2021年01月の記事一覧

午前中は新規事業の打ち合わせがありました.

令和3年1月21日

1月4日から16日まで目の手術により入院していたので新規事業の打ち合わせを7日と14日と参加出来なかったので、令和3年になってから初めての参加となりましたが、35%の仕上がりと言う事でかなり具体的な打ち合わせが出来ました。打ち合わせ終了後建物の中を説明して貰いながら案内をして貰い、3棟の内B棟とC棟は縦につながっていて直線で100メートルある廊下の部分を歩いてみて改めて「とんでもない建物を計画したものだ。」と計画した張本人でありながら思ってしまいました。『とんでもないもの』になった理由は「視覚障害の方の施設なので平屋の木でやるべきではないか」との考えで計画したのですが、2階、3階と積んでない分大きなスペースが必要だと言う事が建物の概要が出来てくるに順いわかってきました。

確かに最初に建てた本部施設本館は3429.25㎡で、「凄い建物が建った。」と思ったものですが、1階の床面積は2209.39㎡ですから確かに広いわけです。少し高台で緑に囲まれた場所でゆったりと生活して頂ければ最高だし、地域の方々にとっても活用して頂ける施設になる様に設置責任者の理事長として邁進出来ればと考えています。今週の月曜日である18日に新規開設時の職員採用の新聞折り込みを入れさせて頂き、多くの方から打診の電話を頂いているので、今後面接についても精力的に行って行き、しっかりとした礎が出来る様に頑張りたいと建物の出来ていくのを確認して改めて思った次第です。

午後からお参りの梯子をしました。

13時30分からデイサービス、新館2階、新館1階とお参りの導師を勤めさせて貰い職員のお参りの対応の仕方に~李の違いがあり、同じ事をするにしても職員の思いの違いで違ってくることを痛感したので、この課題については明日じっくりと語りたいと考えています。と言うのは17時15分から本部施設の幹部会があり、今の私の体力では限界になりそうなので、リピーターの皆さん宜しくご理解下さい。

 

点眼を1日4回注してます

令和3年1月20日

目の手術の為に入院して無事に1月16日からも1日4回の点眼はしっかり頑張っています。昔からの諺に『喉元過ぎれば熱さを忘れる』と言うのがあり、私も手術をした時の大変さや電柱が曲がって見えたり、車を運転している時に対向車のライトが片方しか見えなかったり、(消えたように見えたのです)ナンバープレートが消えて見えなくなったりした時の恐怖の記憶が薄らいでしまっているのを感じています。そんな状況になると「忙しかったから仕方がない。」とか「ついうっかり忘れてしまった。」の段階から「1回や2回忘れても大丈夫」とならない事が大切だと考えて入院中から実行していたのが、6時、11時、16時、21時に携帯の機能であるアラームをセットして確実に点眼するようにしています。

ずぼらな私でも流石にアラームで「コケコッコー」の連呼には気が付きます。入院中にたまたまアラームがセットしてある時間に訪室されてアラームが突然なったりするとびっくりされたりもしました。病院に入院している時は点眼をするのが『仕事』のようなものだったので、しっかりと出来たのですが必ずしもアラームが鳴った時間に必ずしも点眼が出来るわけではなく、(と言うより大抵は無理)アラームがバイブの振動で教えてくれた時は仕事が一段落した時に点眼をするように心掛けています。但し、この心掛けがいつまで続くのかをリピーターの皆さんと共に占ってみたいと思います。①次回の診察日である2週間②せめて1ヶ月③完治して点眼薬が必要なくなるまでしっかり頑張れる。さてさてどれになるのかたぁ。

本日午前中は銀行での手続きと打ち合わせや新規事業の自販機の打ち合わせ等を行い、午後からは岐阜県老施協正副委員長会議があり会議な冒頭、県地域福祉課からの提案があると言う事なので30分以上前に会場入りしたのですが、地域福祉課の課長以下多くの方がおみえになり、福祉人材のご相談がありかなり具体的な話し合いもできました。今週は退院後ずっと毎日スーツを来ての仕事ばかりで病院でゆっくりといた反動がきているように思いましたが精一杯頑張ります。とにかく眠くて今日はこれまで・・・。

