく仮住まいをしていた松尾の親戚の家から春吉爺さんが用意してくれた中古の家を購入(恐らく昭和23年頃)してから始まります。そして、進さんが、地元の大工さんに依頼して新築の家を建てたのが昭和36年頃。その後私が平成16年に今の家を建てました。何が言いたくてこんな話をしているかというと、昭和23年に新居を構えた時には『紅梅の木』は既にあったのです。つまり、少なくとも70年以上経過した古木だから、写真でみて頂いた通りに木の間が大きく穴が開いた状態なのです。

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でもね。リピーターの皆さん綺麗な花を咲かせていると思いませんか。NHKのあさの連続ドラマの「美味しくなあれ。美味しくなあれ。」ではありませんが「来年も綺麗な花を咲かせて下さい。」が通じていると思っています。『思いは通じる』で私も今まで以上に頑張って難関を突破したいと考えています。何と言っても『諸障退散』『七難消滅』ですから。

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高野山の静慈圓大僧正からお手紙を頂いて

令和4年3月30日

昨日のコラムの最後に予告しておいた高野山の静慈圓大僧正様から頂いた手紙について書くことにします。実は、昨日のコラムでは、海津から帰ってきたら手紙が来ていたように書きましたが、正確には昼食を頂いて時間がないなかで五次事務長が「静先生から手紙が来ていますよ。」と言われて、慌てて封筒を乱暴に開け(今は乱暴に扱った事を後悔しています。)手紙と共にお札が添えてありました。手紙を読んでいても時間がないからか頭に入ってこない状態だったので、海津から帰って落ち着いて読むことにしました。

海津での会議を終えて施設に帰り、意の一番に静慈圓大僧正様からの封書を持って本館1階の仏間に行き、仏壇が閉まっていたのを開けてから、蠟燭と線香に火を点けてから、心落ち着けお札を取り出すとお不動様のお札に静慈圓大僧正様に書いて頂いた『諸障退散』『七難消滅』と『願主 若山宏』との朱文字の字が飛び込んできました。不動明王様のお札と言う事で、仏壇の中に安置されている不動明王様の前に置かせて頂き、仏壇前に座って静慈圓大僧正様から頂いた手紙を声を出して読んでいき、後半部分に『毎日の心痛をお察し申し上げます。』の下りからの3行は涙が溢れて声になりませんでした。その後、四国で覚えた般若心経を中心にしたお経を唱えると共に偉大なる静慈圓大僧正様にまで心砕いて頂いているのかと思うと不思議な力がみなぎってきたように思いました。

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そして、本日は4時38分のアラームより早くに行動開始をして、いつものように仏間に2時間閉じこもり本日からは「諸障退散』『七難消滅』を繰り返し繰り返して唱えると共に不動明王様のご真言である『のうまく さんまんだばらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん』も繰り返して唱えさせて頂きました。仏間での時間を終えてお風呂で汗を取り、朝食を食べた後は10時にご挨拶に行くところがあったのでスーツに着替えて本部施設に行き、静慈圓大僧正様にお礼の手紙を書かせて頂きました。朝のすっきりとした気持ちの中、私なりの素直な気持ちを文章にしたつもりです。不思議な事に9時15分には出掛ける予定で書き終えたのが9時12分でした。

この時に私は今の厳しい状況も皆さんの支援を得て良い方向に行くと確信しました。だって、高野山の法印を勤められた大僧正までが支援して頂いているのだから。もっともっと精進をして今の難局を乗り切り、福祉道に邁進していきたいと思いますのでリピーターの皆さんこれからもよろしくお願いします。

 

