2020年04月の記事一覧

気合いを入れて朝早く起きたのに

本日9時からタケノコを湯がいて、火の番をしているところを入居者さん利用者さんに少人数ずつ順番に見て貰うのを考えていてわくわくしていたので、朝目覚めて直ぐに部屋のカーテンを開けてみて愕然としました。だって、結構強い雨が降っているようだったので。改めて『予定は未定で決定ではない』と思いしらされました。しかし、雨が降ろうが風が吹こうが、タケノコを湯がく事はしなければいけないので、既に寸胴に水が入り薪もセットしてあるのに感謝しつつ、お酒とお塩をお供えして、薪に着火剤を付け着火マンで火を点けました。IMG_0717

最初はなかなか上手くいかなかったのですが、次第に火の勢いが強くなり30分もしたら『釜茹で』状態になり、それでも薪をどんどん入れているときにつくづく「私の家での役割は玄関の掃き掃除と風呂炊きだったな。おくどさん(そのようによんでいたので)の火が上手くいくと母秋江さんが誉めてくれて嬉しかったな。」と思い出していました。

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11時には上手く湯だったので薪を入れるのを止めて、火の番を事務所の職員に頼み、明日の『タケノコ入り味噌汁祭り』の材料購入に行き、買い物を済ませて帰って来て慌てて昼食を頂いていると、ホッとする間もなく、特浴の三社の見積もりを山本企画の林部長が持ってきてくれたので話を聞き、打ち合わせの結論として「明日が幹部会なのでその時に検討する」等と話をしていると13時30分が回りデイサービスでのカラオケ出演の約束の時間になり、火の番をしていた時に考えた5曲の歌を副施設長と交互に歌いました。ちなみに副施設長は懐メロばかりで聞いていて感じたのは「昔の歌は長いな」と感じながら私もしっかり歌いました。曲目は『遠くに行きたい』『夢芝居』(イントロ中に「今年のクリスマス会では花魁になります。」とのりのりで言ってしまいました。)『兄弟船』『夢一夜』『夜汽車』と歌い、本来であれば副施設長の5曲目で終わるはずだったのですが、「勝手にアンコールしました。」と言うと利用者さんからおそばせながら『アンコール』が沸きのりのりでさぶちゃんの『祭り』を歌いました。新型コロナウイルスの影響もあり、飲みに行って歌うことも無いので久しぶりにマイクを持って歌ったのですが、思ってた以上に上手く歌えたので気持ち良かったし利用者さんも喜んで頂けたし『めでたしめでたし』。しかしながら気持ち良く歌っていて時間オーバー。15時からの和合での会議に5分遅れで到着。会議の後の施設長と室長との話も終え、一昨日から気になっていた事があったので再び本部施設に戻りデイサービスの職員と話をしたのですが、私なりに思いが通じたと思い気分良く帰宅する事が出来ました。リピーターの皆さん。充実した毎日を送る事が出来る私は幸福者です。

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新型コロナウイルスから自らを守る為に免疫力を高める事が大切との事

