2020年08月の記事一覧

明日から9月です

令和2年8月31日

今年の梅雨はいつまでも続いたので、じとじととした日々が続き、梅雨が開けてからは酷暑の日が続いて本日が8月最後の日なのに今日も暑い・・・。9月も10月もまだまだ暑い日が続くとの予想。そうは言っても田んぼの稲刈りも真っ盛りなので間違い無しに『秋』は近づいていると思います。いやいやそんな悠長な事を言っている場合ではない9月が始まる。だって、9月10日には新規事業の入札があるし、入札が無事に出来たら本格的に盲養護老人ホーム80床、床面積2866平米の建設が始まるのし、来年4月には施設が開設される予定なので人材の確保や設備の入札、厨房業者のプレゼンとやらなくてはいけないことが山積み。いやいや私の場合は今ある本部施設と和合の施設に対してもしっかり確認する必要があるので常に緊張感を持ち続けながらの新規事業と言う事ですが・・・。

と言う事は、月月火水木金金では足らないので、昔流行った歌の「1週間に十日来い」をアレンジして「1週間に10日仕事しろ」かな。まっ、良いか。と言うのも、私は26歳までに教員生活こそありますが、大学は5年で卒業したのですが(自慢して言う事ではありませんが)その5年にしても大学の単位は1年の時と4年の時に取得して、2年と3年の時は大学には通っていたけど講義を受けた記憶はないし。(自慢して言うな)だから、4年時に本来単位をとるべき語学の授業を受けましたし、(4年生で取得すべき単位は教育実習くらいだったように理解してます。)5年の時には教職過程を取得する為のものでしかなかったし・・・。(教育課程の単位は出席が厳しかったから・・・。当たり前か)但し、2年3年のモラトリアム(執行猶予期間)の期間があったから26歳から勤めた児童養護施設では仕事するのが楽しいと言うよりやりがいがあったんだと思います。

だから、休日返上で色々な事をしていて、他の施設の職員から「どうして若山さんは休みをとらないの」と言われると「大学は5年間しっかり休みのような日々だったし、教員を辞めて半年間徳山村で毎日が公休日だったので、前倒しで休みを頂いていたので今は休みがなくても大丈夫だし、やりがいを持ってやっているので」とマジで話していました。但し、児童養護施設の勤務時代は家に帰れば完全に自由だし、三度の食事も据え膳で出てきたし・・・。

(これは今も同じですが)38歳で児童養護施設を辞してからは、がむしゃらに働いても若山家の家計は火の車でしたし、本部施設の開設前は睡眠時間もとれない状態でしたし。それで今はと言えば休み無しの24時間体制で携帯を片時も離せない生活ですが、自分で決めた事なのでこれからも頑張っていきますのでリピーターの皆さん、わけのわからん私ですがこれからもこのコラムの御愛読宜しくお願いします。

本日21時から『半沢直樹』です

令和2年8月30日

前回までの10回シリーズで毎週楽しみにして見ていて、「何度も見たい」と言う事で予約販売がされた情報があり、直ぐにアマゾンで購入して、時間がある時に何度も何度も見ていて「早く続編がでんのか。それとも二度とシリーズ化はされないのか」と考えていて、シリーズ化が発表されて「4月から見れる」と楽しみにしていたところ、2月からの新型コロナの影響で撮影が出来ない状況が続きやきもきしていたところ約3ヶ月遅れの7月19日に新シリーズの1回目が放映されたのですが、視聴者の期待が大きい事を察知してかテレビ側の戦略だったのかは計り知れないものが有りますが、前宣伝が繰り返し繰り返しテレビに流れて、一週前には総集編が流され尚且つ第一回の放映前には「半沢直樹スピンオフ企画『狙われた半沢直樹のパスワード』&新シリーズ直前ナビ!」なるものまで放映される気合いの入れようで・・・。正直私もおどされましたが、実際に視聴していて、心踊るもので決して前評判を裏切るようなものではありませんでした。

しかも1回目のタイトルは『子会社VS銀行!飛ばされた半沢の新たな下克上が始まる』ですから文句無しでした。しかも今回のシリーズでは歌舞伎役者が香川照之さん、片岡愛之助さんの他に尾上松也さんに市川猿之助さんも加わり歌舞伎的な要素も加わっていて完全にパワーアップしてます。特に市川猿之助さんが「わびろわびろわびろわびろわびろ、わびろー!」の言い回しは私自身はまってしまいましたし、あの言い回しを気分が乗っている時に大きな声でしてはスカッとしてます。(変ですかね。でも私的には上手に言えていると思っています。)

