2021年04月の記事一覧

昨日のコラムは何が書かれていたのか不安でした

令和3年4月20日

本日の朝の目覚めは5時7分に小鳥の囀ずりでした。(いつものようにリットがいなかったのですが、1階に下りて行ったらソファで寝とりました。)だから、5時20分からいつものようにマシンで歩きながらお経を唱えました。歩く前に仏壇の花の水を替えさせて貰いながら思ったのは決して暑い時季で無いにしても、4月7日に(姉光子の命日)花屋さんで購入した花が今も元気でお供え花としてあるのは、毎朝水を新しく替えているからで「何事も一生懸命が一番だ。」と思った次第です。

そう言う意味では、今は新規事業の資金についての悩みはありますが、砂田おさむさんの歌の一節に『根(寝)雪溶ければ春が来る』と言うのがあるのですが、私はもう一味加えて『苦難を乗り越えたからこその喜び』を信じて今日も頑張りたいと、まだ、7時前ですがギア全快です。本日は午前中に岐阜県高齢福祉課に提出する資料を完成させて(業者3社の協力を昨日の内に得ておいたので。もっともその対応は理事長として当然の事ですが)県福祉会館での老施協の役員会を終えてから、一段ギアを上げて高齢福祉課に行ってきます。(ここからは、家に帰りお風呂に入りながらのものです。)高齢福祉課の資料が出来て、ほっとしていると、10時30分に約束してあった(スケジュール表には書けてなくて、私は忘れていたのですが)第一興商のカラオケの契約の為に営業の為におみえになり、新規事業の和(なごみ)と本部施設の2台分の契約をして、県庁へ持っていく書類の確認をしていると11時25分になったので早い昼食を頂きました。

本来13時30分からの会議なので、30分は早い行動なのですが、事務局のメンバーが代わり副会長も二人が入れ替わったので、名刺交換を余裕を持ってしたいとの思いからの行動でした。会議は全員が揃った13時25分から始まり、一つ目の『一般社団化』に向けた討論にたっぷり時間をかけ、15時20分に終了して、終了後飛騨支部長さん(県副会長)と話をしてから、4階にある県社協まで行きまたまた打ち合わせをしてから、岐阜県高齢福祉課に行き、3人の担当者にそれぞれの書類をお渡ししてから、23日に古田知事との面談があるので、その為の打ち合わせ(殆ど私が熱く語っていました、)を終えて、かなり興奮していたのだと思います。

高齢福祉課が終わってから地域福祉課での打ち合わせのお約束をしていたのですが完全に失念していて、車を運転していて揖斐川の橋を通っている時に「地域福祉課に行くのを忘れてた。」と言う事で和合本町の交差点で右折して、県庁に向けてUターン。結局30分のロスタイム。急いで2階にある地域福祉課に行くと課長さん以下4人の方と打ち合わせをして、依頼を受けた事の打ち合わせを施設に帰るまでに対応して施設な帰ったら体力の限界。今は20時40分ですが、昨夜程は眠くないのでリピーターの皆さん、昨夜と違って「中身がわからない」と言う事なくコラムが書けました。

PCR検査

令和3年4月19日

施設の職員にPCR検査をして頂く事になり、最初の段階では『希望者のみ』のような人数把握をしていると聞いたので「それでは検査の意味がない。検査は予防接種とは意味が違う。」と言って、県の担当責任者の方に相談すると「キットの追加指示を業者にしておきます。」との事で追加分は翌日には届き、17日から3日間で全員からの唾液の摂取をすることになり本日が唾液摂取の最終日。私も時間を作り本日採取させて頂きます。

結構な量の唾液が必要だとの事なので梅干を前にしての摂取にしようかと、朝5時20分からの30分のお経さんを唱えながらのウォーキングマシンによる歩きと汗をかいたので、シャワーを浴びてからコラムを書きながら考えています。さてさて、どのように摂取しようかと今からワクワクしています。(ドキュメンタリー方式の報告は後程と言う事で)先ずはメールボックスに入れてあるビニール袋を開けて中身を取りだしキットの赤い印を見て私は「おいおいこの印まで唾液を入れるのは大変だ。」と思いながら梅干をイメージしても、レモンをイメージしても、なかなか唾液は出てきません。そこで、頬の辺りを一生懸命にマッサージをして、何とか赤い印のところまで入れる事が出来ました。

