2020年02月の記事一覧

大車輪の一日で明日は岐阜羽島午前7時24分発で埼玉県川越に行きます

令和元年2月9日

午前8時15分に施設を出発して岐阜グランドホテルに向け車を走らせ9時30分には着いて10時からの野田聖子衆議院議員の『新春のつどい』には十分間に合う予定でいたのですが、都ホテルを過ぎた頃からのろのろとしか動かなくて10時5分前に受け付けを終えて椅子に座れて「ほっと」すると共に改めて『予定は未定であり決定ではない。』を理解しました。座った後に隣に座られた方を見てびっくり。何故なら大変お世話になっている大きな法人の元理事長さん。せっかくお隣に座られたので色々なお話が出来たのはラッキーでした。しばらくして、野田議員が和服で入場されて一気に会は盛り上がり演壇で座られて後援会の村瀬会長の挨拶の中で野田先生が9月で60歳になられると紹介されて、25歳で政界入りされて35年だから確かに60歳と理解出来るのですが「いつまでも若々しい」と思いました。私は野田先生とはお酒や食事を何度かご一緒させて貰い『行動力と提案力』がある事は理解しているのでこれからも日本の政治の世界で牽引力をますます発揮して貰いたいと思っています。つどいが終わり、どうしても施設に来て頂いているスコップ三味線の家元(青森県から)とてるてる座の座長に挨拶をしてから改めて大垣で行われる『サロンドおしんちゃん』のこけら落としに参加したいので、昼食の時間を節約するためコンビニでおにぎりやパンを買い運転をしながらむしゃむしゃ。そのかいあって12時45分に施設に着き家元と座長に挨拶をして、再び大垣に向け車に乗り何とか開会に間に合い、本日の主役『おしんちゃん』(写真参照)が登場。おしんちゃんにはいつもいつも驚かされる。彼女が初めて本部施設にボランティアにてるてる座の一員として来てくれた時(10年以上前)は芸者さんの姿。今日は今日で艶やかなかっこうでジュディオングのように颯爽と歌と踊りを披露されました。続いて来賓挨拶を岐阜県議会のドンである猫田先生がされ、引き続きの挨拶は何と杉和会理事長である私だったのは恐れ多い事でした。だって、来賓席には市会議員の方がずらっとみえ、棚橋衆議院議員の奥様や小川市長の奥様もみえたので。その後何人かのプロの方が友情出演をされ、15時15分に1部が終了して休憩になり本当は2部も見たかったのですが、16時過ぎから入院していた職員を父親が連れて来てくれて明日から頑張って仕事に復帰して貰う為の話し合いをしなければいけないので、色々な方にご挨拶をして施設に帰り、しばらくすると、病院から退院してきた職員の顔を見て嬉しくなりました。退院してきた彼のスタンスは、めちゃくちゃ一生懸命で優しさを備えた素晴らしい職員なので復帰する事を本当に嬉しく思っています。明日は明日で家を6時30分には出て、初めて行く埼玉県川越の本川越へ。岐阜羽島から品川まで新幹線で行き、山手線に乗り換えて高田馬場まで行き西武線で本川越に。田舎者の私は移動に疲れるのですが、11時30分からの埼玉県の役員さんとのランチミーティング、午後からはタウンミーティングに懇親会。今(午後8時31分)は明日の出会いを楽しみにして早くに寝て明日の予定を万全にしたいと思います。リピーターの皆さん明日の展開にも乞うご期待と行きたいのですが、『予定は未定で決定ではない』ので、明日もこのコーナーを見て確認お願いします。

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クシャミ

令和2年2月8日

朝食前に洗面を済ませ食事場所に向かっていて鼻がむず痒くて思わずクシャミをしたのですが、そのクシャミが全身でするような強烈なクシャミで、しかも7回も。「クシャミよ止まれ」と思っても止まらず、クシャミをする度に頭のてっぺんにジンジン響いて、連続のクシャミがようやく収まったと思って再び歩きだそうとすると立ちくらみ状態になり、思わず傍にあったソファにもたれかかり、しばしうつむいていて、その後椅子に腰掛け朝食を頂き(いつもと変わらず食事はしっかり頂きました。)食べ終わった後でデジタル血圧計で血圧を計ってびっくりです。計った数値が『172ー125』と言うビックリするような数値だったからです。この数値を見た瞬間に余計に頭が痛くなってきたのは気のせいでしょうか。

2年程前に、外出後にいつものように車を運転していてもイライラとしてきて、頭がガンガン痛くなり何とか施設まで帰ってきて、施設長室で横になりながら血圧を計ると『250ー165』と言う正にとんでもない数値が出て、頭が痛いのも収まらなくて、家まで送って貰いその後安静にしていて、翌日病院に行き薬を頂いて収まった経験がありますが、クシャミで一気に血圧が上がったのも驚きです。しかしながら『高血圧じゃ』、『尿酸値じゃ』『血糖値じゃ』と気にしなければいけない年になったのかと思うと少し悲しい気がします。常日頃「ころっと死ねれば」と言った舌が乾かない内に「でも、あれもやりたい。これもやりたい、」「あの事が出来てないのは駄目だ」と矛盾した事を思っている私は変なのでしょうか。

