2021年09月の記事一覧

措置制度の不合理を正す。(あくまで私見ですが・・・)

措置制度を端的に言うと『福祉のセーフティネット』と言う事だと思います。つまり、『自助努力』では生活が出来ない方に『公助』としての市町村が対応することです。私のコラムを読んで頂いている方はご理解されている事なのですが、当法人である社会福祉法人『杉和会』では、今年5月21日に盲養護老人ホーム『優・悠・邑    和(なごみ)を開設しました。養護老人ホームはいわゆる『措置施設』なのですが、『措置控え』の状況の中で「開設はしたものの入居者がなかなかいない状況」に厳しさを覚えながらも「本来入居すべき方が入居出来ない状況があるのではないか」と言う事を本日のコラムで書くことにした次第です。措置をするには公的資金が導入されるのですが、どの自治体も収入が厳しい状況にあるためか『措置控え』がまかり通っているように思います。そんな状況下ではありますが、本日開催された岐阜県議会で盲養護老人ホームに対する質問をして頂きました。一般養護とは違い施設入居しなければいけない方は単に『経済的状況』だけではなくて、『生活援助』をしなければいけない方が多くみえると考えています。「家庭環境の上では対応できる状況だ」との判断をされても、実際には家の中で孤立している場合もあるかも知れません。本日、本部施設のショートステイを利用されている方で視覚障害1級のかたがみえて、声かけは必要ですが基本的には自分で出来る方が要介護3をお持ちなのに疑問を持ち、家族と共に本人さんにも和(なごみ)の施設の見学に来て頂いたら家族共々に施設を気に入って貰い契約での入居の話が内定しました。その話をしながら、昨日岐阜県視覚障害者福祉協会の山田会長と電話でお話しした事を思い出しました。それは、「視覚障害があるからと言う事で介護度が高く出て、介護保険の適用になっている方がかなりの数みえるのだが、本格的な視覚障害者の為の施設が出来た以上施設利用が必要になったら活用出来るようにしたいものだ」との話に本日岐阜県議会で取り上げて頂いたような展開をもっともっとしていただけるように私自身活動していかなければいけないと痛感してます。だれもが、できる限りの快適さを求める権利はあると思います。色んな場面で措置控えの矛盾を訴えて理解して貰えるようにしていきますのでリピーターの皆さんご支援宜しくお願いします。

 

 

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本日は会議が断続的にありました。

令和3年9月29日

13時30分からの全国老人福祉施設協議会の予算に伴う緊急理事会があるので、その事前承認も含めての会議として午前に臨時常任理事会があります。実は、この2つの会議が2週間程前に予定されたので、元々15時から予定していた当法人の理事会の開催時間を30分ずらして15時30分に変更させて頂いたのです。68歳の私としては、これだけ私を必要として頂いている事に感謝です。尚且つ、17時に終了してから、地元で民家を改修してネパールの男子職員をシェアする形で地元に溶け込みながらの生活を試みたいと考えていて、家族会の吉田会長が骨を折って下さり、改修前の家を見に行く事になってます。

人口現象が甚だしい関ヶ原町への一石と考えての提案です。午前中の会議は15分延びたので、13時に米原市の行政の方が措置入居者さんの事で打ち合わせにみえるので、バタバタと昼食を食べました。(米原市の方は13時30分からを希望されたのですが、午後からのリモート会議が13時30分からだったので早い時間にして頂いたのです。)13時からの打ち合わせを終えて事務所に戻ると全国老人福祉施設協議会の事務局から早くリモートの接続をするようにとの連絡を貰い急ぎ接続が出来ると理事会の皆さんがお揃いになっていたので、(まだ、3分はあったのですが)「遅くなってごめんなさい。」と言ってから会議が始まりました。

会議は15時に終了したので「15時30分迄には少し余裕があるな」と考えていたら、会議を終了したばかりの平石会長から電話を頂いたので慌てて電話に出て色々な話をしていると、「理事会のメンバーはお揃いになっている」との報告を受けた段階で15時25分。これまた慌てて、事情をお話しして電話を切り皆さんが集まられている会議室に行き、ここでも「遅くなってすみません。」と謝る事から始まりました。