今回は唾液を提出して検査をして貰うだけですが、5月3日の週からのワクチン接種はこの位の大変さではないと思います。色んな情報によると特に2回目の摂取では色んなトラブルが発生しているように聞いています。私はもともと虚弱だし、インフルエンザの予防摂取でも、39度の熱をだしたから正直不安が一杯ですが、やっぱり打つべきなんでしょうが難しい判断だと思います。リピーターの皆さんはお気付きでしょうが本日のコラムは何も頭に浮かばず目が閉じていく状態なのに、意味ないコラムはこの辺で終わらせて下さい。

 

昨日、耳鼻科に行きました

令和3年4月18日

昨日は朝から右耳がボーンとしていて、テレビのボリュームを大きくしても、「やっぱり聞こえ難い。」耳が聞こえ難いと自分が発する声は大きくなるし、施設で職員がいつものように話をしてくれているにも関わらず聞き取りにくくていらいら。昨日のコラムで書いたように朝イチの病気療養中の職員との面談を終えて、予定を早めて大垣での対応をしたのは、出来れば午前中に耳鼻咽喉科に受診したかったからなのですが、『思いは通じる』で大垣での対応は11時20分に完了して、しかも、私が目指した耳鼻咽喉科までは近かったので、「受け付けて貰えなくて元々」と言う事で車を走らせ耳鼻咽喉科に着くと12時までが受け付け時間と言う事で「ほっ」と一安心。症状等を記載して待っていて、名前を呼ばれたので診察室に入って行き先生に耳を診て貰うと、「右耳に栓がしてあるように耳垢がこびりついているので除去します。」と言われて道具を使ってとって頂くのですが、めちゃくちゃ痛いので、その事を先生に伝えると「きれいに取りきれないので、耳の中に薬を入れてしっかり取りましょう。」と言われてベットに横になり右耳に薬を入れて貰い約10分そのまま安静にしていて、再び先生がみえる診察室に行くと、今度は機械で吸い取る形で耳垢をきれいにして貰い、治療が終わった時にはしっかりと聞こえるようになっていました。耳垢を除去して貰ってから先生が「ちょうど2年前にも若山さんは来院されて、同じようにさせて頂きました。耳自体は何の問題もありません。ただ、耳垢が少しべたついたものなので今回のようになることかありますので、異常を感じたら来院して下さい。」と診察時間は終了しているにも関わらず丁寧に説明して下さったので、『お医者さんはこうであって欲しい。』と思うと共に私も説明する場面があったらこのような対応でありたい。(私的にはそのようにしているつもりですが)耳鼻咽喉科の診察を終えたのは12時40ふん。13時30分から新規事業の招待状を地元の新旧自治会長さんに手渡しする事になっていたので垂井に向かいご挨拶を済ませてから遅い昼食(15時前)を地元の喫茶店で頂いて本部施設に戻り筍を湯がいて味噌汁の具材をゲンキーに買いに行きバタバタの1日でしたがやるべき事は終了しました。本日は(ようやく今日の事が書けます。)昨日湯がいた筍の味噌汁作りからスタートです。施設に行くと既に薪もセットして、大鍋には水も入っていてスタンバイOK。あまり早くから炊き出すと味噌汁が煮詰まってしまうといけないので、お酒と塩の振る舞いをしての点火式は9時30分からにしました。薪に着火剤を塗り順調に燃えてきたのですが最初はめっちゃ煙がでたのですが、「煙で浄化されついる」と煙いのも「また、うれしからずや」薪の火力は凄くて30分もすると湯気が上がり、「正直早すぎや。でも、遅いよりいいか。」風が強い中でも頑張って歩いて来て頂いた入居者さんに大根、切り干し大根、人参、キャベツ、油揚げ、豆腐、筍、椎茸とだしの素が入ったスープを飲んで頂いたのですがメッチャ喜んで頂けました。11時15分から順次フロアの職員が大きな鍋を抱えてきて、「これで大丈夫です。」と言うまで鍋に移し、昼食に来た職員にも振る舞いました。午後からは関ヶ原町内の関係者の方に竣工式の招待状を手渡しで届けに行き、本日のやるべき事を終え、明日からの過密なスケジュールに備えて早く帰らせて頂き鋭気を養う事にしました。リピーターの皆さん。たまには許されると思うのですが・・・。