目に見えない新型コロナウイルスとの戦いの為には免疫力を高める事が大切だとテレビで京都大学の先生が語られていました。その時に私が思った事を先ずは書きます。最初に思った事は、インフルエンザ等が猛威を奮っても医療従事者である医師や看護師がかかったとはあまり聞かないのに、今回は頑張って治療に当たられている方や検査に当たっている方も新型コロナウイルスの感染者に多くみられるのは、過激な対応に追われて、知らない間に免疫力が落ちてしまい感染されてしまっているのではないかと言うことです。最も慶応大学の研修医の打ち上げは言語道断ですが、岐阜のナイトクラブでの医者がクラスターの一因になったのは、医者ゆえに大きく叩かれたのかなと思いました。(但し、病院の対応が変わらざるを得なかったと言うことにおいては影響は大きいですが)だって、スポーツジムでも多数の感染者が出ているのに、それほど話題に上りませんから。次に思ったのは、当施設においても免疫力を高める事を今まで以上にしていかなければいけないと言う事です。そこで今朝は青空なので外気浴を出来るだけ多くの方にして貰おうと思いましたし、明日はデイサービスからカラオケのオファーが来ているので、他のフロアからもオファーが来るように頑張りたいとも考えています。元気を貰えば新型コロナウイルスに絶対に感染しないとは言い切れませんが、多少は確率が減るのではないでしょうか。そして、本日は日曜日ですが、我が家のある旧中仙道から国道21号線に入って2キロの間、国道を走っていて上下線共に車に出会う事が無かったのは驚きですし、名神高速道路の状況を見てもトラックは3台見ましたが乗用車は私が見る限り走っていませんでした。と言う事は国民の皆さんも今がどのような状況なのかを理解されているのだと思いました。私の話題によく上がってくる私が購読している『週刊現代4月25日号を見ても、新型コロナウイルスの話題が中心です。その中で一番気になったフレーズは今、最も注目を集めている哲学者、マルクス・ガブリエル氏の語りの中で「ウイルスは純粋に生物学的な現象です。しかし、それにとどまらず、新型コロナによって起きる様々な問題は我々を相互不信に陥らせ、社会の連帯を分断します。つまり、新型コロナは『精神の毒』でもあるのです。」(そして、記事のコメントに)「新型コロナは人の心を蝕む。感染に怯え、他人を信じられなくなる。」と 書いてありました。最近の私のコラムでも『常日頃やるべきだと思って実践している真逆な事をしなければならない。』と書いていることを世界的哲学者と言われる方から肯定されているように感じて複雑な気持ちになりました。リピーターの皆さん。私が今一番懸念しているのは、新型コロナウイルスは戦争状態だと揶揄されている今、戦争によって一番大変な思いをしてきたのは『弱者』だと言われてきた歴史があるので、この戦いでは弱者に対して犠牲を払う事のないようにして欲しいと考えているのですが、リピーターの皆さんはどのように思われますか。

新型コロナウイルスの恐怖

令和2年4月18日

目に見えない新型コロナウイルスとの戦いはまだまだ続くので、感染に対する対策は今まで以上に徹底しなければいけないと思います。そんな中で本日テレビを見ていて違和感を感じたコマーシャルを見ました。

それは、ACジャパンのテレビの広告で夫婦で癌健診の呼び掛けをするものだったのですが、国が『不要不急』の外出を控えるように言っている中で、しかも、病院に行くのを奨励するようなものは如何なものかと思ったのですがリピーターの皆さんはどう思われますか。リピーターの皆さんの中には「批判は何処からでも出来る」とか「そんなにとんがるな」と思われるかも知れませんが私はACジャパンも国からの支援によって成り立つ機関である以上国民のデリケートな部分に対してまで配慮すべきだと思ったからです。

この現象の最たる原因は国の機関は縦社会で横との連携を取りづらい環境があるからだと私は思うのですがリピーターの皆さんはどのように思われますか。先般もこのコラムにおいて、施設での対応を真逆にしなければいけないジレンマについて書かせてもらいましたが、新型コロナウイルスに対する治療薬と予防薬が開発されるまではこの対応はいた仕方がないと考えています。勿論施設の入居者さん、利用者さんには今までとは違う形での過ごし方を職員が一丸になって構築しなければいけないとも考えています。

インターネットによって間違った情報により、トイレットペーパーがお店からなくなってしまったり、マスクの値段が異常に高いものが売られていたり、粗悪品がインターネット上で売られていたり、新型コロナウイルスに効果があるとの触れ込みで高価な漢方薬を販売したりしているのをテレビ等の報道で見聞きすると、日本人が持っていたモラルの劣化を感じずにはいられません。但し、私は安直に手に入れたお金はあっと言う間になくなってしまうと思っています。

私は施設の経営を担っていますがその手法は『誠心誠意あるのみ』と考えています。そして、杉和会トップである私が一番汗をかかなければいけないとも思っています。そこで、改めて『社会福祉法人』の使命について思っていることを書きます。社会福祉法人は非課税です。何故非課税かと言えば収益が出たものについては地域貢献で還元していく事を義務つけているからです。そんな中で入居者、利用者への楽しみにはお金を使いますし、職員が意欲を持って働いて貰える為の対価にはお金を使いますが、無駄にお金を使わない為に節約には職員も意識を持って取り組んでいます。目に見えない新型コロナウイルスとの戦いはまだまだ続きますがリピーターの皆さんお互いに節度ある対応をしてリスクの軽減に努めていきましょう。