法人の理事会は17時10分前に無事に終了して事務局に戻ると既にネパールの職員は家を見に行ったとの事なので、休憩する間もなく出掛けました。既にネパールの職員は家の中を案内して貰っていて、「こんな家をを買いたい」等と言っているのには苦笑いするしかありませんでしたが、今須に居を構えてくれる覚悟を持っているのかと思うと嬉しくなってきました。ネパールの職員は家族と共に暮らす事に夢を持っているのは今の日本の若者との大いなる違いだと痛感せざるを得ませんでした。私は今須での10年後の展開に光を見たように感じているのですがリピーターの皆さんはどのように感じられますか。

癒されているのかなぁ

何度もこのコラムに登場している我が家の老猫『リット』はこの11月23日にめでたく満20歳になるのですが最近の私に対する『甘えかた』なのか『ふてぶてしさ』なのかはわかりませんが私は対応にイライラしつつも結局は癒されているような不思議な時間を味わっています。

と言うのは、私は毎朝5時前にベットの上で足や手をバタバタさせる運動をした後、タオルと靴下と飲みかけの水が入っているペットボトルを持って階段を降りて行くと私の足音に気付いたリットが階段の下の所で座って待っているのです。そして私が行こうとするのを遮るようにジグザグに尻尾をピンと立てて歩くので蹴飛ばしそうになるのをまるで楽しんでいるように歩くのです。私は「あぶないやろうが」等と言ってもお構い無しなのです。

そして、自分の食器が置いてあるところに座って私が食器に食べ物を入れるまで鳴き続けるのです。そして、食べ終えるのを見ていろと言わんばかりのように私の方をチラチラと見ながら食べるのです。私は食べ終わるのを見届けてから洗面とうがいを終えてからウォーキングとお経を唱えるのです。ウォーキングマシンの所に行くまでに仏壇の花の水かえをするのですが、考えてみたら仏様の水かえよりもリットの食事が先なんだから「リット、お前は何様だ」と言う事なのでしょうか。

私が朝出勤する時にはリットはソファーでしっかり寝ていて見送りも無し・・・。ただし、帰宅時はシャッターが開く音で私が帰ってきたのがわかるのか玄関前で座って迎えてくれます。ただし、私が食卓の椅子に腰掛けるまで朝と同じく尻尾を立てて私の前を歩くのです。

極めつけは私が夕食を終えて2階の部屋に行こうと階段の方に向かうと、それまでソファーの上で寝ていたリットが慌てて階段のところまで駆け寄り(いつもよりも俊敏に)私の方に頭を近付けて鼻の上辺りや顎のところを掻いて欲しいとの仕草をするので私はついついリットの要求に応えてしまうのです。家にきた頃は私の車の音がするだけで、2階へ避難していたのに、今の状況はどういう事なのか自分でもわからないのですが、きっとリットの方が一枚上手何だと思います。

リピーターの皆さん。老猫リットにメロメロ(多分)な私の事をどう思われますか。

地区有林の相談に長老の家に本日16時に行きます

令和3年9月27日

地元の長老の方から電話を頂き、「地区有林の対応について、お前が何とかしろ。」と言われたのを受けて、岐阜県庁林政部治山課に相談に行き(8月17日)、そこでアドバイスを受けたのですが「私一人で何とか出来る事ではない。」と言う事で、懇意にしている司法書士の先生に相談させて頂きました。私は正直、岐阜県へ相談に行った時の書類を見てもあまり理解出来ていなかったのですが、流石に司法書士の先生は手慣れたもので「地区有林の権利をお持ちの方に協力して頂く為のたたき台を作成して、メールで送信します。」と言われた翌日には書類が送信されてきたのですが、その後の対処がなかなか出来ずに時間だけが過ぎてしまいました。「いつまでもほかって置くわけにはいかない」と思い、長老の家に昨日電話をして本日16時に今後の対応について相談に行く予定です。

私にとってはこの地区有林とのかかわりはかなり前に(多分25年位前だと思います。)1回だけ現地に連れて行って貰った記憶のみ。だって岐阜県との契約書の日付は昭和33年11月(私が5歳の時で、私は現在68歳ですよ。)でその後岐阜県とのやり取りは何度かされていたようなのですが、結論としては平成29年3月31日で岐阜県との契約が切れていて、その後平成30年、31年と登記の状況確認の為に岐阜県から連絡があったとの記録が岐阜県にはあったのですが「全く改善されていない」との事で、長老の家に岐阜県から連絡が行き、比較的動きが良いであろう私にお鉢が回って来たようです。