一瞬の出来事だと思います・・・。多分・・・

昨日の本部施設幹部会(経営戦略会議)では、いつも以上に白熱した議論がなされ、9人いるメンバーが議論中はそれぞれに熱く語っていて(もちろん理事長・総合施設長である私もです。)気が付けば17時15分から始まった会議が20時20分。あれだけ熱く語り合ったのに終了と共に和気あいあい。これが本部施設の強みだと思っています。

その後片付けをして家に帰りお風呂に入り、昨夜の夕食はシュークリーム一個のみ。これではガリガリになってまう。大丈夫です。私のお腹には1ヶ月分の蓄えが入ってます。でも、我慢が嫌いな私はそんな事は出来ませ~ん。但し、我慢する事が社会の為になるのであれは、いくらでも我慢出来ますが。

とにかくお風呂の中でもコラムを必死に書き、それでも完成しなかったので(短いのでは納得がいかない宏君なのであります。)布団の中で完成させ本部施設の宿直者の堀江係長に無意識の状態で送信したようです。そして次にびっくりする事が起きました。それは、これまた無意識の内に宿直者の堀江係長にコラムをメールで送信した事を伝えようと本部施設の番号に連絡をしたようです。と言うのは私が連絡した携帯のコールで「何事だ」と目を覚まして思わずコールを止めてしまったのです。そして改めて宿直者の堀江係長に何事もなかったように「今コラムをメールで送信したのでホームページにアップして下さい。」と伝えました。その後コラムの送信時間と堀江係長に連絡した時間をガラケーの携帯で確認するとどちらも、22時4分だったので、携帯で施設にコールしてうとっとしたのは本当に瞬間的な時間だったのだと理解しました。

本日は5月16日の竣工式典の招待状を手渡しする為に、10時30分からの病気療養している職員の面談を1時間早くにして貰い会議室で面談をしていると、副施設長に外線が入り、その報告を聞くと「かつて入居されていた家族の方から寄付金の申し込みをしたいとの事で申し込み用紙を送って欲しい。」との事だったので、「寄付申し込み依頼を連絡して頂いたのは初めてで、これが呼び水となれば嬉しいな」と思ったので面談を終えて直ぐに連絡を頂いた方にお礼の電話をさせて頂くと、「わざわざ申し訳ありません。」と言われたので、電話を切ってから「一生懸命に頑張っている事は必ず報いられる。この一本の電話が呼び水になる。」と確信しました。