 

薬師寺執事長の大谷徹奘師から送って頂いた『メールde法話会』

令和2年4月17日

新型コロナウイルスの影響によって、薬師寺での生での法話を聞くことが出来ないのですが、その代わりで今回が4回目の『メールde法話会』が送信されてきました。私は大谷徹奘師と初めてお会いしたのは、師が薬師寺の副執事長をされている時に、岐阜県老人福祉協議会の総会の折りに講演をお願いして名刺交換を講師控室でさせて頂き、講演内容も大変聞きやすく分かり易くお話をして頂き、その折り購入した師の本とDVDを折りに触れ聞いたり読んだりしているのですが、既に2年以上前のご縁なのに今もメールを送信して頂けるのに感謝すると共に今日の内容があまりに深いものだと思いましたので、師の許可も得ず紹介させて頂きます。(多分お許し頂けると思っています。)

タイトルは「他人の邪を見るなかれ」とあり、他人の邪(よこしま)を見るなかれ、彼が何をなし、何をなさざるかを言うなかれ。我が何をなし、何をなさざるかをおもうべし。」(法句経 第50・高田好胤和上訳)と最初に書いてありました。これは、今から約2200年前、初めて文字化された経典である『法句経』。の一説だとの事です。その説明を大谷徹奘師は「私達には、外側に向いた目・耳・鼻・口・皮膚と言うアンテナはあるものの、内側(自分)向きのものはありません。これによって他に対する時は厳しいのですが、自分に対する時はもの凄く甘いのです。しかし、これが人間の特性だから「仕方がない」の一言で片づけていては、より良い人生は歩めません。他と接する以上の厳しさで、自分と向き合うことが大切だと説くのが、仏教の基本です。修業を40年重ねても、自分に甘い私がお尋ねするのはおこがましいのですが、あなたはどんな態度で自分と向き合っていますか。合掌」と書いてありました。

この『メールde法話』を読ませて頂き、先ずは2200年も前の先人が残された言葉の重さを感じながら、尚且つ、大谷徹奘師もとんでもない修業をされた方の謙虚さに舌を巻きつつ、私の生き方はどのレベルだろうかと自問自答して分析してみました。私の幼少期は『我が家は自分中心に動いている。』事に何の疑問も持たず、少年期は『自分の生活から手(母秋江)足(姉光子)を奪われもがくばかり』で青年期は『自己責任の中で進み』(実は色んな方に支えられていたのに)38歳以降は『有言実行を猪突猛進に』の生き方の中、基本的には『相手の方の素晴らしさを身に付けたい。』『相手の身になっての実践』を念頭においてきたつもりであっても、振り返ってみると不十分なことばかり。やっぱり、生きている限り修業の身なんだと大谷徹奘師のメールから改めて思いました。

リピーターの皆さん、本日のコラムは自分でも何を言いたかったのか理解に苦しむものになってしまいましたが、毎日読んで頂いている方には理解して貰えると勝手に思っています。※ 自分で理解出来ないものの真意をリピーターの皆さんで理解しろとはわけがわからない。多分これは、いつ終息するか分からない新型コロナウイルスの性だとこれまた勝手に思っています。自分では、昨日のコラムは絶好調で本日はコラムは絶不調と言う事でお許しください。

 