第3話ではまたもや愛之助さんが演じる黒埼があいからわず憎まれ役を完璧にこなされているのは最高です。第4話では、徹底的にいじめ役をしていた伊佐山部長役の市川猿之助さんの急展開の出向での締め方は正に半沢直樹の十八番の『倍返し』だったと拍手喝采でしたが、第5話からは国家権力を相手に戦う事になり、「いったいどこまでスケールを大きくするのか」と呆れるばかりですが、白井国土交通大臣役の江口のりこさんと幹事長役の柄本明さんは本来の仕事の関係でも上下関係があるとか。そう言う意味でその辺のやり取りが出てくるとすると見所の一つになるのではないかと思っています。

そして全編を通して頭取役の北大路欣也さんは配役の紹介で『特別出演』となっているのは何故なのかと思うと同時に頭取の立ち位置が未だ私には理解できない。と言うより深いふかーい考え方が最後にはわかるのかと言うのも興味の一つです。視聴率の記録は前回を抜いて堂々の新記録を達成したとの事。時代劇の痛快さを今の時代にしているのは素晴らしいし、ハラハラドキドキの中での大ドンデン返しを本日も21時からリピーターの皆さんも一緒に楽しみませんか。

 

児童養護施設に対する一考察

私が児童養護施設の指導員時代と言うのはほぼ30年前なので「時代が違う」と言われかねませんが、敢えて本日は要らぬお節介のコラムにします。

それは、本日高校を辞めての就職面接を行う事になっているので、私の考え方が今の考え方にそぐわないものだと、その子の人生にとって迷惑を掛ける事になってはいけないとの思いが強くなり朝一で児童養護施設の世界でのプリンス(65歳になっているからキングかな)であり、最も信頼している友でもある愛知県の一平先生に連絡して私の思いをぶつけると共にアドバイスを頂きました。

先ずは高校中退者が多い現状の中、私が岐阜県において最初に私立高校への入学を実現させ、その後制度として入学が出来るようになった事のジレンマについて話をします。それは当時の私立の高校への入学が叶わなかったのは、いわゆる私立の入学金を措置費の中で認められていなくて、その当時の先々代の理事長に私費を投じて頂いて入学させた経過がありました。

その時の理事長のお言葉は「点数が足らなくて公立高校に行けないのは努力が足らなかったからだ。しかしながら、若山さんが毎晩遅くまで勉強を教えている姿を知っているのに免じて私が入学金をだす。但し、3年間頑張るんだぞ」と言う事で、無事に私立に入学した経過がありました。その事を知った当時の岐阜県児童家庭課の理解を得て門戸が開いたわけです。

しかし今の私は何の努力もしないで高校へ入学していく流れに対して怒りすら覚えています。何故なら、中学時代に大した努力もしないで、施設の指導者の方から「今の成績ならこの高校へ行きなさい。」と言われて、高校生にはなったけど努力なしの感激なしで入学して、ちょっとしたきっかけで高校を辞めてしまうと言うのは如何なものか。確かに何となく入学してから頑張れる子もいるのでしょうが、努力なしと言うのは『自己決定の原理』からは程遠いからです。

児童養護施設は最大でも20歳までには社会の荒波に出ていかなければなりません。だから、どのタイミングで施設からの生活にピリオドを打つのが正解なのかと言うのはケースバイケースですし、わかりません。言える事は自分を強く持ち一人でも生きていける裁量を身に付ける事です。児童養護施設の子は殆どの子が親の支援など望めません。だからと言ってその事を嘆いていても何の解決にもなりません。だったら自分に鎧を纏う事をして、自立をする準備をする必要があります。もちろん、そんな事は簡単な事ではないので社会資源を活用していかなければなりません。

例えば『職親制度』を活用するのも一つですし、当法人のように敷地内にアパートを持ち、少々の指導する体制を持っている事業所で仕事をするのも良いかも知れません。但し、どんな形を利用するにしてもその子自身の覚悟が必要です。それは、『自立する』覚悟です。その為には『自律』が肝要だと思います。私は父進さんの限りない愛の中での支援を受けて今が有るのですが、今の事業を推し進める為に『自律』は限り無く経験してきましたが・・・。