地区有林の所有者は現在25名だと言う事は分かったのですが、登記の変更が出来ていて現存していると思われる方は私を含めて13名で、私が知らない方が5名で、それ以外の方は亡くなられているにも関わらず登記変更が出来ていない方と言う事です。具体的に私が動くにしても、長老から情報を得ない事には何ともならないお手上げ状態です。ちなみに昭和33年に世話役をされていた方は本部施設の入居者さんですので、確かに昔の事の情報は教えて頂けるのですが、流石に最近の情報はご存じないのです。何が言いたいかと言えば、『それ程古い話し』だと言うことです。

今、コラムの原稿を打ちながら思い出したのは、本部施設新館の計画をしている時の隣地に地元のお墓があり、恐ろしく前から(極端な方は明治時代でした。)登記がしてなくてその時も司法書士の先生にご苦労をおかけした事を思い出しました。山の価値がどんどん低くなり、家督を引き継ぐ事がされない方がこれからも多く出るのではないかと思うと、しっかりとした施策を打っていかなければいけないと思うのですがリピーターの皆さん、今日の話題についていけましたか。「何だか分からないと言う方がありましたら御免なさい。

 

 

 

 

節約する事によっての派生効果は甚大だと考えています。

令和3年9月26日

本部施設本館の事業開始をした頃は、私自身は措置依頼のお願いに先代の理事長と共に出掛ける事が多く、また、措置制度の借り入れに対する返済金の殆どは寄付金で対応しなければいけない制度だったので、私の給料の殆どを返済金に投入するしか無かったので週に二日は非常勤講師として大学・短大・専門学校に行っていた収入が若山家の収入源で、土日祝にじっくりと施設での仕事をするしか無かったので、正直職員教育にまで手が回らない状態でした。

もっともその頃の私は職員指導が出来る力量も無かったので、高齢者施設での経験がある職員に委ねるしか無かったのが実体だった様に思います。そんな状況下で私が施設に戻って車を停めていると、その当時の女子職員が宿直室の窓越しに外へ出るのを目撃して苦い思いをしたり、必要のないと思われるところも電気が点きっぱなしであったり、夏場は冷房が点きっぱなしであったりしました。

また、病院から退院してきた方はオムツをされて帰られる方が多いのですが、オムツの見直しもされなくて・・・。まだまだその頃の不充分性をあげ出したらいくらでも出てくるような状態でした。つまり、その頃の施設の状態は『その日その日をクリアするので一杯いっぱい』だったのです。今と違う状況について少し解説します。女子職員の行為は短大を出たばかりの職員に社会教育が全くされていない状況だったと言うことです。つまり、職員が出入り出来ると言う事は入居者さんも出入り出来ると言うリスクや、来客の方がその状況をみられたとしたらと言うことです。電気の点きっぱなしについては文字通り『無駄の意識の欠如』で、「水や電気にお金がかかる理解もない」と言うことでしょうか。

それからもうひとつの大きな理由は実は昨日もデイサービスの職員に注意したのですが、千巻経を終えてデイサービスの静養室(仏間)から会議室に滋賀信行会の方を隣にある会議室に案内してお茶を飲んで頂いたので、敷居の襖の戸を閉めたのです。

そして滋賀信会の方々をお見送りしてお供えを配る為に車に乗っていて仏間を見ると電気が点いていたのでお供えを配り終わって仏間の確認に行くと誰もいないのに電気は点いたまま。デイサービス側の襖は開いていたので「職員の誰かは気が付けよ」と思いつつ電気を消してから「もう少し色んな事に配慮出来ないでは困る」と話をしました。

ここからが本題です。本部施設は本館の床面積は3429.25㎡で徹底した配慮を全職員で行ったところ月20万円の節約が出来たのです。つまり、年間を通すと約250万円が節約出来ました。この250万円については、入居者さん、職員、法人に3等分をして有効活用するようにしてます。先般大胆にも実施した『松茸尽くしバイキング』もその一貫です。オムツの見直しも同じことが言えます。オムツが必要なら着用するのは当然の事です。しかしながら、職員の安心感の為であったり、職員が楽をする為のものであっては本末転倒になります。