早朝4時48分にショートメールが・・・。

いつものように4時38分のアラームでベット上での体操をして、お参りが出来る準備(ウォーキングをして汗をかくので着替えとかタオル、靴下、数珠)をして1階に降りようとするとショートメールのコールがきたので、かなり緊張してメールを開こうとすると、登録がしてない番号だったので、余計に緊張です。メールを開くと高校の一級後輩(とは言え、当時は全く知らない存在)で株式会社で介護の責任者をしていた方からだとわかり、「ほっ」とすると同時に「どうしてこんな時間なの」と思いながらメールの内容を見ると本日の岐阜新聞に岐阜県老人福祉施設協議会が4月1日に一般社団法人になる記事が大きく掲載されていて、私の写真がこれまた大きく掲載されていたと言う事メールの内容だったので、直ぐに連絡をすると、彼の家には午前3時30分には新聞が配達されていて、毎朝4時から一時間かけて新聞を読みその後ウォーキングをするのだそうです。早い時間にメールしたのは私のコラムのリピーターで私が早くから活動していることを知っていたからだそうです。ところで本日の岐阜新聞で4月1日から岐阜県老人福祉施設協議会が一般社団法人になることについて、少し述べてみたいと思います。今も『岐阜県老人福祉施設協議会』とは名乗ってはいますが、ある意味勝手に名乗ってきただけなのです。4月1日に法務局に法人登記をすることにより、『認可』された実体が伴う組織となるのです。つまり、完全な独立した組織となるのです。今までは岐阜県社協に事務局を委託しての活動だったのですが、自前の部屋を持ち、事務局体制も自前になります。(当面は事務局二人体制です。)今までは岐阜県社協経由での事業だったのですが、岐阜県等の事業委託も直接に受ける事が出来て補助事業も直接受諾することができるのです。確かに自らの足で立つのは大変な事も多いのですが、自らの考えで自らやりきれる事に意義があると理解して頂けたので正式に総会で承認されたのです。私は岐阜県老人福祉施設協議会の副会長を10年、会長を9年勤めさせて頂いてようやくここまできました。4月からは役員一同が会員施設にとって有意義なものにしていきたいと考えています。話はかわりますが、本日午前10時から12時過ぎまで全国老人福祉施設協議会の制度政策検討会のリモート会議があり、昼食を急いで食べてから海津まで運転して会議に挑んだのですが、運転中に気が付いたのは今須を出た時は桜は蕾にもなっていなかったのが、養老では5分咲きで海津に入ると殆ど満開。会議ではしっかりと話が出来たし桜を順番に咲いたのを見ることが出来たし、施設に帰ると高野山の静慈圓大僧正から手紙が届いていました。この事は明日のコラムでしっかりと書きます。

施設でクラスターが発生したら・・・

令和4年3月28日

コロナは収束に向かっているとは言え、まだまだ油断を許さない状況がある中で、万が一施設においてクラスターが発生した時には『施設内でクラスターを完結すべし』と言う考え方が出てきている。沖縄県では、施設の職員の陽性者が陽性者の入居者のお世話をしていた。との報道まで出ている。保健所によっては「施設には嘱託医が配置されていて、看護職員がいるのだから施設内で完結すべし」と言う考え方のところもあると聞いています。しかしながら特養における嘱託医の配置についての考え方は『健康管理』が主たる役割だと認識しています。

特養においては常勤医師が配置されている施設はほんの僅かであり、クラスターが発生した時の対応までは出来るような状況ではないのが現状です。つまり、現状認識もしないで『特養でクラスターが発生したら施設で完結すべし』はあまりにも現状認識からかけ離れたものと言わざるを得ません。勿論、受け入れる側の病院にとっては、コロナに感染したからと言っても、症状が軽くて、しかも認知症で徘徊されるような方の対応には苦慮されると思いますので入院受け入れを躊躇さるる対応を取りたい気持ちも理解できます。では、どのような対応がベストかと言うと、多くの入居者さんや職員に感染して入院が難しい状況の時には『感染症専門看護師と医者等に施設へ応援に来て貰い、施設の中を『グリーンゾーン』『イエローゾーン』『レッドゾーン』にわけて、感染症対策をしっかり施しながら施設の職員に対策を留意して貰い二次感染、三次感染を起こさなくて陽性者の対応をしていく事によって収束に導いていく事だと考えています。つまり、何でもかんでも施設でお世話をすると言うのではなくて、きちっとした体制をとったうえで対応することが寛容だと思います。蔓延防止対策は解除されましたが、決して『ゼロ』になったわけではありません。

確かにコロナ対策にへき易されてみえる方のたくさんおみえになると思います。しかしながら、油断なく『コロナ対策』を万全にして、『ウィズコロナ』で過ごす事が大切な事です。『感染症』や『伝染病』は生命が有る限りどんな化学力、科学力が提案されても『ウィルス』も進化し続けます。それが自然の摂理なのです。だから、落ち着いてきた頃に進化したのが出てくるのです。(今の第5波は『オミクロン株』)何れコロナの治療薬は市販されるようになると思います。だからと言っても、リピーターの皆さん、手洗い、うがい、検温は習慣化して、健康な毎日をお互いに送りましょう。私はまだまだ、大変な日々なので、今朝も4時38分のアラームで起きて頑張っているのですが闇が晴れたら美味しい料理と美味しいお酒を飲める日を楽しみにして頑張りますので応援宜しくお願いします。