少し話題がそれてしまいましたがリピーターの皆さん。本日はかなりバテ気味で面接を終えてボーッとした頭での原稿なのでお許しを。でも、言いたかった事をを理解して頂ければ嬉しいです。

介護人材の話し『2』

令和2年8月28日

昨日に引き続き介護人材の話をしますが『2』と言う事で私なりに確信と本音で語ります。先般、岐阜労働局と岐阜県が共同開催の形で『就職氷河期の引きこもり世代の検討会』なるものがあった時に、私は「40歳以上の対象者が全国に60万人以上存在すると言われていて、ようやく話題になっている事に違和感を覚えつつ、私自身も何も出来ていなかったのだから同罪か」と思いつつ、約30年前に私が児童養護施設を辞したのはその当時引き込もっている子に対するサポート援助が出来ないかと言うのが大きな理由の一つだったのに、我が家の家計が火の車状態になり、正直、挫折の上の苦肉の策が今の有り様・・・。但し(ここで【※6時40分】埼玉県にあるブロンの常務理事さんからの電話と朝食で中断した後、歯医者予約の8時20分まで再び書きます。)頭の片隅にはずっと持ち続けていたので、出来ることは頑張りたいと思います。確かに思い続けていると形になるものです。(思いは通ずるです。)それは、先般二回に渡って施設の職場体験をした児童養護施設の高校三年生の男子がようやく自分自身で決断して明日当法人の職員採用面接を受ける運びになりました。高校を中退して飛び込むのには彼なりに大いなる決断だったと思うので受ける側のこちらもしっかりとした体制をとらなければと思っています。そのような考えに至ったのは私が35歳の時に資生堂第15期海外研修団   『ボストン会』の一員として参加させて頂き、アメリカで問題を抱えている一人の子どもに対しても、チームを構成してしっかりとした対応をされている状況に刺激を受けた事に基因しているのです。その時の『大変な状況の子どもと向き合う』と言うのを生涯のライフワークにしたいとの思いは残念ながら日本では無し得ない状況が今でもありますが(誰かはやられているかも知れませんが私自身は承知してません。)違う形でサポート出来る今に感謝してます。昨日も介護職員不足に対する検討会だったのですが、そんな会議の時にいつも思うことは色々な形で行われる会議が国の省庁の垣根を越えてのものにはならないと言う事です。同じような会議を違った観点から討議する事が決して無駄だとは申しません。しかしながら、情報の共有化であったり、情報の提供がスムーズにいくシステムを構築しなくてはいけないと考えています。確かに、どこかで線引きをして対応しなければいけない事は百も承知してます。しかしながら、ケースによっては歯がゆい思いをする事も度々あるからです。(年齢であったり、制度であったり)この問題については簡単には解決しないと思いますがリピーターの皆さん

気が付いた者が気が付いたように提案し形にしていく事が大切だと思い、微力ではありますが私なりに出来る事を頑張っていきたいと考えていますので、共感していただけて、尚且つ支援して頂けると嬉しいのですが。