退院後診察に来ました

令和3年1月19日

手術をして貰い入院していた、名古屋市立大学病院の先生が地元の博愛会病院で術後のフォローをして頂く為の予約が10時だったのですが、迎えの車が早かったので病院に向かう前に関ヶ原町役場に行き岐阜県知事選挙の期日前投票をしてきました。岐阜県の4年間を委ねる為の大切な権利なのでしっかりと投票して期日前の証明書を貰って病院へ向かいました。

玄関を入って行くと自動検温器が37、5度との事でストップをかけられ「関ヶ原町役場の自動検温器は36、5度だった」と言うと「取り敢えず再検します。」と言われ脇の下で計り直すと36、9度で「高めですが何かありましたか」と聞かれたので「16日まで入院をしていて問題なかったですが」と言うと「どうぞ」と言われようやく受け付けをして、眼科外来に行き、簡単な検査をして貰い瞳孔を開く点眼をして貰い今は先生の診察を待っています。多分順調な経過だと思うので、診察が終わったら昨日新聞折り込みで新規事業の職員採用のチラシを入れた結果によっては色々な対応をしなければいけない事や午後から岐阜県知事選挙においての対応等について考えています。

本日は久しぶりに上向きでも眠る事が出来たので、6時の点眼の為のアラームで目を覚ます位に良く寝て、点眼後にカーテンを開けると雪が降っていました。しばらくすれと陽もさしてきましたので、つくづく思ったのは新規事業については、新潟県や北陸地方では大雪が降っている中でたいした事なくすんでいるのは新規事業の事を考えると本当にありがたい事です。1月4日の入院前に新規事業の現場に行って以来2週間以上行ってなくて、あさって21日に打ち合わせの為に現地に行って進捗状況を確認するのを今からワクワクしながらいます。10時からの眼科受診で黄班円孔の穴はしっかり埋まっている写真を見させて貰い安心出来たのでこれからはばしばしやるべき事をしていきたいと考えています。テレビを点けると『コロナ』に関わる話ばかりで気分が暗くなってしまいますし、仕事をしている職員も自粛生活の中でも頑張っていてくれているのに何らかの形で報いる為のアイデアを出して実行に移していかなければとも考えています。リピーターの皆さん、不平不満も言わずに頑張っている職員達にエールを送って貰えると有り難いです。

 

目の中のサングラスが完全になくなりました

手術をして頂いた1月5日の日は手術後に手術をした左目は眼帯がしてあり、『うつ伏せ』でしか寝てはいけなくて、しかも無呼吸症候群の私はシーパップをしたままで、眼帯は気になるし、うつ伏せは大変で、殆ど熟睡をすることなく一夜が明けました。手術後の2日目の夜も同じ状態が続きのかと億劫な気持ちになっていたら手術の執刀医だった先生が私の部屋に来て下さり「私は20年位シーパップをしているから大変な事がわかるのでうつ伏せでなくて右下でも大丈夫」と言われ、うつ伏せでなくて右下で寝る事が出来る事の有り難さを実感したのに、その後は朝起きて右肩から腕にかけて違和感が半端ないので湿布を処方して頂きシャワーをしたあとに看護師さんに2枚貼って貰う毎日でした。

術後7日目に「目の中のまくもかなり小さくなってきたので仰向けは駄目ですが右でも左でも下にして寝て頂くのも大丈夫です。」と言われて、またまた寝やすくなりましたが「但し、目の中のガスが完全に無くなるまではうつ向きは駄目ですよ」と言われていて、退院してきたにも関わらず『拘束』されているようで、書類を見たりしながらも正直苛々していたのですが、本日5時に目覚めて目を開けて確認すると小さくはなっていたサングラスのような黒いものが完全になくなっていたのを確認して早速仰向けになってみました。