今朝の目覚め時に頭が痛くて・・・。

令和4年3月27日

昨夜は異常に眠くて、と言うよりも1日中眠かったように感じていました。勿論、色々な相談にはしっかりと対応していましたし、コラムも書けました。眠かったのには色々な事が考えられます。①夜しっかりと眠れない。②花粉症で体が怠い。③確実な予定がないからシャキッとしない等々です。だから、昨夜は21時には無呼吸症候群のシーパップと言うマスクをつけて早々に寝ました。その前に大切な事を忘れていました。それは、2週間ぶりに熱燗を1合半程呑みました。2週間禁酒していたのは、ピロル菌の薬を1週間毎日飲んだのでその前後を含めて飲まなかったからです。

入居者さんの状況に厳しい状況の方がおみえにならないのもお酒を飲むのに背中を押してくれました。お酒を飲むのが久しぶりだった為か結構酔いが回るのが早かったです。酔いが回ると私の場合は食欲がわいてきて、食事を食べて、熱燗も1合半飲んだにも関わらず大きなあられをバリバリと何枚も食べてしまいました。お酒と食欲の関係は私の場合ですので根拠があるわけではありませんが私の場合はそうなのです。最近、滅多にお酒を飲まないからでしょうか体重が4キロも落ちたのですが、お腹の肉が落ちるのは最後なのか、お腹の出っ張りが余計に目立っているのが気になります。本題に入らずに500字も書いてしまいました。

本題に入ります・・・。(本題が何だったか分からなくなり、思わず確認しました。)「今朝の目覚め時に頭が痛くて・・・。」でしたのでこれから語ります。4時38分のアラームで目を覚ましいつもの様にベット上での体操をしようとしたら「頭が痛い」取り敢えず体操をして、着替えを持って1階に降りていつもの様に着替えをしてから洗面を終えて、いつもとはパターンを変えて「頭が痛いのが心配だから血圧を計ろう。」と言う事で『130-91』だったので、「血圧はそれ程心配ないな」と言う事で、若宮八幡大神様と仏壇の水替えをして蝋燭と線香に火を点け先ずは若宮八幡大神様に手を合わせお願い事を大きな声でしてから仏壇に移り正信偈を唱えたのですが、この段階でも頭が痛い。「う~ん。困った。」と思いつつ、ウォーキングマシンに乗り歩きながら般若心経を唱えていると、歩いているわけなので、当然ながら汗をかき出したら「あ~ら不思議。頭の痛いのが治った。」と言う事で、この現象は『二日酔い』と言う事何だと結論付けました。

コロナ禍でお酒を飲む機会が激減したのと、色々と大変な状況があり、お酒を飲む余裕が無かった事により、私は『酒豪でなくなった。』と言う事何だと言う事です。お酒が美味しく飲める様になるまでは月に3回程度1合半までと決めていますが、美味しく飲む雰囲気の良い酒は二日酔いをしないと思いますので(今までに何回も1升酒を飲んでますが、二日酔いにはなっていませんので。)今は控えていずれはち切れた時に浴びる程飲むのを楽しみにして今は私の出来る事を精一杯頑張りますのでリピーターの皆さん応援よろしくお願いします。

 

昨日のコラムでは意が尽くせなかったので・・・。

令和4年3月26日

私は特別養護老人ホーム『優・悠・邑』の施設長として、お陰さまで24年間、入居者さんからの『最後の教え』である『看取り対応』を大切にしてきました。昨日の記事にも有りましたが、『死』は誰にも平等に一生に一回あるもの。記事の中では「病院ではなくて自宅で」と書いて有りましたが、私の施設では「自宅以上に楽しく、やすらぎの場所」であり「家族が出来ない分、職員がしっかり受け止めて対応させて頂く。」を常に念頭に置いています。昨日のコラムで『枯れるように』は、葬儀の際にお棺でやすまれているお顔を見て、『やすらかな寝顔』を見ては、「良かった。天国でもゆっくりとおやすみ下さい。そして、家族は勿論の事、入居者さんや職員を見守っていて下さい。長いことご苦労様でした。」とお話をするのが嬉しいです。※昨日のコラムのまとめで以上の様な事が書きたかったのです。 