介護人材の話し

令和2年8月27日

世間一般の求人倍率は本日10時から介護人材懇談会(岐阜介護労働安定センター主催)の説明資料を見るまでもなく、求人と求職の倍率は1倍前後なのに介護に関する倍率は5倍以上で岐阜県での統計資料によると介護人材は毎年千人づつ不足してくると予測を立てています。なおかつ、全国統計予測では今後2040年までの予測で人口はどんどん減っていくのに高齢者(65歳以上)の人口は減らなくて特に75歳以上の人口は減るどころか増える予想を立てています。つまり、労働者人口(15歳~65歳)はどんどん減少して高齢者人口は増えると言うミスマッチが起きてくる。そんな中で、現実には平成18年以降介護福祉養成校の受験者数は右肩下がり。この現状を打破する(せめて改善)手立てを行わなければ『介護難民』と言われる状態を作ってしまうのでは無いかと懸念してます。色々な手立てをしていこうと試みがなされています。例えば『高齢者雇用』『障害者雇用』『潜在介護福祉士の再チャレンジ』『外国人材雇用』とそれぞれに仕組み作りをしていますが、なかなか上手くいってないのが現実です。就労人口が減っていく中で『この仕事に就きたい。』と思う順位が介護は低いのだと思います。かつて女の子は『看護師』『保育士』が上位で男の子の場合『野球選手』が上位だった(今はサッカー選手かな)と思うのですが今だかつて『介護士』が上位に名を連ねる事はなかったと思います。それどころか『汚い』『給料が安い』とのネガティブなイメージが先に立っているように思います。そんな中で当法人は平成10年の本部本館を事業開始した時も平成16年に新館の事業開始した時も何の違和感も無しに新卒者の採用をする事が出来ました。しかしながら、介護福祉士養成校の入学者数が減るのと平行するように、一人の新規採用をするのも厳しくなってきました。そんな中で、事業所内保育所やアパートの建設をしてきたのは少しでも採用につながればとの思いでした。そして、平成20年からはEPAによる外国人介護福祉士候補生の導入によりインドネシアから初年度は4人が来てくれ、現在までに20人を受け入れて今も7人が在籍してます。特筆すべきは初年度に来たシスカさんは来日して3年の実務経験で介護福祉士の国家ライセンスを取り10年か経過した今、ご主人と二人の子どもの4人家族で永住権の権利も確立してます。当法人では早くから理事長である私が『人材を多方面から採用していく。』と『定着に汗を流す』との両サイドからの配慮をしてきました。そして最近の出来事として、コロナ禍で外国人の出入国が出来ない状況の中この3月に大学は卒業したのに、内定取り消しで右往左往している方に門戸を開く事が出来ないかと試みて『特定技能の介護』を取得しN2を持ったベトナム人夫婦がこの18日に本部施設で仲間入りしました。9月にはネパール人もやって来る予定です。リピーターの皆さん。何もしなければ何も動きませんが行動の老施協を常に実践していきますので、これからも宜しくお願いします。

朝一で熱を計ったら

令和2年8月26日

何となく、体が怠いので熱を計ったら37、3℃だったし、午前中は予定が入っていなかったので、午前中は少しゆっくりしようと考えながら朝食をとっていると宿直者の吉田部長から看取りに入っている入居者さんが心停止したとの連絡。37、3℃位なら大丈夫だし、あいからわずの予定は未定で決定ではないです。8時には多賀先生が来て下さるし身内の方も来て下さると言う事で朝食と着替えを済ませ施設に向かったのが7時40分で、余裕で施設に着く計算をしていたのに多賀先生が施設での死亡確認をして下さって帰られるとはどういう事。取り敢えず施設に入っていくとまだ身内の方がおみえになったので、会議室に案内をして今後のスケジュールについて話をして、せっかく早くに来たので本日13時30分からの全国老施協総務・組織委員会の資料の確認をしました、(つまり、珍しく予習をしたのです。)

本日は13時30分から17時までの3時間30分と長いウェブ会議で、その長さに負けない位に膨大な資料があり必死になって読むことが出来、言うべきところに赤線を引いてバッチリ準備が出来ました。13時15分にウェブ会議のセットをして、画面を点けると一番乗りだったので9人の委員会のメンバーが順次画面に入ってくるのに対して画面上で挨拶をして、定刻通り始まりました。先ずは担当副会長の皆川さんに挨拶をして頂き次に委員長である私が挨拶をしてから話し合いになり、話の流れで15時から21世紀の服部委員長(三重県)が加わりました。服部委員長が色んな提案をされるのですが、私は余りに企画が甘いものだと思えたので、服部委員長には悪いとは思ったのですが、かなり厳しく指摘しました。

課題が多くて結局17時10分までの委員会となりました。全く休憩も無く3時間40分。終了して画面を切ったらどっと疲れが出て、朝は熱が若干あった事を思いだし、流石に本日は早く帰らせて頂きましたが、家に着くと異常に眠いのでお風呂にだけ入って、夕食も摂らずに横になりましたがコラムが全く書けていなくて、強烈に眠気がきた時は素直に目をつむり、瞬間的に寝て何とか今(1958分)コラムが書けました。本日は千文字をクリアしなかったようですが諸般の事情をリピーターの皆さん宜しくご理解下さい。

 

眠い時は書き直しばかりで

昨夜はコラムを書き終え送信した時間は送信記録によると22時10分。決して遅い時間ではないのに、お風呂で少し打ってから遅い夕食をとり再び打ちだしたのが21時25分で、そこからの打ち方は瞬間『うとっ』としたりして、全く前後の脈絡がない言葉が入っていて、気が付いては修正して(それでも間違いが多くありすみません)だから、本日は朝の爽やかな時間に少しでも書いておこうとガラケーの携帯で打ってます。