新型コロナウイルスの影響を切る✂

今まで口が酸っぱくなるほどに『コミュニケーションが大切だ』『地域との関係を大切に』『積極的なボランティアの導入』『家族との絆が大切』等と言ってきた事に対して、新型コロナウイルスの出現によって真逆な対応をしなければならない事に私自身戸惑いを感じながらの対応に多分、職員達も混乱の日々だと思うのです。リピーターの皆さんの生活にも大きな変化があるのではないでしょうか。例えば、今の状態ではいわゆる『井戸端会議』(そう言えば母秋江さんはお手製のビニール紐で作成した買い物籠を持ってほんの200メートルの八百屋さん(『三浦や』)に買い物に行くのに最低一時間は帰って来なかったな)なるものは古き良き時代のものだけど「私は今でもしてます。」と言う方も今は流石に基本的には井戸端会議はされてないと思います。もしも井戸端会議をするのであれば、胸に大きなゼッケンをつけて『私は昨日PCR検査を受けて陰性だったのでお話ししても大丈夫です。』とこれまた大きな文字で書くしかないのかな。本日、大垣の仏壇屋さんまで行きました。それは、ボランティアの導入をお断りしていて、各フロアの余暇の充実を職員に指示した本人としては、私も一肌脱がなければとの思いからです。私の場合、カラオケとお経と小噺くらいしか出来ないのですが、カラオケは施設に立派なものがあり移動可能なのでクリア。お経さんはデイサービスにはステンドグラス入りの立派な仏壇があるし、新館は1階にも2階にも仏壇があるけど、本館のフロアにはないので、『南無阿弥陀仏』のお軸を購入して対応しようと考えたからです。後は各フロアからのオファーを待って頑張りたいと思っています。大垣に行き驚いたのは大垣インターをおりた所に近鉄の観光バスの基地があるのですが、きれいに並んでいて、全く稼働してないように感じましたし、国道21号線と平行してJRが走っているところで、丁度信号で停止している時に特急『シラサギ』が走って行ったのですが、殆どお客さんは乗っていなかったです。このような状況がまだ、どのくらい続くのかわからないのは本当に辛いです。冒頭に書いたように本来と真逆な事が続くとなると、施設の入居者さんに対するケアに対しても『今日一日楽しかったよ』の思いが伝わり難くなるので途方にくれる結果になってしまう。そんな状況であっても『優』すべてにやさしく『悠』いつまでもゆとりある『邑』やすらぎのばしょでありたい。を、どのような状況になってもやり続けたいと考えていますのでリピーターの皆さんと共に新型コロナウイルスの早期終息を祈りつつ頑張っていきたいと思いますので、これからもご支援宜しくお願いいたします。

我が家で一番長く生活したのは養母英子(ひでこ)さんでした

令和2年4月15日

本日は17時30分に家に帰り30分間ウォーキングマシンに乗り丁度2キロ歩きました。いつもの事ながら歩く前に仏壇にローソクと線香を点けてから歩いたのですが、これもいつものように、本願寺(お東)のお経と四国を歩いた時のお経を思いっきり声を出して唱えたのですが、いつもと違ったのは遺影が飾ってある左から父進、母秋江、姉光子(本来嫁いでから亡くなった人を奉るのはタブーとされているそうですが、父進が頑なに飾りましたし私も姉春子も父の意向が正しいと考えています。)養母英子の写真と順番に語りながら、歩きながらのお経でした。

そして、いろいろな事を考えました。1つには、早くに亡くなった順番であれば秋江さん、光子さん、進さん、英子さんにの順番になるのですが、そのようになっていない理由は、今のお仏壇は父進が亡くなってから内藤仏壇店(滋賀県長浜市)で購入したものです。そんな事を言うと私が『立派じゃ』と言う事になるのでしょうが、正直に言うならば父進が残した預金から購入しただけです。だから順番は私の思いで父進が一番なんです。

しみじみ4人と語らいながらふと気が付いた事があります。それは、母秋江さんとは13年、姉光子さんとは17年、父進さんとは38年のこの世での付き合いでしか無いのに養母英子さんとは私が19歳の時から62歳までの付き合いだから実に43年だから4人の中で一番長い付き合いだったんだと改めて理解した次第です。(いやいやこの世で一番長いお付き合いは、生まれてから今も進行中の姉春子さんです。※だからこそ大切にしなければいけません。)

しかしながら、お付き合いの密度は単に年数だけでは量れないとしみじみ思いました。そう意味からも、出会ったのは最近であっても密度が濃い関係になる方もあるだろうし、長い付き合いの中でも印象の薄い方もあるかもしれない。但し、私は今までの生きてきた中で、語りだしたら密度の濃い関係を作って貰えた方が多く見える事に感謝しつつ、これからも新たな出会いを多く持てる事にワクワクしています。リピーターの皆さん。のんべんだらりの生活ではなくて刺激のある毎日に幸せを感じている私の生き方にエールを送って貰えたら嬉しいのですが。