実際にトイレ誘導で出来る方にオムツを提供したりしての無駄を削減した事により、月100万円の予算計上していたのが半分以下になりました。職員が入居者さん、利用者さんの身になっての計画実践と職員の多くの気付きによって、より快適な施設空間を醸し出せると言う事です。リピーターの皆さん、本館の事業開始から23年の経過を見てもまだまだ完璧にはなりませんが、これからも私も含めて全ての職員が気付きを多く持ち気付いた事を実践していきますのでこれからも宜しくお願い致します。

 

本日は『千巻経』が午後から執行されます

令和3年9月25日

昨日は17時15分から、紫色のドレスを着て闊歩しながらカラオケで歌を5曲も歌った余韻があるなかで、本部施設の幹部会(経営戦略会議)が行われたので、先ずは本日が敬老週間最後の企画である千巻経までの職員一丸のパフォーマンスについてお礼を言うと共に、一生懸命に頑張っているデイサービスの北島部長には申し訳なかったのですが「デイサービスを盛り上げる為に幹部のみんなからの指導やアドバイスをして欲しい。」と話をしました。もちろんデイサービスの職員が全くだめなのではなくて、やり方や考え方により効果を上げて貰い結果的に利用者獲得になればと考えています。

本日は『千巻経』が成功裡の中で終える事によって敬老週間の幕を閉じてより素晴らしい施設であり続けたいとも考えています。私は千巻経での理事長の役割として、饅頭の手配(10時30分迄に届くように依頼しました。)と仏壇の花を花屋さんに頂きに行く事です。お饅頭が10時に届いたタイミングでお饅頭をお供え出来る様に並べ替えて事務所に戻ると、優・悠・邑 和(なごみ)の乾事務長が決済の為に来ていたので慌てて決済印を押していると、かつての入居者の家族から「栗を拾えたので初収穫の栗を頂いて貰えないか」との電話を貰ったので仏壇の花を取りに行く時に頂きに行く段取りにして、かつての入居者の家族の所で栗を頂き「千巻経の際にお供えさせて頂きます。」とお礼を言ってから花屋さんで花を頂き、施設に戻り仏壇でお花を入れたりしていると、今度はかつての入居者の家族の方がわざわざ長浜市から来て下さいました。(コロナ禍でも供養祭と千巻経には欠かさずお供えを持って来て下さるのです。)まだ私自身時間的余裕がありましたので仏間にお連れして『般若心経』をご一緒に唱えさせて頂きました。このご家族の方は、当施設の千巻経に参加されてから「素晴らしい事」と言う事で毎朝仏壇にお参りされて般若心経を唱えられるようになって経本無しで般若心経を唱えれるようになったとのお話も頂きとても嬉しい気持ちになりました。

例年の千巻経では、滋賀信行会の夏の歩き団参に参加された小学生・中学生も多く参加して頂いていたのですが、昨年の千巻経ではコロナ禍と言う事で滋賀信行会からの参加は内藤会長のみの参加でしたが、今年は滋賀信行会青年会の幹部の方6名の参加を頂きました。まだまだコロナ禍と言う事で本館、新館共にリモートによる参加となりましたが、内藤会長の導師により21巻の般若心経を唱えさせて頂きましたので御仏は皆さんの願いを叶えて下さると確信しております。

滋賀信行会の皆さんをお送りしてから、日頃からお世話になっている方々にお供えをお届けして全ての事を終えて今はほっとしております。リピーターの皆さん、今回の敬老週間では入居者さん、利用者さんの多くの笑顔を見る事ができ、尚且つ職員の頑張りも確認出来て充実した満足感に浸っています。敬老週間は終了しましたが明日からは『年中敬老週間』で職員一同頑張りますのでこれからも宜しくお願いします。

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昨夜は何故か沈んだ気分だったので逆にワクワクで締めたのですが

令和3年9月24日

沈んだ気分になってしまったのは秋の雰囲気の性ですかね。でも、いつまでもそんなにウジウジしていても『宏君らしくない』と言う事で『ワクワク』への切り替えに今も努力しています。どうしたら『ワクワク感になれるのか』等と考えている私がいるのでは『まだまだだ』と自嘲気味に思っているのですが・・・。