しかしながら昨夜の原稿打ちは大変でした。極端な事を言うと『怒ったり』『怒鳴ったり』『のたうちまわったり』の連続でした。と言う事はコラム連続更新は多難の予感。『そんなに大変なら短いものにしたら良いのに』と言われそうですが、これが、67歳となり事業をしてきた者の頑固さなのか、軟弱だった私を許せない自分がいるのか。たまには『リピーターの皆さん「本日眠いのでこれから寝るのですみません。」だけでも良い』とはならない宏君なのであります。(以上の原稿は朝書いたので本日のコラムは余裕かな。でも、一寸先は闇』いやいや、決して闇ではありませんが『一寸先はわからない』のが今の世の中ですので油断なくコラムを頑張ります。取り敢えず後の原稿は後程と言う事で)

今(18時55分)朝の続きはお風呂の湯船に浸かって書きます。8時15分に家を出発して一路中部学院大学へ。会議は10時からなので早く着く事は余程の渋滞がない限りあり得ない。順調に走れて「早かったのでキャリア支援室に寄って話をすべし」と言う事で、アポなしで入って行ったのですが、いつもお世話になっている担当者と話が出来その後別棟の大会議室に移動すると9時40分だったのですが大学職員と本日講演をされる講師の方のみだったので、とり敢えずご挨拶をしてから講師の方と特定技能についての話をしていると順次出席者がみえて、それぞれに挨拶をして、定刻より若干早くに始まりました。

先ずは大阪から来て下さった講師の朝賀さんのベトナムの状況を中心にした話を聞きました。講演の後の質疑では、特定技能についての今後の展開についていの一番に質問させて頂きました。質疑も終了して講師の先生が退席されてから引き続き会議になり、私は「介護職員の絶対量が足らない状況は明らかなので、岐阜県として国への提言をしっかりまとめなければいけない」とまとめ的な話をさせて頂きました。その後日頃お世話になっている岐阜県高齢福祉課の担当者と話をしていると13時前になり、急ぎ車に戻ると13時40分に和合の施設に着くとなっていて、このままでは昼食を食べ損なうと「痩せてまう」と言う事で和合の手前のファミマでおにぎりとパンを買い(主食ばかりだから太るんです)施設に着いて理事長室に飛び込み5分で食べて、14時からの全体会にセーフ。(職員を待たせるわけにはいかんでしょ)

16時から三城コンサルの社長との打ち合わせがある為に2組目の全体会は一番最初に話をし、本部施設に一目散。16時5分前に着いたのですが、息つく間も無しに社長が見え書類に理事長印を押すと共に打ち合わせをして、16時30分になり社長さんを玄関先でお見送りをして、事務所で17時からの急遽、総務・組織委員会三役会議の準備をしていると県高齢福祉課で新型コロナ対策の責任者をされている熊谷さんから連絡を頂き電話を切るとウェブ会議のメンバーが画面に私以外が全員集合しているので慌ててヘッドホーンを耳に当てると会議が始まりしっかり一時間三者で会員促進パンフレットの検討が出来ました。

18時10分に帰ろうとすると「車の鍵がない」と言う事で結局18時30分に宿直の吉田部長が見つけてくれて。自宅へ向け帰り玄関の鍵を開けると先程までウェブ会議で一緒だった森岡副委員長(徳島県」から電話が来て話を終えていつも鍵を入れる籠の中に鍵がない。「おいおい、家に上がれんやろ。もうくたくたなのに」結局鍵は鍵穴にささったまま。「うーん。お疲れ。」

リピーターの皆さん。くたくたなのに1600文字以上書きました。ほめたってちょ。

朝からビックリ!!