 

片付け下手の宏君の話です

4月10日に歯医者さんに9時の予約に間に合うように車を走らせていて、『しまむら』の基地があるところで信号でもない所で前のトラックが停車したので「そう言えば工事の看板が出てたな。」と思いながら車を停止させて間無しに思いっきり後から来たノーブレーキの車にぶつけられました。それなりにトラックとの車間距離をとっていたのに前のトラックにぶつからなければ私の車は止まる事が出来ず、結局私の車は前も後ろも思いっきりへこんでしまって、ディーラーの代車に今は乗っています。

ぶつけた車の中の荷物をいつまでもそのままにしておくのが嫌だと思っていたので、午後から岐阜県庁で地域福祉課長と補佐との打ち合わせを終えて、先般亡くなられた入居者さんのお通夜までには時間があると考え、「荷物を入れる箱が必要だ。」と、途中にあるドン・キホーテによりました。適当な箱を2つ手に入れ、車を預けているディーラーに行き、私の車を持って来て貰い、何ヵ所かに分かれて入れてある荷物を買ったばかりの箱に適当に入れていくと、しっかり箱二個が一杯になりました。

そして、私は改めて私の片付け下手のだらしなさを理解しました。さてさて、2つの箱に納めた荷物の整理はいつできるのやら。『時間はつくるものだ』とか『忙しいからこそ時間を上手に見つけて何事やれるのだ。』等と言っている私なのですが、片付けばかりは大の苦手。

このような人間になったのは、上手に片付ける事が出来る父進さんがいたので、『片付けはしなくて良い』的な生活習慣が身に付いてしまった等と、父進さんの性にしている私がいるのです。魚の身をほぐすのも下手なのは父進さんの性。『親の背中を見て育つ』と言う言葉がありますが、父進さんには私にとっての母秋江さんにベタぼれだったので母秋江さんに絶対服従で、母秋江さんは我が子宏君が可愛くて可愛くて、息子が出来ない事は全部父進さんがして下さって当然等と思って育ってしまったのです。

今となっては何ともならない欠点と言っても過言ではありません。片付けが出来ない私に対して天国から父進さんが飛んできてくれると嬉しいのですがそんな事は『有り得へーん。』神戸北小学校に勤務していた時でさえ、資料作りこそ私がしましたが、片付けは父進さんがしてましたっけ。等と感傷に更ける前に宏や頑張って片付けをやったらんかーい。