今はただただ本日、本館1階で午後から開催される敬老週間の一貫イベントの『仮装大会』での私の参加でどのようになるのかだけを考えたいと思います。ネタバレは御法度なのですがリピーターの皆さんがこのコラムを見ていただくのは仮装大会終了後になるので、ネタバレを安心してさせて貰い私をワクワクの世界へと誘い(いざない)ます。リピーターの皆さんの中には昨年10月末に実施した『ハロイン』の時の私が艶やかに?着た白のドレス姿をご記憶ではないでしょうか。今回は昨年よりバージョンアップさせて紫色のドレスを着て登場します。

午前中は昨日開催された全国老人福祉施設協議会21世紀委員会主催の『プレカントリー』に東海北陸ブロックカントリーの開催県が岐阜県と言う事で特別参加をさせて頂いて、「リモートでの実施はなかなか難しい」と考えていたところへ岐阜県老人福祉施設協議会の田中21世紀委員長から「運営上難しいので何らかの手立てが必要です。」との連絡を貰い、「流石に田中委員長は良い視点を持っている」と思いつつ「私なりに情報収集と対応方法を検討出来る様に根回しをしてみる。」と答えてから「私の得意技はネットワークを駆使して打開策を講じる事」と言う事で、全国老人福祉施設協議会の担当事務局や21世紀委員長や東北ブロックの当番県等々に連絡して、取り敢えず情報収集は出来たので対処方法を会長や担当副会長としていきたいと考えています。

午前中はその他にマット等の介護用品の発注の打ち合わせがあり、昼食(チャーハン)をとってからは、午後の仮装大会の準備の事を考えると少しづつ『ワクワク』してきました。本当は私を含めて『3人の美女』(私と北島部長と水野係長)がそろい踏みする手はずで3組のドレス(紫・白・黄)を準備していたのですが残念ながら水野係長は急用が出来て参加が出来ず一番張り切っていたので残念そうでした。取り敢えず13時30分に会議室でデイサービスの山崎看護師に手伝って貰いドレスを着て化粧とカツラを装着して準備万端で本館1階に北島部長を従えて歩いて行くと、伊藤係長の司会進行で私を紹介してくれて一段高い所に上がり(上がるのも一苦労でした。)ご挨拶と共に歌を2曲(『夢芝居』と『瀬戸の花嫁』)歌わせて頂いたのですが入居者さんの方から「綺麗やな」とか「べっぴんさんや」等と声を掛けて貰い私が入居者さんから元気を貰いました。

私の歌の後は職員による仮装と歌で盛り上げていました。その様子を見ていて私は「我が施設の職員は素晴らしい」とこれまた元気を貰いました。私自身テンションが上がったところで北島部長と共にデイサービスに乱入しました。流石に今まで静かにしていた利用者さんが一斉に活況になりました。(デイサービスの職員の皆さん、馬鹿になりなはれ。見守りの仕方を理解しなはれ)デイサービスの利用者さんの所へ歌いながら(『瀬戸の花嫁』『遠くに行きたい』『お嫁においで』の3曲)行くと異口同音に「理事長さん綺麗」と言って下さり私は改めて「皆さんのお陰で生かされているのだ」と思い『ワクワク感の絶好調』を味わう事が出来ました。リピーターの皆さん、やっぱり『いじいじ』より『ワクワク』の方が気持ちがいいです。

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お墓の事での私の愚痴を聞いて下さい。

令和3年9月23日

私の母親代わりの長姉光子は私が高校2年4月7日に急逝しましたので既に50年は経過したのですが、いつものウォーキングとお経を唱えているときにふと頭に浮かんだ事をありのままに書きます。私の長姉光子さんは新婚半年でくもまっかの為に急逝して、私の人生も大きく変わったと思うのですが、私以上に変わったのは姉光子のその当時の旦那さんだったと思います。

私の父進は「嫁いだ以上は嫁いだ家の考えに従う。」と言う考え方をする常識人だったので、姉が急逝して早々にお墓を姉光子だけのを建立された時も何も言う事はなかったのです。尚且つ、早々に後添えを迎えられたのには私自身驚きと怒りを覚えたのですが父進は何のコメントもなかったです。姉が他界した当初はお墓の花もしっかり供えてあったのですが、新しい奥さんを迎えられてからは・・・。ところが不思議な事に姉が嫁いだ家のお母さんが亡くなられた日が姉の命日の日と同じだったので、それ以降は花はついでのように供えられるようになりました。