そして、改めて『自由な体制でいられる事の有り難さを感じました。そして、その時頭に浮かんだのは奈良薬師寺執事長の大谷徹城師の講演で聞いた「病気になって健康な体の有り難さを知る」との教えでした。私は改めて自分が営んでいる施設において『相手の気持ちになって』が本当に出来ているのかの確認をしっかりしていきたいと考えています。(今は午前6時46分で爽やかな目覚めの中でここまで一気に書きましたがさてさて本日のどきどきの報告はどのようなものなのか後の出来事は夜に委ねます。)

昨日は岐阜からの帰りの車の中で体力の限界を感じたのですが、本日は13時15分からワークプラザ4階での会議はしっかり2時間あり、8人という少ない人数の会議でしたので密度よく発言させて頂き、しかも助言者としてみえた社労士の方は本部施設の事を知ってみえた関係で会議後にもしっかり話が出来たし、その後会議の責任者の方にご挨拶をすると、「若山会長のお噂は良く耳にしていて、本日お会い出来て光栄です。」と言って頂けたのにはビックリであると同時に体が『シャキーン』。昨日とは違い施設に帰っても元気に精力的に打ち合わせをする事が出来ました。

明日は午前中は退院後のフォローの為に名古屋市立大学病院の先生の受診を地元の博愛会病院で受け、午後からは知事選の対応でまたまた岐阜に出掛けます。岐阜県の4年間の舵取りをして貰う大切な選挙なので、私なりに精一杯の事をしていきたいと考えています。リピーターの皆さん。当然の事としてコロナ対策をしっかりしながら会を運営していきます事もご理解下さい。

昨日退院をしてな様子です

昨日湯船に浸かり痛感したのは施設でほんの2時間程施設でうごめいただけなのに「めっちゃしんどいし21時過ぎには眠くて何ともならん」と言う事でした。よくよく考えてみればわかる事ですが入院中は絶対安静で基本的には下を向いた生活で、私が歩くのは部屋にあるトイレに行く時に往復で多目に数えても20歩。3度の下膳で(配膳は部屋まで持ってきて下さいました)30歩。(配膳車は部屋のすぐ前)1日多くても3回、眼科病棟へ一回当たり100歩程度。それ以外は腰や肩や腕が痛いときに軽くストレッチまがいの事をするだけの活動のみ。そんな私が我が家に退院時の荷物を置いて直ぐに施設に行き、書類の整理と打ち合わせをしただけなのに。これだけの事でも前日までとは違うのです。そして、21時に眠くなるのも当然です。だって、入院中の手術後は21時に点眼をしたら寝ていたのだから・・・。

そして、本日はと言うと9時過ぎには迎えに来て貰い、10時前からは新規事業の打ち合わせに来て頂いた当法人の元職員で現在垂井町議であり行政書士との打ち合わせをして昼食後は13時から介護福祉士として短大を卒業する学生の面接をして、(卒業見込み証明書が届き次第内定をする事を伝えました。)その後、岐阜市で行われる会議の為に出掛け、会議が終了したのは17時過ぎで車に乗った瞬間に疲れをどっと感じてしまいました。確かに退院した昨日の今日での1日の緊張は厳しいものがあったんだと思いますがコラムを書いている時間がなかったので21時の点眼までには何とか書き終えたいと急ぎ指と頭を駆使しているのですが、ここにきて頭がガンガンしてきましたのでリピーターの皆さん本日のコラムはいつもよりはかなり短いですがクリアと言う事でお許し下さい。明日も岐阜労働局での会議があるのですが、大丈夫かな。いやいや気力でやりきりますのでリピーターの皆さん見守っていて下さい。