令和2年8月24日

今(午後8時32分)お風呂でコラムを打ち出すまで全く余裕なしでした。と言うのも午前9時30分から全国老施協総務・組織委員会4役会議がウェブで開催される事を承知してなくて、(と言うのも明後日26日に総務・組織委員会があり直前の会議がある事は日程調整があり私自身が返事したはずなのに全く失念していて)(改めて夕食を終え午後9時25分打ちます)11時20分に会議が終了して14時からの『外国人材の懇談会』参加の為に岐阜市にあるスポーツプラザに向け出発。目的地に行く途中で新規事業の造成の状態確認に行き、尚且つ昼食もとり、13時30分に会場に着き、岐阜県庁の担当者に挨拶をしたりしている内に参加者も順次みえたので名刺交換等をしていると定刻の14時になり、担当課長さんの挨拶のあと、自己紹介を順次する事になり、私は県老施協と杉和会理事長の立場でご挨拶をさせて頂きました。その後は具体的な討議に入り今のコロナ禍での実情について話をさせて頂きました。

次にそれぞれの具体的な取り組みについて話をすることになり、私は事前に準備した厚労省支援課の資料に基づいて話をさせて貰いました。会議終了間際に私は『当法人の外国人介護職員の仕事に対する取り組みは一生懸命で近い将来リーダーの資質をもってばりばりと出来る者もあらわれるのではないか』と話をさせて頂きました。

会議は16時の終了予定時間まで行われ終了後は派遣事業をしてみえる方の質問を受けてから県職員の方にご挨拶をして、またまた、急いで本部施設に帰り着いたのは17時20分で施設に入って行くと既にびわこ学院の烏野先生が来てみえたので、早速打ち合わせをしていると19時からの全体会の時間になり、コロナ禍の対応の為に坪井部長にガウン等の装着を実演したりしながら、最後には理事長の話をしたのですが、昨夜観た『半沢直樹』での話を織り混ぜて話をすると共に8月18日から仲間になったベトナム人(N2ゆ取得している)夫婦が一生懸命に仕事がやり易い環境を作る事も大切だと話をしました。

今はコロナ禍ではありますがだからこそコロナ禍であっても出きる『今日一日楽しかったよ』の確立を目指したいとも話をしました。滅茶苦茶眠いのでしどろもどろのぶんですので、連続更新3年目のスタートとしては不本意ですが、明日も午前10時から中部学院大学(関市)で会議があり、14時からは和合の施設で全体会があり、和合の会議が終了後は、17時からまたまた、総務・組織委員会4役会議が翌日の総務・組織委員会の事前協議の為に急遽実施される事になり、明日は一日会議会議会議です。リピーターの皆さん。ねむねむコラムを打って誤字脱字或いは意味不明の段お許しください。

誉めたって下さい

令和2年8月23日

本日は2020年8月23日ですが、2018年8月24日から、『理事長コラム』のコーナーは一日も休む事無く更新し続けているのです。実に丸2年です。リピーターの皆さんこれは手が痛い程に拍手喝采をして下さっても良いのではないでしょうか。だって、プロフェッショナル集団である広報集団の全国紙の新聞でさえ休刊日があるんですよ。丸2年の連続更新記録を機に私のコラムについて振り返ってみることにします。

この理事長コラムのコーナーは2008年7月21日に産声をあげた。7月21日の次が28日で8月は10日のみ、9月は1日と7日の2回で、9月7日の次が何と11月5日でその次は翌年の1月16日でその次は4月5日まで書かれていません。だから、自分が2年間毎日続いているからと言って偉そうにする事ではないのですが、改めて自分の事ながら『自分を褒めてあげたい。』と言われた誰かさんのフレーズを思い出しています。そして、改めて『継続は力なり』と思った次第です。

昨日は小さい頃は歌が苦手だったと書きましたが、夏休みの課題であった絵日記も書けなくて、怖いこわいコワーイ春子お姉さんに怒られながら私は涙目で手伝って貰っていたくらいなので。(春子さん。事実を書いただけなので怒らないでください。)継続を支援して下さっているのは私のコラムを読んで頂いていると言う事を肌で感じる時があるからです。

最近のエピソードとしては、大垣市議会議長さんからの話であり、(昨日のコラムを参照してください。)埼玉県の法人の常務理事さんからも「鳥羽一郎さんが売れていない時に私の前で歌って下さったけど、どちらが上手いのかな」と冷やかし半分で言われていたとか。そして色々な方から、「よくも毎日あれだけの量の文章が書けますね」的なお話を頂くのですが、今の私はどんなに時間が無くても「1000文字書かねば」の何となく使命感の様なものに揺り動かされているように思ってもいるのですが、私の本心では「ホームページの充実は求人募集の有効な手段。だから各コーナー共に充実させて欲しい。その為の率先垂範」と考えています。そして前回の本部幹部会で委員会の立て直しをしたので、来月からは委員会の充実も出来るのでリピーターの皆さん乞うご期待で、これからも私のコラム共々ホームページを宜しくお願い致します。