そして、3年程前のある日に姉の旦那さんだった方から次姉の春子さんに一通の手紙がきました。それを私が読んでの感想は「これで嫁いだ家のご先祖様の仲間入りが出来た。」と安心して、直ぐに姉光子が眠るお墓に行きました。そして私は『安心が怒りに変わりました。』何故ならば『先祖代々の墓』はわかりましたがその隣に設置されている墓誌を見た瞬間に怒りと共に涙が溢れてきました。と言うのは墓誌に刻まれているのが2つのグループに分かれていて、右半分には姉光子が嫁いだ先の祖父母と両親の名前がありくっきりと中央にラインが引いてあり、姉光子はそれ以外のその他の中に入っていたのです。早くに死んだ姉に罪がありますか。

姉光子は新婚半年で死んだのがいけなかったのですか。どいして、その他のグループにいれなければいけないのですか、いずれ誰もが死ぬのです。後添えの方と仲良く名前を連ねてはいけないのでしょうか。ちなみに私の父進も母秋江が他界して6年後に私にとって養母である英子と再婚し今は生母秋江、父進、養母英子が仲良く並んで墓誌に入っています。別扱いするくらいなら若山家の墓誌に入れたのに。お墓を新たにされる前に相談して欲しかった。でも、姉光子が嫁いだ家にはそれなりの事情があるのだからこちらの見解を言っても仕方がない。「まっ、いいか」若山家の仏間には父進、母秋江、姉光子、養母英子の4人の写真があがっていて、毎朝挨拶しているし。

姉光子には院号がついていないので私は父進は南無至心院釈善進、母秋江は南無温香院釈尼貞信、姉光子は南無『若山院』釈尼浄宣、養母英子は南無信願院釈尼宝英と大きな声で唱えています。リピーターの皆さんには何が言いたいのかわからないかも知れません。だったらごめんなさい。何故か秋分の日の今日だから愚痴を聞いて貰いました。

ちなみに本日16時過ぎにお墓にお参りしてお経を唱えて、施設に帰り明日本館1階の仮装大会の衣裳がばっちり着ることが出来たので今は明日に向けてワクワクしてます。リピーターの皆さん明日の「私ってキレイ」バージョンをご期待下さい。『ワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワクワク』

楽しいことも毎年になると形骸化するのか

楽しいことも毎年になると形骸化するのか

 

本日は『松茸バイキング』なので、昨日岐阜市場から直送して貰った松茸が施設に届き私自身はワクワク感でいっぱいになり思わず厨房に私自身が届けると言う舞い上がり方をしてしまいました。本日もいつものようにマシンに乗ってのお経を済ませて今は(午前6時12分)お風呂に浸かりながらコラムを書いていて「7時には一度松茸の顔を見に行こう」と考えています。6時40分に家を出て施設に着き事務所に行きカメラを持って厨房に直行しました。厨房では私が行く事が連絡してあり発泡スチロールの箱から松茸を入れ物に移し替えをしてくれていて、写真を撮りながら「今年の松茸は昨年より良いのがきているな」と感じて一安心しました。DSCF1533DSCF1534

厨房での撮影を終えてから玄関ホールまで行くと昨日よりも敬老の日の掲示物等が増えていたのでまたまた写真を撮りました。

 

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改めて事務所に戻りパソコンで『今日の優・悠・邑』の画面を開くと昨日実施した本館2階の『大相撲松茸場所』の写真が一杯入っていて、職員と入居者さんのワクワク感がビンビンと伝わってきて私自身はその時間、岐阜県老人福祉施設協議会正副会長委員長会議のリモート会議と重なり参加出来なかった事を今更ながら残念でしたが、昨日の大相撲の仕掛人である伊藤主任が出勤してきたタイミングで「デイサービスで改めて披露してくれると、デイサービスの職員も企画の仕方が理解して貰えるのではないかと思うので是非ともデイサービスでの出張をして貰えないか」と言うと、本日のバイキング前に準備してきてくれたので私も見させて貰ったのですが「デイサービスの職員の反応は」と確認していて正直ガッカリでした。と言うのは利用者さんが楽しんでいるのはよかったのですか、職員は棒立ちで利用者さんへの配慮をするのではなく、職員も単にお客さんになっていたからです。(まだまだ理解して貰う事がたくさんあると痛切に思った次第です。)