本日14時に退院します

2021.1.16

13日間と言う長期に渡って左目の黄班円孔(おうはんえんこう)の手術をして頂く為に入院しました。当初は1週間程度の入院加療との計画だったのですが、手術中に剥離している箇所が見つかりその為の施術もして頂いた為に手術に要した時間も30分程度と聞いていたのが1時間30分位かかり入院期間も2週間近くになりましたが、本日めでたく退院の運びとなりました。昨日のコラムに退院日は母秋江の命日(54年前)に当たると書いた事に対して毎日コラムを見て頂いている埼玉のとっても偉い先生から『退院日がご母堂様の命日とは天界のお母様のお導き』とメールを頂いたので、そのような考え方があり、私は改めて「幸せな環境で生かされているのだ。」と思ったので、6時に起き椅子に腰掛け両目それぞれに点眼をしてから、四国巡礼の時に首に掛け、本堂及び大師堂で土下座をしてお経をあげさせて頂く時に両手に抱く108の玉の念数を両手にして西の空に向け四国巡礼で17歳(初めて参加させて頂いた歳)の時に覚えた(出会ったと言った方が正確かも)般若心経を中心にしたお経を丁寧に唱えさせて頂きました。インターネットで『おうはんえんこう』を検索すると、「最近まで治療法がなかった。」との記述があったのを見て、「私はまだまだ頑張れ」と言われているように思いました。そして、「私が一生懸命に生きているのではなくて生かされているのだ。」とも思いました。そして私の不思議なタイミングについて改めて述べてみることにします。先ずは私が虚弱な体質であった事はこのコラムでも何度か述べていますが、そんな私の命を結んで下さった方の一人が本多先生と言う当時(60年以上前」今須にあった診療所の女医さんの存在です。そして、虚弱な私を何とか生きて貰いたいと願って色々なアクションを起こしてくれた母秋江さんの存在です。今須診療所ははるか前に無くなりその跡地にはスクールバスの車庫になっています。そして母秋江さんは54年前の今日天界に召されました。つまり極端な事を言えば診療所に本多先生が存在しなくて、自分の命をなげうってでも息子である私を大切に思ってくれる母秋江の存在のどちらが欠けても私は今この世に存在していないかも知れません。✳今須診療所がいつまであったのかは理解していませんが、私が無事に小学校に入学出来た頃まではありました。✳次の危機は中学1年の5月の連休明けに腸捻転で手術をして頂いた時にはその当時の関ヶ原病院には立派な外科医がおみえになり、しっかり執刀して頂けました。大学3年であった21歳の時は腸閉塞で祭日であったにも関わらず大垣市民病院で緊急手術をして頂きここでも命を救われました。(執刀して頂いた先生から「あと一時間遅かったら手術は難しかったかも知れない。あなたは死に損ない』と言う事かも知れませんね。」とも言われました。)私の生き方の中でも色んな救世主が現れ今があるのですが、命のやりとりの中でも色々な救世主に恵まれている事に改めて自分自身驚いています。尚、リピーターの皆さんには私の入院に対して多大な心配をお掛けしましたが本日14時に長男の迎えで無事に帰って参りました。入院中のブランクを取り戻すべく長男に本部施設に送って貰い早速私の机の上に山積みされている種類を整理してから、本部施設の状況報告を聞いて指示を与えたり、新規事業のこれからの対応についても指示をして、家に送って貰い今(18時10分)は久しぶりに我が家の湯船に浸かりながらコラムを打っています。まだ、視力の回復には時間がかかりますので、(目の中にサングラスをかけているような感じですし、電柱はまだ曲がって見えます。)しばらくは車の運転は控えながら職員の協力を得てバリバリと活動していきますので、引き続き宜しくお願い致します。

いよいよ明日退院です(口の悪い友人は『脱獄』と言ってます

令和3年1月15日

いつもの口癖である『予定は未定であり決定ではない』のルールでいけば、決して『まさかの坂』が無いとは言えないのかも知れませんが、99.9999パーセント退院になると思います。だって、退院日である食事は昼食までになっていますし・・・。(延期になったら食事も部屋もないのでガリガリに痩せてしまうし、寒さで凍えてまう。「そんなことはいやどす。どす」)明日を退院に控えて入院12日間(明日までですから本当は13日間)で思った事を書きます。