リピーターの皆さん。一生懸命に頑張れるのは心地よいと感じているのですが、その気持ちを理解して頂ければ嬉しいです。

朝の目覚めはリットの「ニャー」の一声でした

2021.4.16

昨夜もメッチャ早く(21時)爆睡していた為か午前1時30分に目覚めて、その後はなかなか眠れなくて、そんな中、戦略を考えていると「湧いてくるぞ」と言う事でなかなか再びの眠りにつけず、「そろそろ起きて行動開始をしようか」と考えながら『トロッと』したんだと思います。その時です。「ニャー」とリットの一声。(『一鳴き』の方がより正確かも)「これはリットではなくて母秋江さんがリットの体に乗り移り・・・。」等と思えるタイミングでの一鳴き。でもこのタイミングで起きて(5時10分)ウォーキングの準備をして1階に降りて行く時にリットは私の前で歩くのを邪魔しながら尚且つ尻尾を大きく挙げているのです。「これは単に私と遊びたいだけか」と思いましたが、「母秋江さんが先導していてくれている」と思ったら『鬱陶しい』が『楽しい』『嬉しい』に変わるのだから人間の(私の)感情とは不可思議なものだと、朝早くから(今は6時29分2キロは歩きお風呂でコラムを打ちながら思っています。(残りのコラムは一昨日から始まった盲養護『和』(なごみ)の職員の本部施設の実践研修について書きますが一旦お風呂を出ます。)(残りはこれから書くのですが、今21時34分です。)8時20分に施設に着き本部施設顧問との打ち合わせをしていると、8時40分と早くに優・悠・邑   和(なごみ)の実践研修受講者の3名が着かれたので、さっそく着替えて貰ってから会議室で研修に入る前のレクチャーをさせて貰いました。①メモをしっかりと取る事は仕事をする上に於いての財産になる。②気付きの多い職員になるために、ハード面で気づいた事をメモに取る。③勝手な判断はしないで謙虚に指示に従う。④コミュニケーションを取ると言う事は単に話をするだけではない。等と熱く語りそれぞれのフロアに行って貰いました。私は13時30分に岐阜県高齢福祉課との打ち合わせがあり職員4人を引き連れて行って、再び施設に戻ってからは16時30分からまたまた、実践研修を受講した3人の職員の指導を行ったのですが、朝の指導とは違い、実践後の指導なので、今日正に学んだ事をそれぞれに目を輝かして語ってくれました。もちろん1日で全ての事が分かるわけでなく、『目から鱗』のような事ばかりだったようなので「本部施設の職員の勤務年数は10年を越しているので、それなりに整ってきた事を是は是で取り入れてもらいたいし、疑問に思った事は次回の研修時までにまとめておくようにと話をしました。17時15分からは本部施設の幹部会で、いつもの事ですが熱く語りました。烏野先生はコロナで大変な大阪からリモートの参加になります、リピーターの皆さん。もっともっと語りたいのですが、既にうとっとしてしまっています。とにかく寝ます。

つくづく走りながらの人生だと思いました

今朝も5時過ぎからウォーキングマシンで歩き、尚且つお経を唱えながら、私の生きざまを振り替えっていました。何度もこのコラムで書いていますが、私は母秋江さんの後ろに隠れながら『そっと』回りを見て動いているような生き方で、母秋江さんは私が中1で他界してからは姉光子さんの守護の元生きていたのに、その姉光子さんは私が高2の4月7日にこれまた他界し(急逝と言う表現の方が正しいかも知れません。)凧の糸が切れたような生活を許してくれたのがその当時学校長をしていた父進さんでしたが。当時の私は父の対応に対して感謝の気持ちを一片も持てないような何ともならない高校生でした。(多分、心の奥底ではわかっていたと思うのですが・・・。)間違いなく私の人生を大きく変えたのは四国巡礼の歩き団参だったと思います。但し、その頃の私は「困っている方がいらっしゃったら何とかしてさしあげたい。」と言う単純な思いでの行為だったと思います。つまり、『自分の出来る範囲内で』と言う事でした。しかしながら、教員になり担任をさせて頂いた子ども達に「楽しい事を一緒にやりたい」と言う事で頑張ってやればやるほど、その当時の教育現場では受け入れられなくて(多分今も駄目だと思います。)潔く辞職して、自分探しの結果、(と言うよりその選択しかなかったのですが)児童養護施設(当時は養護施設と言ってました。)の指導員になり13年間、施設の子ども達の親代わりとして、「この子はこんな風に育って欲しい。」と考えた事を実践してきました。しかしながら、その実践は狭い範囲のもので、35歳の時に資生堂福祉財団でのアメリカ研修に参加させて頂き、「もっと広い視野での展開をしたい。」との思いで退職を決意したものの直ぐには退職することが出来ず38歳で退職しました。しかしながら、退職してみたものの、家族を養える程の収入基盤もない事がわかり、途方に暮れながら、大学の非常勤講師や家庭教師での収入では若山家の生活が出来ないことに気が付いても『時、既に遅し』。とにかく、自分が出来る事を精一杯に全力でうごめくしかない。それが、例え報酬を得られないものであっても。この実践は、中1の時に他界した母秋江の遺言である『蒔かん種は生えない』を文字通り実践してきたと言う事か。母秋江さんに見守られているお陰なのか一生懸命の中、良い方向を見出だす事が出来る。38歳で退職し6年かかって社会福祉法人の認可を頂き本館施設が設立した時も『無鉄砲この上ない。』のに、色々な方のご支援ご協力を得て出来ました。今回の盲養護老人ホームの計画も客観的には無茶な計画で走りながらの展開ですが、きっとリピーターの方々も私の熱い思いは理解して頂けるものと願っています。よーく考えてみると私の生き方は走りながら対応すると共に夢を食べて生きているバクーのようですが、ご理解とご協力を宜しくお願い致します。