かつての職員が私の外出中に来てくれました。

 外出から帰り私の机の上に1通の手紙が置いてあり、確認をしようとすると、事務所の職員から「結構な量の豚肉を職員だった〇〇さんから頂きました。(実名でも大丈夫かとも思いましたが)」との報告を聞いて「手紙を添えるとは彼らしいな。」と思いながら冷凍庫に入れてあった豚肉を確認して、かつての職員に連絡しました。そしてその電話の中で「たくさんの豚肉を頂いたので寸胴の鍋で豚汁を作って入居者さんと楽しむよ。」と言うと「理事長ならその様に言われると思っていました。」と返されたので私は「ワンパターンで申し訳ございません。」と心の中でつぶやきました。そして本日管理栄養士に確認して来月17日の日曜日に実施する事にしました。今年初めての『寸胴祭り』に今からワクワクしています。だって私がワクワクして、そのワクワク感を伝染(悪い病気ではありませんよ。)させて入居者さんや職員がフィーバーしてくれるのを今から楽しみにしています。 

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本館2階の『さくら』 

本日は朝からどんよりとした、雨降りで小寒い一日なのですが、本館2階の食堂に行くと正に『春爛 漫・・・』『さくら、さくら、さくら』西村課長によると「まだ未完成ですが、入居者さんが一生懸命に頑張って貰っています。」とのこと。リピーターの皆さん桜の花に見えるのは『おはなかみ』と言う商品を入居者さんが桜に似せて折って下さったものなんです。素晴らしいと思いませんか。

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またまた『週刊現代』情報です。

令和4年3月25日

『跡を濁さない「死に方」は選べる』、『医師が教える「上手な最期」の迎え方』、『必読 人はこうやって死んでゆく』とのタイトルが並び小見出しには『チューブだらけの最後』、『赤ん坊に戻ってゆくだけ』、『どうしたら開き直れるか』、「目をそらさず考える」とあり、太い字で『死は誰にでも平等にやってくるが、一度しか経験できない。そのため、多くの人が納得のいく形で亡くなることが出来ていない。「下手な死」を避け、「上手な最期」を迎えるためには何が必要なのか。』とありました。その時私自身の経験(私自身の死んだ経験ではありませんよ)先ずは生母秋江さんは私が中学1年の時ですが母秋江さんは癌が転移しては重症化して入退院を繰り返していましたが、最後は自宅で家族を含めて大勢の身内に見送られて他界しました。この様になったのは父進さんの強い思いを今は感じる事が出来ます。

と言うのはその当時の父は既に学校長を3年経験して次は地元の中心校の校長にもなれる状況であったにも関わらず「妻秋江の最後は自宅でしっかりみたい。その為には学校長をしていては休みの調整が出来にくい。」と言う事でその当時の西濃教育事務所への転勤を希望したと聞いています。その当時(55年前)の母秋江は骨癌の末期で今で言う『緩和ケア』を望み、関ケ原病院もその体制をとって頂けたと言いう事で痛みを緩和するための『モルヒネ』で殆ど錯乱していたと思うのですが(既にコラムで書いていますが)最後は静かに安らかに息を引き取ったと思っています。父進さんは私が38歳でフリーランス(大学等の非常勤や家庭教師をしていました。)だった時の6月22日の朝、真っすぐ歩いているつもりが、しっかり歩けなくて「これは、何らかの異常の前兆だ。」と思い関ケ原病院に受診して即入院になりました。その頃の私は、稼ぎは少ないけど忙しい生活をしてたので、病院に様子を見に行く事があっても『看病する』時間などなくて、唯一病院で泊まったのが8月11日で、他界したのが12日の早朝。つまり、私が生まれて初めて看病の為に泊った日に他界したと言う事。

でも、家に連れて帰り昼間は葬儀の準備でばたばたでしたが夜は父進の隣で父の『ほっ』とした顔を見ながら寝る事が出来たのは幸せでした。週刊現代の記事の中で私が言いたいことがかいてあったので書きます。『下手な死を避け、肉体的にも精神的にも苦痛の少ない上手な最期を迎えるにはどうすればいいのだろうか。余計な苦痛を感じずに亡くなるんは、死期を迎えた時にはもう何もしない事です。その為には病院では家で亡くなることが一番の方法です。病院に行けば命が助かると言うのは、幻想にすぎません。死の間際の点滴は血液を薄め、内臓に負担をかけるだけで、酸素マスクもただ呼吸の邪魔をするだけ。穏やかな最期を迎えるには、いかに医療から離れるかが重要になるのです。』との記述を見た時に『我が意を得たり』と思いました。つまり、私が提唱している『枯れる様に』『枯葉がちょっとの風で落ちる様に』・・・。