何と言っても最初に驚いたのは17階(特別室のフロア。✳一般病棟の個室はコロナ対策で無い為であり、シーパップを使用している為に他の入院者に迷惑をかけない為特別室で一番お値打ちな部屋なのでシャワーも無くて共同で時間を配慮して使用するような部屋です)までエレベーターで行くとコンシェルジュの3名の方にお出迎えして頂き入院の手続きを手伝って頂き部屋まで荷物を運んで頂けたのには驚くと共に「流石に名古屋の大病院」と感動しました。2つ目に思ったのはコンシェルジュの方だけではなくて、どの看護師さんもてきぱきされていて、しかも優しい対応をして頂け勤務に入られたタイミングと終了のタイミングで必ずご挨拶に来て頂いてます。

また、ナースコールの対応も適宜素早いものでした。(部屋がナースステーションの前と言う事もありましたが)また、今回の入院では主に3人の医師に関わって頂いたのですが、3人の先生の役割がしっかりしていて、それぞれに優しく対応して頂けました。一番若い医師は朝は7時15分に決まって部屋へ来て下さり点眼をして下さり(瞳孔を開く目薬)私が朝食を頂いてから11階眼科病棟の診察室に行くと待機をしている形で診察をして頂き「順調な経過です。」と言って頂け、大抵の日は20時頃に部屋に来て下さり診察をして、これまた「大丈夫です。1日お疲れさまでした。」と声をかけて下さいました。また、主治医の上席に当たる医師の方(退院後のフォローを掛かり付け病院でして下さる先生)は手術前と後の説明を丁寧にして下さり、手術の執刀をして下さった医師も部屋に毎日のように来て下さり「順調ですからしっかり見えるようになりますよ」と言って下さり、安心した入院生活を送る事が出来ました。そして、私は特養の経営者として大切な事を改めて体験させて貰えたので退院後は更に充実したケアに心掛けたいと考えています。

具体的に何かと言うと『身体拘束』についてです。私は5日の日に手術をして頂いて12時頃部屋に帰って来てからその日はずっとうつむきの姿勢でベットにいて、食事の時も下向きで、少しでも前を見ようとすると「下向きでいて下さいね」の言葉が掛けられる状態で、『じっと下を向いている事』の苦痛を味わいました。(昨日まではうつ向き或いは右を下にしての生活でした。)私の場合は『治療の一環』であり、覚悟の上とは言え、「じっとしているのは身体拘束だ」と改めて感じた次第です。そのように考えると「そのままでいて下さい。」とか「危ないので車椅子に腰掛けていて下さい。」は入居者さんの立場からすると大変な事を強いているのだと思った次第です。

もちろん当施設で車椅子に拘束帯やつなき服を着て頂く事は決してありませんが、「じっとしていて下さい」の意味をしっかり受け止めたケアの充実を図って行きたいと明日を退院日にして考えています。リピーターの皆さん。人生に無駄な事は決して無いと思っています。例えば意地悪をされた時に、これは『私の人生修行』と思えば何と言う事は無いし、私が無納税者の生活だった時も苦難とは思わず『目的の為のプロセス』と考えればどうと言う事はない・・・。リピーターの皆さん。本当は今だからそのように言っているだけで、実はくじけそうになったり、わめいたり泣いたり地団駄踏んだ事は数え切れない程あるのですが、その事はいずれまたと言う事で。

『恩返し』

令和3年1月14日

昨日のコラムで書いたように、『恩返し』をしなければいけない方に直接『恩返し』をするのは現実的に難しいのかも知れません。だって昔から『孝行をしたいときには親はいず』と言うのが現実かも知れません。親にしたって自分の子どもに支援が出来るのは(子育ては別ですよ。だって子どもは親が望んで親の責任で子宝に恵まれたのだから)自分の生活に余裕が出来てからですから、『親に感謝する事を意識する』のは、親がしてくれた歳になった頃だから、これは殆ど無理だ。私の生母は13歳、父は38歳の時に逝去しているからとても出来なかったし(と言うよりまだまだ、親に頼りたいばっかりだったと思います。)