4月4日から歩きを再開して11日目での変化したお話です

令和3年4月14日

まだまだ、体重に変化はありませんが、今朝も5時に起きて、着替えと靴下、タオル、ペットボトルの水を持ち1階に降りて、先ずは洗面とうがいをしてから、仏壇に蝋燭と線香を灯し5時20分からウォーキングマシンに乗り、マシンのスイッチが下の所についているので膝を曲げてオンにするのですが、今まではこの行為に苦労していきなり息が荒くなっていたのですが、本日はそれほど苦にならない。(私的には凄い事なのであります。)そして歩きだしました。

最初の1分はウォーミングアップの為にゆっくりと歩きながら父進さん、母秋江さん、姉光子さん、養母英子さんの写真に挨拶。その後3・9キロに設定して『しょうしんげ』を唱えだして10分も歩いていると既に背中を汗が流れているのがわかり、私はニンマリしながら「活性化している。」と感じました。『しょうしんげ』と『お文さん』を唱えた時に、最初の頃は「もう限界」と顎があがっていたのですが、本日などは余裕でマシンを止めて汗をタオルで拭いながら、ペットボトルの水を飲んで再び歩きだし、般若心経を唱えて、30分が苦にならなくなりました。その時にふと記憶が甦ってきました。

それは、大学時代の夏休みに滋賀信行会主催の夏の団参に参加して、本部がある長浜まで帰り、お礼のお参りがあり、それぞれの支部(私の場合は山東支部で柏原にあります。)まで行き再びお参りがあり解散になり、迎えの車が何らかの理由で来なくて、私一人の為にお世話をして頂いている方が帰る事が出来ないので「これはご迷惑をかけてはいけない。」と考えて、「家まで歩いても大丈夫ですから」と言って山東支部を出て4キロ以上はあったのですが、飛ぶように帰った事を思い出したのです。確かにあの頃の体重は50キロ位で痩せていて身が軽かった事も事実ですか、平坦な道なら一日30キロ位を歩く修行だったわけで、4キロ位は『グリコのおまけ』(懐かしい表現でリピーターさんの中には「何のこっちゃ」と思われる方もおありかも知れません。)位の感覚だったように思います。

本日このようなコラムになったのは、本日から盲養護老人ホーム和(なごみ)の職員さんが3人づつ(日によって4人の時もあります)実践研修に来ているのですが、初日と言う事もあり、理事長である私から①記憶は忘れる事もあるがメモ等を確認する事によって記憶が甦るもの。だからしっかりメモをとるように②気付きの多い職員であり、その気付きを最大限生かして欲しい。と熱く語りました。と言う事で本日はこのようなコラムになった次第です。

『和』の職員の指導の後はばたばたで新規事業の伐採の状況確認に行き、その足で県議会議員の所へ陳情に行き、昼食は車での移動中におにぎりとパンで済ませて、施設に帰ってからは、コロナ感染対策の一貫によるPCR検査の打ち合わせや和合の佐藤施設長さんとの打ち合わせが待ってます。その間に時間を作って、本日から実践研修に来ている職員の成果を確認する為の話もしたいと考えています。このように携帯でコラムを打ちながらつくづく思うのは『時間はつくるもの』だと言うことです。きっと私の生き方の中で「今日は何をして時間を潰そうか」等と考える事もなく生きていけるのは最高な生き方だと、リピーターの皆さんも思われませんか。