う~ん。リピーターの皆さん本日のコラムの意が通じたか自信がありませんが、19時からの1時間の本部施設での全体会の後にまとめをしたので、締まりのないものをお詫びして明日には名誉挽回と考えていますので懲りづにこのコラムを読んで下さい。お願いしま~~す。

『水緩む』(正確な言葉で無いかも知れませんが・・・。

本日もアラームのセット(4時45分)より早くから(とは言え4時40分ですが)からの行動開始で若宮八幡大神様とお仏壇のお水かえとお祈りとお仏壇での正信偈とウォーキングマシンに乗っての般若心経13巻を唱えて、再び若宮八幡大神様とお仏壇で手を合わせ父、母、姉、英子さんに挨拶をしてから(ここまでの説明が長くてマンネリ化してますか。いやいや継続は力と信じてます。)お風呂に行き洗い場で水を頭も含めて全身にシャワーを浴びてから浴槽に入るのですが、お湯の追い焚きを忘れていて追い焚きのボタンを押して直ぐにお湯に足を入れた時にまだ最近までは「冷たい。」と感じていたのに「何とか大丈夫だな。」と言う感じで足を入れる事ができました。と言う事はタイトルの通り『水緩む』と言う事か。いやいや、朝方の寒さが緩み浴槽内の蓋をしたお湯が極端に冷めなくなったと言う事で、こんな所にも春を感じる事が出来たように感じました。

私は児童養護施設の児童指導員になった26歳の時から、かれこれ40年以上が経過する中、自分で言うのも変なのですが、こんなに情緒的な思いをするようになったのには自分自身驚きです。これは、今の現実が厳しい状況で自分を振り替える事を寝ている間も考えている中での賜物のように思います。死ぬ直前には一生が走馬灯のように甦るとか。でも、私は生きているから毎日毎日の振り返りが出来ると言う事で、ある意味貴重な経験を積まして頂いているのかも知れません。何事に対してもこの様にポジティブに考えれるようになったのは『復活』への兆しなのかと都合よく考えています。

本日は10時から和(なごみ)でお参りと全体会があり、14時からは和合での全体会が予定されていたのですが、予定は未定で決定ではないの通り、昨夜亡くなられた方の家族の対応の為に施設に早くに行きました。葬儀の対応について相談に乗り、施設側で出来る事はしっかりさせて頂きました。このスタンスは施設を開設した24年前から変わりません。だってお困りの事に対して何とかするのが施設の役割だと考えているから・・・。和(なごみ)での対応、和合での対応を終えて本部施設に帰り、最後の仕事は明日の葬儀を受けて下さったお寺さんにご家族をお連れして、共同墓への手続きのお手伝いをしました。家族の方は「そんな事までして貰えるのですか。」と聞かれたので「他の施設がどこまでされるかは知りませんが、施設側で出来る事はしっかりするのは当然の事と考えています。」と正直に答えました。

リピーターの皆さんは私のこんな考え方をどう思われますか。できたらご意見をお聞かせ下さい。

リピーターの皆さん『星新一』さんをご存じだったですか

令和4年3月23日

私は昨日のコラムで『ショートショート3題』等と偉そうなタイトルをつけて、『星新一』さんはショートショートの神様のような方のお名前まで出して書いてしまいました。そこで本日のコラムで星新一さんの事を私の思いでと共に紹介したいと思います。

星新一のプロフィールを見て、「私は偉そうな事を言っていても、全く無知ではないか。知ったかぶりをするのは駄目ですよ」と思ってしまいました。『1926年9月6日生まれ(驚きです。あの発想が大正生まれとは)星製薬創業者星一、精夫婦の長男として誕生。本名は、親一。幼い頃は両親や弟妹と離れた部屋で祖父母に可愛がられて育ち、話し相手といえばクマのぬいぐるみだった。祖父は東京大学名誉教授で人類学の第一人者、小金井良精、祖母は森鴎外の妹、喜美子である。1950年3月東京大学大学院(農学部発酵生産学教室)前期修了。なんと星製薬株式会社取締役社長を経て、1957年、同人誌『宇宙塵』2号6月号に発表した『セキストラ』が江戸川乱歩編集の11月号に転載され、商業誌デビュー。宇宙開発時代の到来と重なり、日本のSF文学の旗手として脚光を浴びる。