昨日コラムで書かせて貰った吉田宏岳先生や先代理事長にしても、お世話になった頃はがむしゃらに施設運営に頑張るしかなかった時期であり、とても恩返しをする等と言う発想に至る状況ではなかったと思います。但し、かつてもコラムで書いたのですが法人設立前に色々な施設へ見学に行かせて貰った時は、私自身は全くの無名な存在で名刺の肩書きには『関ヶ原町老人施設設立発起人代表』と名乗ってはいたものの認可された組織でもない存在であったにもかかわらず、どの施設でも誠意を持って迎えて頂けたので、今の私は施設見学におみえになる方々には私なりに職員の協力を得ながら誠心誠意でお迎えし、満足して頂ける対応をさせて貰っています。

私は今の法人が成り立っているのは、地域の福祉ニーズに応えながらの展開をさせて頂いているからと信じてのもので、色々な方々への恩返しは地域の期待に沿うことこそ肝要とも考えています。法人自体は資金がふんだんにあるわけでもないですが、職員の頑張りと地域の方々の支援で成り立っているとも考えています。今の私があるのは色々な方々に支えられて今があると思うと『恩返し』等と言う言葉は決して軽々しく言える言葉ではないとこのコラムを書きながら感じています。

そんな中で、退院日が明後日1月16日に決まりました。1月16日はいみじくも母秋江さんの命日です。(54年前でず 。)長男に迎えに来て貰って家に帰ったらいの一番にお仏壇にお参りし手を合わせてお経をあげて、無事に手術が終わった事を感謝です。だとすると、私は67歳になった今でも母秋江さん父進さん姉光子さん・・・。数え切れない位の方々に感謝して、精一杯の恩返しを出来るだけ多くの方にしていきたいと考えていますのでリピーターの皆さんこれからも宜しくお願い致します。

 

違和感がとれました そして私の考え方。

令和3年1月13日

昨年最も人気のあったドラマで『半沢直樹』というのがありました。流行語のようになった猿之助さんが演じておられた部長さんが「詫びろ、詫びろ、詫びろ、詫びろ、詫びろ、詫びろー、、、詫びろ」は今でも芸人が良く使っているフレーズです。『土下座』のシーンもよく使われますし、今回違和感があるとした「施されたら、施し返す。恩返しです。」もよく使われます。そこで「施されたら施し返す。恩返しです。」に対しての違和感についてを今日のテーマとします。(5時前に目が覚めベットの中で考えていた事を書きます。)先ずは「施されたら、施し返す」ですが、目上の方から施されて、そのお返しをすると言う事は有り得ないと思います。

今は死語のように思われていますがかつてはよく『滅私奉公』と言う言葉がまかり通っていました。その言葉は昔のしきたりで『のれん分け』に合い通ずる事だと思うのですが。つまり、一生懸命に格上の方、或いは、雲の上のような存在の方、経営者の方に滅私奉公をしていた結果『施される』のであって、「こんだけの事をやったんだからこんだけの対価があって当然だ」的なものがまかり通る考え方に対して私的には大いなる違和感を持っていると言う事です。

私が13年勤めた児童養護施設を退職して違う施設で週に何回かスーパーバイザーのような立場で仕事をさせて貰った時にその当時小学5年生の男子に仕事を頼んだらその子が「これをしたらなんぼくれる。」と言われて「頼まれ事をする前にお金の要求するんならはしなくて良い」と言ったのを今でも鮮明に覚えています。(今考えると、小学5年の男子にしてみたら「人間関係が出来てない先生の言う事を聞いてたまるか。」と言う事だったと思えるようになりましたが)何でも見返りを求める発想が嫌なのです。そんな事を言ってる私自身は法人設立時も設立後も『施していないのに施された』事が実は一杯あり、『恩返し』がまだまだ出来ていない事が山ほどあります。

その最たるものが、福祉の師である吉田宏岳先生(元日本福祉大学副学長で当時中央福祉専門校長)です。それは法人設立の為に順調に走っていて、その根拠となる資金面の援助を引き受けて頂いていた方が急逝され計画が暗礁に乗り上げた時、私は腹を括って資金集めの行脚に行った最初の方が吉田宏岳先生で10分も話をしない内に「ちょっと待ちなさい。』と奥に行かれたかと思ったら、1千5百万の通帳を見せて下さり「明日、このお金を振り込んでおくから頑張りなさい。