昨年は6月から外を歩いていたようです

ガラケーの携帯の『歩数計』機能の『歩数ランキング』を見たら最近の4月10日が10359歩でベスト4位に食い込んでいて(ベスト5までしかわからないのですが)残りの記録は昨年の6月から7月のものなので、恐らくその頃には外を歩いていたのだと思っています。その理由は、今のコロナ禍の生活では、東京に出張で歩くわけでも無く(東京に行くと歩く機会が多いのです。例えば新幹線を降りて八重洲口から丸の内口に歩くだけでも、結構な歩数になりますから)マシーンで30分歩いても3000歩を少し越える位であり、その後に10000歩達成する為に残りの7000歩を歩くのは今の生活では難しいです。(前にも書きましたが座っている事が多いので)昨年の数値の記録には20000歩を越すような驚異的数値がないのは、これまたこのコロナ感染対策の一貫で例年地域の方も多く参加しての夏祭りが開催されなかった事により8月に驚異的な数値がないのです。例年だと夏祭りの前日は準備の為にうろうろと歩き回っているし、夏祭り当日は準備と共に来賓等への対応で走り回っているので楽に20000歩を越えるわけです。回りの方々からは「理事長さんらしくドーンと構えていたら良いのに」と言われるのですが、『私は現場主義』『私は労を惜しまず』をいくつになっても貫きたいのです。朝から少し格好良く決めてしまいましたが、さてさて、施設に行ってからの展開は如何に・・・。今(18時17分)家の湯船に浸かりながらコラムを再開します。8時30分から岐阜県社協の課長さんが老施協の事務局長の立場で打ち合わせに来て頂く事になっていたので、8時過ぎには施設に着き書類を見ながら待っているとおみえになったので会議室で4月20日の正副会長委員長会議の事前打ち合わせをしました。昨年度とは違い体制が改善されたので、しっかりとした資料が出来ており、時には質問したり同意をしてしっかりとした打ち合わせができました。玄関先でお見送りをしていると、10時30分に和(なごみ)の吉澤施設長が決済と打ち合わせに来たので再び会議室に理事長印を準備して行き、決済印を先ずは押印して、施設の体制の問題について相談にのると共に竣工式の打ち合わせをしました。打ち合わせを終え一旦吉澤施設長は施設を出たのですが、直ぐに戻ってきて「一番相談したかった本部施設での新規採用者の実践研修を受けて欲しい。」との事で私は快く良く受けると共に「吉澤施設長もこんな大切な事を忘れるとは、頑張ってはいるけど一杯いっぱいなんだ」と思いました。(さっそく明日からの研修体制はとりました。)午後からは看護職員の面接があり、その後米原市から措置入居を受けた方の事で役所の方が3名おみえになり、色々な話をさせて頂きました。その間も時間を有効活用する為に全国老施協の事や竣工式の検討等をこなしていきました。リピーターの皆さん。このコロナ禍での色んな展開ですが色んな事に留意して対応していきますのでご支援宜しくお願い致します。

6時40分に烏野先生からショートメールがきました

令和3年4月12日

一昨日施設に介護報酬改訂により色々な研修をしなくてはいけないとの指摘と共に「他県の依頼を受ける前に先ずは岐阜県で協力したい。」との、烏野先生からの有り難いメールに対して「『リスクマネージメント』や『防災対策』等について依頼しなければいけない」と考えてはいたので 昨日、岐阜県老施協研修委員会小島委員長代行に棚橋衆議院議員の大垣事務所で会った時に研修委員会として実施するように指示をしておいたのですが、いわゆる『昨日の今日で』烏野先生から表題の通り6時40分にショートメールを頂いたので、折り返し携帯に連絡すると、既に車を運転中(耳に充てて話さなくて良いシステムで・・・。私も活用してますが便利な世の中になりました。)でしたので、「烏野先生もあいからわず早いな」と話すると、「若山先生程ではありません。」等とのやりとりの後で、「具体的には研修委員会の小島委員長代行に具体的なやり取りは任せるので宜しく頼みます。」と話をしました。

10時30分に岐阜広告の棚橋社長が岐阜新聞の制作担当者を連れてみえたので、話を聞くと「盲養護老人ホームの取材を理事長の思いと共にしたい」との話だったので、「今回の盲養護老人ホームを広く周知出来るのは素晴らしい事」と思い、「出来たらユーチューブやホームページにアップしたい。」と話すると「大丈夫です。」と言われたので「素晴らしい企画になるな」と嬉しくなりました。色々な話をしたので(もちろん、私の武勇伝も話しました。)12時近くになったので急いで昼食のきつねうどんを平らげ、13時30分から和合の幹部会があるので車で移動しました。