400字原稿用紙10枚程度のショートショートと呼ばれる小説形式を得意とした・・・。正直私が知ってるのはショートショートを私が好きだっただけで、何にも知らない状態で改めて『凄い方』だったと気が付きましたし、尚且つ、私より30近く早く生まれた方が私がワクワクするショートショートを書かれていたと思うと驚きでは無くて感動です。多分今改めて読んでも新鮮なショートショートだと思います。

星新一に刺激を受けたわけでもないのですが、不思議な現象だと私は真剣に思っている事を次に書きます。それは、一枚の写真を見て頂いてからにします。写真は何の変鉄もないクッションの写真なのですが、このクッションは私が寝てる時や着替えをしているときに誰もいないのに突然倒れたり動いたりするのです。私はその現象を満20歳まで生きてくれた『リッド』が遊びにきて遊んでいると信じているのです。だって、私以外に誰もいないのに突然倒れたり動いたりしたらリッドがきたと思うしかないのと違うの。と言う事であります。

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リピーターの皆さんの中には「そんな馬鹿な。」と思われる方が殆どだと思いますが、私は真剣にそのように思っているのです。私の奥様かをり様に言わせると私がリッドと仲良くなって私のベットに乗ってきたのは他界する1ヶ月程だと言うのです。だから、リッドはもっと一緒に遊びたかったと言う事で枕元をカサカサさせながら歩いてみたり。クッションを蹴飛ばしてみたりするのだと信じています。でも、いつまでも私と遊んでいると天国にいけないので私がしっかりとお別れを言わなければいけないのだと思います。リピーターの皆さん。こんなことを考えている私は変ですかね。

 

ショートショート三題

①アラームよりも正確な私の体内時計

 

今朝も目が醒めた時にガラケーの携帯で時間を確認すると、午前4時45分。その時間を確認して「うん?」と思いました。と言うのは、「昨日セットした時に4時50分では少し遅いと考えて5分早めて4時45分にセットしたはずなのに」と思ったからです。そこでセットの確認をすると、確かに4時45分にはなっていたのですか『OFF』になっていたのです。と言う事は「私の体内時計の方が間違いないと言う事か。」と思っています。「そう言えば昨日に確認した時は4時50分にセットしておいたのに4時49分だったな。」と言う事でリピーターの皆さん。私の事を『人間時計』と言って下さい・・・。リピーターの皆さんにお断りをしておきますが、決して夜中に何回も時間の確認をしていませんから。「もうそろそろかな」と思って確認した時間ですから。

 

②三寒四温と言いますが

 

20℃近くにまで温度が上がって「メッチャ暑いな。」と思う日があったかと思うと次の日は10℃もない日があったりして、桜の開花の予想がなかなか難しい状況がありますが、リピーターの皆さん、「よ~く考えてみて下さい。」寒いと言っても『10℃』ですよ。雪がカッカと降っていたときや、底冷えをしていた時の温度は『マイナス5℃』と言う事も今年の冬は何度かありましたよね。日本は四季がしっかりとしているので確かに冬と夏の温度差があるのは理解できるし、それぞれの季節にあうように体が整うように出来ているかも知れません。でも、1日の違いで10℃以上と体に応えますが、それも春から夏になるためのトレーニングをしていると考えると「この程度の事は仕方がないのか。」とも思います。先般2日間に渡って5ヶ所のフロアでお参りをした時にお経を終えてお話をさせて頂いた時に、各フロアで「暑い日があったかと思うと急に寒くなる事がありますが間違いなく桜が咲く春が来ます。それまでは、暑い時は服を全部脱がなくてもよいですが一枚服を脱いで下さい。そして寒いときは一枚着て下さい。そして、風邪などひかずに一杯ご飯を食べて頂いて、来月のお参りも元気に参加して下さい。」とお話をしました。人間の適応力の素晴らしさだと私は思っています。

 

③我が家の紅梅が今年も咲きそうです

 

2階の廊下の窓越しに紅梅の木を見ると赤いつぼみを一杯持っていましたので、思わずガラケーの携帯で写真を撮りました。多分この紅梅の木は戦前に植えられたものだと思うのでメッチャ長生きだし、根っこに近いところは殆ど穴が開いているのに「今年も咲いてくれる。」と思うと紅梅の木がいとおしく思っています。

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リピーターの皆さん。本日はショートショートで星新一さんばりに書いてみました。お経さんが上手くなったように文才も進化しているのかと自惚れています。リピーターの皆さんこんな事もたまには言いたい気分なんです。

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