『やれば出来る。と言われ続けて60有余年。』等と他人事のように言っている私は何者だと思われますか、リピーターの皆さん。

1979年の国際児童年から始まった『ふれあい広場』

私が徳山村の居候生活(勘当生活、飲めや歌えの生活等色々な言い方がありますが。)を終え児童養護施設の指導員になったのは、1979年の9月で、勤めだした当初は『家庭教師』のような扱いだったのに、9月半ばになると、『ふれあい広場』の準備の渦中に巻き込まれ、午前10時には施設に来て、保母さんの協力を得て看板作りを毎日毎日していました。また、子ども達が作成した手作りのポスターを公共の掲示板に貼ることも大切な仕事で部活を引退した中学3年の男子を同乗させてポスターを貼りに行くのですが、最初の年は何処に公共の掲示板があるのかもわからなくて苦労しました。限られた予算の中での実施なので招待状は私の私物の年賀状を刷る時の『プリントごっこ』(懐かしい響きがあるなあ)で一枚一枚印刷してハサミで形を作って完成させたものです。大きなイベント企画は経営者の方がいろんなコネクションを駆使して立てられました。例えば、『ミニSLコーナー』『小動物園コーナー』『人形劇コーナー』です。また、『110番・119番コーナー』は警察や消防署にお願いに行き打ち合わせするのは私の担当でした。それから、『即売コーナー』の不用品を連絡を頂くと集めに行くのも私の係りでした。『模擬店コーナー』は卒業生の中に板前さんがいて、その方の指示で美味しいと好評のうどんや焼きそばを販売しました。(ちなみに、うどんや焼きそばは40年前から100円です。だからですかね、優・悠・邑の夏祭りの模擬店も100円です。)何人参加者が集まるかわからない中で、第1回は小学校区の規模で開催したのですが1500人の参加があったのには感動しました。2回目は旧穂積町全域に拡げた結果3000人が参加して下さったのですが、準備が大変だし協力をして頂く方も毎年は大変だからと2回実施した段階で一旦実施しないことに決まったのですが、盛大なイベントだと言う事とNHKが資金援助をして下さる事になり、3回目も開催され、今も続いてます。不思議なものです。何かをやり遂げる時には不思議な力が働くと言う事を。但し、基本的には一生懸命に行おうとするものに対しての後押しがあると言う事です。私が主体的に担ったのは13回なのですが、準備に対して主体的に関わっていて、何が何処にあるかをわかるのが私以外にいなくて大会が始まると本部席から「若山さん」と大会終了の15時30分まで呼ばれては走り回るばかりでした。今から考えるともっとみんなにわかるようにしておくべきだったと思うのですが多分今でも、同じやり方なんでしょうね。だって、夏祭り等の時は走り回っていますから。いやいや、近年は来賓対応をするばかりで職員が頑張って実施してくれてるか。とにかく、私のイベント好きは児童養護施設の時に培われたんだと思います。リピーターの皆さんこんな生き方しか出来ない私をどう思われますか。

『お陰様で』に感謝。PART2

令和2年4月12日

救急車を呼ぶと共に施設に連絡して、救援を呼びました。と言うのは私は事故対応の為に現場に残らなければいけないからです。私は助手席にいた高校生がフロントガラスに突っ込み顔から血を流しているのでハンカチを渡すと一瞬の内にそのハンカチが真っ赤になり私自身は真っ青になり頭は真っ白になったのを覚えています。

そして何とか「目は大丈夫か」と聞くと「まぶたが切れたので血は沢山出とるけど目は見えとる」と答えてくれましたが、不安でいっぱいでした。やがて救急車が来て四人を祈るような気持ちで見送り、少し気持ちを落ち着かせてから事故の状況の凄まじさを確認すると、私の車も相手の車も前タイヤは全部パンクしてましたし、ゴムの焼けたような異常な臭いがしていて、(お互いに60キロで走っていたのが、一瞬で無理矢理止まった為にタイヤに凄い摩擦がかかった為)無惨な形に驚いてしまいました。

しばらくして、パトカーが2台到着して、相手の方はみんな救急車で行かれてしまった事を話しすると、1台のパトカーは救急搬送先の大垣市民病院に行かれてから、私一人が現場での事情聴取を受けました。落ち着いてあったままに話をして多分矛盾点がなかったからだと思うのですが、警察の方から「正直、堤防道路の正面衝突事故と聞いたので何人かは死亡あるいは重傷者があると思ってきたし、現場を見ても今のところ重傷者もないのには驚きだし奇跡に近いよ」と言われて改めて『ぞっ』としました。

結果的には大垣市民病院に行って診て貰った助手席の子はまぶたを切って沢山の血が出たものの瞼を5針縫ったがこれも奇跡的に目は傷ついてないとの報告を後から聞き、思わす私は「お大師さまありがとうございました。」と手を合わせました。但し、事故当日は緊張もありどこも痛くないと感じていたのですが、一晩寝た翌日に新聞を読もうとしたら目がちらちらして全く読めない状態で、病院にかかるとむち打ちの症状だと言われて、施設の経営者の方のアドバイスで針治療に長く通いましたが今は全然影響ありません。二回目の事故について書きます。

車は廃車になり、新車をブルーバードに買い換え、いつもの道をいつものように23時過ぎに走っていて夜になると私が走る方向が優先道路で黄色の点滅になる交差点で右側がビニールハウスで車が見えない赤の点滅で、右側からノーブレーキで突っ込んで来たのて思いっきりブレーキを踏んだのですが私の運転席側の後ろ側面に思いっきりぶつかり、ハンドルは思いっきり回ったまま制御できず、私の車は右方向に信号内をスピンして、スピンしている時に私が考えたのは「電柱にぶつからずに停まってくれ」と願うばかりで、私は震えながら「ナムタイシヘンジョウコンゴウ」を唱えていました。そして不思議な事に私の車は信号の真ん中で停まり全く電柱等にぶつかりませんでした。相手の車はと言うと進行方向とは逆向きで路側帯に器用に停まっていました。