幹部会は15時前に終了して理事長室に入って行き、本部施設を立ち上げた頃に入居されていた方の奥さんがお友だちのご主人の入居の相談に同席されていたので挨拶をして(かつての入居者の家族の方が当施設の紹介に来て下さったと言う事はかつての対応が良かった証しと嬉しく思っています。)しばらくお話をさせて頂いてから、1階の利用者さんがお参りの為にみえていて、揃われていたので、仏壇の前に行きジャケットを脱いでお参りの体制になろうとすると、利用者さんから「凄い服やなあ」

(※写真参照)

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との目敏い指摘に気を良くした私は三回程ぐるぐるとモデルのようにして(私的にそう思っているのです。)「似合ってやすか」と言ってからお参りの挨拶をして、皆さんと一緒にお経をあげさせて頂きました。16時30分に本部施設で来客があり、私の方がご無理なお願いをするのにわざわざ来て下さるので「お待ちするわけにはいかない」と急いで本部施設に戻り、ぎりぎりセーフで会議室に行き、お願い事について語らせて頂きました。リピーターの皆さん。本日も充実した一日だった報告でした。

いつもより目覚めがゆっくりで5時50分から歩いてます

いつもだと5時前に目覚めるて行動開始をしていたのですが(とは言え、まだ7日しか継続いていませんが)本日は一旦5時に目は開いたのですが「まだ眠い。5時30分から行動開始をしよう。」と再び目をつむって、気付いたら正に5時30分。「今日は仏様が目をさまして下さった。」とベットの上でいつものようにウォーミングアップをしてから「本日は外を歩くのではなくてウォーキングマシンに乗って歩くのだから、パジャマのままで準備するのはタオル、お風呂の後の着替え、靴下、ペットボトルの水。」と準備をしていたのですが眠い為か仏壇の蝋燭と線香に火を点け、ウォーキングマシンに乗り歩き出したのは表題の通り5時50分。いつもよりゆっくりだった分、逆にお経さんは丁寧にさせて貰ったので、蝋燭と線香はたて直しました。(これが宏君流の『こだわり』なのであります。)

さて、どうして目覚めが遅かったのかを(世間一般で言うと決して遅くはないのですが)コラムを打ちながら考えています。考えられる事を以下に述べます。①一昨日は車の鍵が施設に置いてあり、約4キロ歩いた疲れ②看取り対応の為に家に帰りお風呂に入り寝床についたのが22時30分といつもより1時間以上遅かった為か③日曜日なので少し遅くなっても良いと思った為か④新製品の『ヤクルト1000』を飲んだ結果なのか。ちなみに、ヤクルト1000の効果には、機能性表示食品と明記して『ストレス緩和』『睡眠の質向上』『腸内環境改善』と書いてありました。もし1回飲んだだけでこの効果があったとするとめっちゃ凄いし画期的だと思いましたが、多分4点挙げた理由が複雑に絡み合っての事だと思います。私のコラムは一つのこだわりについていろんな視点から述べるので一見だらだらと書いているようですが、その点についてはご容赦下さい。

本日午前中は地元の衆議院議員である棚橋さんが久しぶりに東京から帰ってきたとの事で、西濃地区の役員5人と共に意見交流をしました。主にはコロナ対策と介護報酬改正についてですが、老施協として言うべき事はしっかり言えましたし、棚橋議員は現在行政改革担当委員長との事なので、介護報酬に伴う加算での書類に対する煩雑さについては、しっかりとわたしも全国対応として頑張って伝えていきたいと考えています。午後は社労士の先生と雇用契約の対応について話し合い、結構時間がかかったので、准看護職員の面接を少し待ってもらってから実施しました。その後少し時間が空いたので和(なごみ)に行き5月16日の竣工式典の参加者リストについて事務長と打ち合わせをして、一旦本部施設に帰り打ち合わせた内容について忘れない内にと言う事でパソコンで整理をして、本日は18時前に家に帰る事が出来ました。リピーターの皆さん。こんな日がたまにあっても許されますよね。

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