それから、若山君が頑張っている事を色んな方に話ししておく。」と言われて私は「先生にここまでして頂ける存在ですか。」と正直に聞くと「先行投資の積もりですから、10年先を楽しみにしてます。私が支援して立派にやられている方はたくさんいますよ。」と言われたのです。今でも返せたとは思っていませんが、きっと今でも天国から優しい眼差しで見守って下さっていると確信してます。

もう一人先代の理事長にも「娘むこが頑張るんだから5百万位は支援しなければいかんな」と言われていたのですが、先に述べたように予定していた資金が頓挫して予定より一桁以上多い支援をして貰って、施設が稼働してから二人でしみじみお酒を酌み交わしているときに「目一杯支援して頂きありがとうございました。」と言うと「立派に施設が建ったんだから良かった。これからは地域の方々に施設が出来て良かったと言われるように頑張りやさい。」と言われたのもしっかり覚えています。『恩返し』は出来ていない私ですが、これからも地域でなくてはならない施設にしていく事によって、恩返しをしていきたいと考えていますのでリピーターの皆さんこれからもご支援宜しくお願い致します。

『場面かん黙症』と言う病気

令和3年1月12日

家の中で人間関係が出来ている人との会話は出来るのに一歩外に出て話をしようとしても話をすることが出来ない病気で現代の子どもの500人に1人がなっていると言う事です。

私はこの病気の事を昨日のテレビで初めて知りました。その時私は自分が小さい頃の事を思い出しました。私が小さい頃外出する時は母秋江さんの後ろに隠れるように付いて行き母秋江さんが話をしていて私は必要最低限の返事をしていたように思います。そんな私でしたので小学生になり一人でお使いをするようになったのは我が家から2百メートル程西に行った家が鶏を飼っている所へ、10個買いに行くと1個おまけして頂けるのが自慢で喜んで行ったのを今でも覚えています。その程度の事を覚えているのは如何に色んな体験をしていなかったかと言う証しではないかと今更ながら思います。そして、60年近く前は卵1個が今とは違い貴重なものだったのだと思います。

話を戻します。私は『場面綣黙症』についてのしっかりとした知識を持っているわけでも有りませんし、その事についてコメント出来る立場でも有りませんが、話が出来なかった時の辛さは良くわかります。今では5時間でも、10時間でも「話をして良いですよ。」と言われたら(ありえへ~ん)ストップがかかっても話し続ける自信がありますが(人の迷惑省みず・・・。)小さい頃の私は何かを答えるにしても小さい声でボソボソと話をして、「もう少し大きな声でしっかりと」と言われるとますます声が小さくなり、最後には喉が苦しくなってしまう事が常でした。声帯等に問題がないから家では話が出来るとすると精神的な部分が殆どだと思うのですが、何らかのきっかけでそのような状態になっているのだとすると、過去に遡っての治療は無理なので苦しみを克服するのは自分自身しかないのかな。

私も今は目の手術をして頂いて丁度1週間になり、目ね中にサングラスをしている状態でイライラが爆発寸前ですが、焦ったからと言って早く良くなるわけでもなし・・・。でも、正直イライラしてます。話をしたくても出来ないでいる子どもが一杯いる事を知って私の場合は手術が出来た。手術と言うのは手術が終わった瞬間から快復に向かうものと信じているので・・・。「でもなあ・・・」「ええい。女々しいぞ。見苦しい。」と誰かの声が・・・。これが聞こえてこんのです。だって、私は恥ずかしながら『よしよし』される環境しか経験してないので・・・。

事業に対しては自分を律して頑張れる自信はあるし、自己犠牲も何のその。趣味は仕事だと常に豪語している私ですがリピーターの皆さんうだうだしか言えない私ですがお許し下さい。

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