話は変わって、朝の写真撮りを終えて一旦家に帰り朝食を頂いて何と無く携帯を見ると全国老人福祉施設協議会の平石会長からの着信記録に気付き慌ててこちらから連絡すると「諸般の事情で本日の会議は10時30分からではなくて9時からなので、昨日からラインで連絡しても若山さんだけ返事がなかった。」との事で平謝りに謝って慌ててリモートの準備をしました。(ラインは昨日は正副会長さんから一杯入っていたのを私は一切スルーしていたのです。9時からリモートでの会議をしていると和(なごみ)の吉澤施設長から「本日のバイキングの見学に職員一人を連れてきたい。」とのメモ書きを貰ったので、会議中ではありましたが「試食をして貰うように厨房に手配するように」指示を出しました。リピーターの会議が終了して吉澤施設長と職員がきて、本館2階の相撲パフォーマンスを見て、試食会の準備を指示して、和(なごみ)の職員に『おもてなしの心』を理解して貰う事に専念してバイキングを会議室で本部施設側私を含めて3人を加えた5人で頂いたのですが松茸の御飯、お吸い物、茶碗蒸し、七輪で焼いた松茸でみんなが満足。吉澤施設長は施設に戻っても松茸を食べてないと報告するとあいからわずのおとぼけで満足感を表現してくれ、私は昼食を頂いて、ゆっくりすることなく和合での全体会へ。全体会では和合の職員に『ワクワク感』の話をしました。全体会を終えて再び本部施設へ行きましたがくたくたでしたが全てが終了したのは18時30分でしたが、リピーターの皆さん。私は充実した毎日に感謝です。

昨日の敬老の日の岐阜新聞に思うこと

令和3年9月21日

見出しには『65歳以上最多3640万人』『総務省推計   総人口の29.1%』『働く高齢者4人に1人』『70歳現役時代到来へ』と見出しが躍っていて、私は「凄い状況なんだな」と思いつつ「考えてみたら私も68歳だからこの中に入っているのだ」と自重気味に思った次第です。でも、私が言うのも変ですが、私が小さい頃に60歳を越えている方をみると、いかにも『高齢者』と言う感じだったように思いますが。だってその頃の60歳は間違い無しに現役を退き『ご隠居さん』と言う感じだったように思いますから。紙面を読んでいて驚かされるのは、総人口の割合が日本が29.1%で断トツ1位でちなみに2位はイタリアの23.6%で、3位のポルトガルが23.1%なのであります。私の施設でも70代の方も多く働いて頂いているし、いやいや80代の方も何人かみえるな。私は「元気で労働意欲がある方は適材適所で仕事をして頂くべきだ」と考えています。

先般関ヶ原町の会議に出席していて、岐阜県の数値を下回った出生数値が資料の中に出てきたので「下回っている理由は何なのか」と質問したところ「子どもを産む適齢期の女性が少ないからおのずと子どもが生まれない。」との答えが行政側から返ってきたのには変に納得はしましたが、どうして、もっと早くから将来を見通した計画に着手しなかったのかと痛切に思った次第です。魅力ある地域の構築には色んな手立てが必用だとは思うのですが『住みやすい町づくりの構築』には何をすべきかの討論がなされないまま今に至ったとしたら残念でなりません。

私は常に「批判はどこからでも出来る。」と言っているのですが敢えて言わせて貰うとすると、今須にはかつて旧中仙道の宿場町が有りました。かなり前のコラムで『江戸時代は美濃路13宿の中で2番目に人口が多かった』と書いたのですが今はその反映の状況を知る者もいないしみる影もない。1つの現象として、今須宿の頃の本陣は私が20代の頃までは確かにあったのですが、そこの持ち主が遠くに行かれて関ヶ原町の持ち物になり、本陣を解体して月に何回も使用しない『生活改善センター』なるものに立て替えられたのです。つまり今須が誇る江戸時代からの宝を関ヶ原町の手で壊されたのです。確かに岐阜県知事さんの肝いりで『関ヶ原古戦場記念館』なるとっても立派な建物を建てて頂きました。関ヶ原町は確かに合戦の町として有名ではありますが江戸時代にそんな立派な建物が建っていたわけではないし、観光地としてそのようなものを望んでいたとも思えない。町の再開発には『住みやすい町つくり』のコンセプトをどのように描くかだと思うのですが。今となっては・・・。リピーターの皆さんはどのようにお考えになられますか。

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