本日は午前10時から本部施設において社会福祉法人杉和会の理事会がある為、最終的なチェックをする必要があり早くに施設に行き、五次事務長と打ち合わせをして差し替え等の作業を終えたのが8時40分で、そこから理事・監事の方の資料印刷をしたので、印刷が全部出来たのが9時30分。あいからわずの綱渡りですが、外部の理事・監事の方がお見えになる前に完成したのは上出来かな。(毎回このようにしたいです)10時からの理事会は新規事業の議題の他にも多くあり、熱心な討議もあったので12時近くまでかかりました。多くの議題があると言う事は、それだけ色々な動きをしている証かと思うと考え深いものがあります。リピーターの皆さんこれからも、杉和会は地域の為に頑張りますので、宜しくお願い致します。

 

お参りの梯子をしました

令和2年8月22日

昼食を済ませて13時30分からのお参りでデイサービス、新館2階、新館1階の3カ所を導師としてお経をあげさせて頂いたのですが、それぞれのフロアでお腹から声を出させて頂きました。(ちなみに、明日も本館1階、2階とさせて頂く予定です。)1回あたり約30分のお経を3か所と言う事で90分=1時間30分の間、腹から声を出しているのですが、お陰様で一向に声は枯れずに出せるのです。これは、私が38歳で児童養護施設を辞して本館施設が事業開始するまでの6年間のフリーの時代に非常勤講師として多い時には週に13コマ(1コマ90分)の講義をしていて、毎週月曜日には、午前2コマ、午後2コマ、夜間2コマの6コマをこなしていて、しかも150人までの教室では「マイクを持っていると歌を歌いたくなるから」とマイク無しで教室中に響き渡る声で講義をしていたので今も声が丈夫なのだと思います・・・。

しかも新館では私が行く前からカラオケのセットがしてあり、本日新館の責任者の武藤係長心得がカラオケで歌う曲を事前に教えて欲しいと言われたので、言われた瞬間に思いついたのは一昨日の20日に静慈圓先生を囲む会の席で大垣市議会議長さんから「理事長さんがコラムで兄弟船を歌ったと書いてありましたが、私も兄弟船は十八番なので一度機会があれば勝負したい。」と言われていたのを思い出し、「歌に磨きをかけるのはみんなの前で歌う事が一番」と考えて「兄弟船を両方のフロアで歌います。」と言っていたので、新館では1階、2階の両フロアで気持ちよく歌えました。気持ちよく歌えるのは入居者さんが聞き上手だからなのですが、歌いやすい環境があるから声も伸びるし声量も上がると言うもの。小さい頃の私は歌など上手く歌える子で無かったと言うと多くの方から「どうして今は上手に歌えるのですか」と聞かれた時に言うのは「高校生になり選択科目で『美術』『書道』『音楽』の中から選ばなくてはいけなくて(3年間ありました)美術も習字も全く苦手で「音楽なら作品を作る事も無いので適当にしてれば良いな。」位の軽い気持ちで選びました。

ところがその当時の音楽の先生は権先生と言ってバリバリのバリトン歌手で「声は額辺りから出すのです。」と言われる方で最初の内は結構苦労しましたが、その当時に習っていて思い切り声を出して歌う事が出来るようになった『サンタルーチェ』は今も気分が乗るとお風呂で歌ってます。そして人前で歌う事に自信を持ったのは坂内村立坂内小中併設校での村をあげての忘年会で校長先生から「若山君は若いのだから一番に歌いなさい」と業務命令のように言われて『エイヤー』で『長崎は今日も雨だった』を歌ったら拍手喝采で、その時から「私は結構歌が上手いんだ」と自信が付いたので(大いなる勘違いだったかも知れませんが)その後は機会有る毎に歌っていて、今では「私が今の事業が出来たのは話が出来て歌が歌えてお酒が飲めて人のつながりを大切にしてきたから。」と言う様になったわけです。

このコラムを通じて大垣市議会議長に言います。(多分このコラムを見て頂いていると思うので)私の兄弟船は半端な上手さではないので練習しておいて下さい・・・。リピーターの皆さん公私混同有の私のコラムですのでお許し下さい。明日はばっちり決めますので。

 

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