私は飲酒運転でもしている車だと思い、スピンした興奮もあり「酒、飲んどるのと違うか」と詰め寄ったのですが酒の臭いはなく、警察を呼びお互いに怪我がないと言うことで後はお互いの話し合いでと言うことど、私の方も黄色の点滅で突っ込んだと言うことで若干の過失があるとの事でしたが、今回はお互いに怪我無しと言う事でしたが、スピンの時間が如何にも長く感じた事を覚えています。車がダメになる事故は今回で3回目ですが、体に支障もなく今があるのは正直目に見えない『お陰』を頂いているとしか考えられない。しかも3回も。これは生きての役割があるからだと思うとこれからもしっかりと地域の為に貢献しなければいけないと思うのですがリピーターの皆さんはどう思われますか。

『お陰様で』に感謝

昨日は36年ぶりの出来事としての交通事故の対応とショックによって異常に疲れていたのか21時からのテレビでの『コナン』の映画の楽しみより睡魔に勝てず(そんなに大袈裟に書く事ではなかったね)爆睡しました。

そして今、目が覚めて一番にしたのはベット上で体を動かしてみて痛いところはないか確認しました。そして『どこも痛くない』事に『お陰様で』等と薄ぺらな表現では申し訳ないくらいに感謝してます。もしかしたら、天国にいる父進さん、母秋江さん、姉光子さんがぶつかった瞬間に頭を支えてくれたのかもと真剣に思っています。

リピーターの皆さんの中にはひょっとして「そんな事ができるのなら、最初から事故を起こさないように、その場にいないようにしたら良かったのに」と思われた方があったかも知れませんが、人生にはどうしても免れる事が出来ない『災難』はあると思います。『大難』を『小難』にして貰うのも、摩訶不思議な世界であり理屈では説明出来ない事なのです。

どうしてそのように断定的に話す事が出来るのかを私が29歳の時に一度ならず二度経験した交通事故の体験からお話します。一度目は29歳の秋の事です。その当時は児童養護施設の指導員で例年11月23日に開催される『ふれあい広場』と言う大きなイベント(その頃は6千人の入場者がいました。)のイベントの一つとして、カニのプレゼントコーナーがあり、長良川の下流にたくさん生息しているカニを捕まえる為に高校生男子4人を私の車(当時はカムリに乗っていました。)に乗せ右岸道路を走っていたら、夜釣りを徹夜でした若者の居眠り運転の車に正面衝突をされたのです。(ぶつかる直前の事は駒送りのように鮮明に覚えています。)

相手の車は私の車と対向する直前にガードレールにぶつかりそうになり、そこで気が付いたのか、私の車目掛けて急ハンドルを切ったので防ぎようがなかったのですが、ぶつかる瞬間が駒送りで長い時間が過ぎたように感じたので「あれ、ぶつからずに何処に行ったの」と思った瞬間にドカーンと衝撃がありその当時シートベルトをしてなかった私はハンドルをねじ曲げてまでハンドルを握っていました。

「大変な事になった」とうつむいたままでいたら、健気にも助手席の高校生が「先生大丈夫か」と声をかけてくれたので、助手席の子が声をかけてくれたのなら大丈夫と助手席の子を見ると顔から血が吹き出ていて愕然としました。取り合えず救急車を呼ばなければいけないと考えたのですが、当時は携帯電話などと言う便利なもの等ない時代なので、堤防を走って降りて、民家に飛び込み事情を話して救急車を呼びました。

※本日は私の奥さん『かをりさん』の誕生会を19時から長男家族と共に我が家でするので、今はお風呂でコラムを書いているのですが、明日続編を書きますので『本日はここで打ち止め』ハラハラドキドキは明日に持ち越します。

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