今までの私は「自分が今の状況を築く事が出来たのは、お酒が飲めて、歌が歌えてネットワークを大切にしてきたから」と豪語して、お付き合いの酒は一切断る事なくやりきってきましたが、主治医の先生から「食べたり飲んだりする量が自分の許容量を超えているから、良くない数値がでるのです。お酒を飲むのなら、冷酒とビールは止めた方が良いと思います。」と言われた時に私は「ビールは飲まなくても平気だけど、冷酒は我慢出来るかな。」と思いました。だって、冷酒は大好きだし、冷酒を飲みだすと、食べる量も増えるし・・・。

植木等さんの歌じゃないけど『ちょいと一杯のつもりで飲んで、いつのまにやらはしご酒』うーん。私ははしご酒はしないけど『浴びる程に飲んでしまうしなぁ』「いやいや、私でなければいけない役割があるのであれば『自粛じゃ』を実践しなければ。そして、クシャミも出来るだけ『おしとやかに』しなければいけないなどと考えているのですが・・・。✳この『・・・』をつけなければいけない私ではいけないのはわかっているのですが。『わかっちゃいるけど止められない。スイスイスーだらら・・・。』ドリフターズのいかりや長介さんではありませんが「だめだこりゃ」

週刊現代の記事『名門・パナソニックの苦悩を考える』で思う事

サブタイトルは、『出口はあるのか?27万人を率いる都賀体制8年目の真実』と言う文字が飛び込んできました。創業は大正7年(1929年)3月7日松下幸之助が「松下電機器具製作所」を創設。創設時は松下幸之助23歳、妻・むめ22歳、むめの弟・井植歳男15歳の若い3人だけの小さな会社だったのが今は27万人の大企業。押しも押されもしないものと思っていた私としては、「信じられない話」だったので、記事を読んでいくうちに『栄華盛衰』は過激な時代には大企業だからと胡坐をかいていられるものではないなと思いながら、大企業で尚且つ『老舗』と言われるが故の難しさがある事に気が付きました。と言うのは、小見出しの中で「勝ち方がわからない」とか「しがらみで、がんじ絡め」「幸之助イズム」と見ていくと強烈な創始者の教えに対して歴史的背景に乗っていく事の難しさをみたように思いました。「人を大切にする」教えの中で人員削減をするいわゆる『思い切ったリストラの断行』に切り替えられないジレンマ。また、大企業であるがゆえにヒット商品が一つや二つでは全体を潤すまでに至らない苛立ち。そんな中で「企業はいずれ役割を終える」との文字には大変なる重みを感じました。そしてまとめの文章に「次を任せられる人材がいない以上、ここで放り投げたら『あいつがパナソニックを見捨てた』と後世まで言われ続ける。そんな恐怖のなかに津賀社長はいる。松下幸之助は事業のことを考えると不安になり、一日3時間半しか眠れなかったと言う。そんな重圧のなか、すでに8年が過ぎた。孤独な苦悩を抱えて、津賀氏は眠れぬ夜を過ごしているのだろう。」と記事はとじている。あまりに重い記事に法人設立23年の杉和会の理事長として方向を見やまらない事の重さを感じつつ、是は是非は非で弾力的に舵取りが出来るようにしていかなければいけないと改めて思いましたが、大企業と2事業しかない法人を同列にしたのは全く意味のないものと原稿を書きながら思いました。時間があれば記事を全面的に書き直したいのですがリピーターの皆さん今は18時30分で19時からかつての入居者のお通夜があり、通夜が終わり書き直す気力は多分ないと思いますのであしからず・・・。

本日も午前3時32分に携帯が鳴りました

前日携帯が鳴ったのは東京のホテルだったので携帯での対応のみだったので、指示した後は施設にいる職員に委ねて再び眠る事が出来たのですが、本日は私自身か自宅で寝ているわけなので着替えをして施設に出掛け看取りの対応としてドクターの対応と家族の対応をしました。(家を出て車を運転している時の車の温度計はマイナス2度。多分今年の最低気温だと思います。)

今回のケースは入居時に篤志献体の手続きをしてみえる方なので朝日大学に連絡して迎えに来て貰うだけだと思い話をしていたら、「葬儀はする」との事なので(このようなケースは初めてです。)家族の方の意向に沿った対応の為に、日勤の職員か来てから湯灌をするように指示をして、一旦我が家に帰り朝食をとりスーツに着替えて再び施設に行くと葬儀屋さんが迎えに来て下さったので出来るだけ多くの職員でお見送りをして、3日間留守をしていた時の書類の決済と郵便物の確認をしていると、10時30分からの約束をしていた方と11時からの約束をしていた方の対応をしていると11時30分に決裁をするために呼んでおいた和合の事務長が来て、決裁を済ませてから慌てて昼食を頂き、慌てて岐阜県庁に車を走らせ高齢福祉課、地域福祉課でそれぞれに話をしていて、四半世紀前の県庁での対応の変化に驚くと共に舞い上がることなくこれからも対応していきたいと思います。

再び施設に戻り本日のおそばせながらの新年会(18時30分から『しゃぶしゃぶの木曽路 』で開かれます。)までデスクワークをするつもりでいましたが、立て続けに電話が入り気がつけば17時45分で慌てて施設を出て、車に乗せて貰いまたまた気がつけば「今日のコラムが全く書けてない。」と言う事で助手席で携帯に原稿を打とうとするのですが、車が右に左に揺れてなかなか打つことが出来ずイライラしながら運転手に文句を言ってから思いました。自分が運転していたら全く打てないのだから文句を言うのは筋違い。

18時25分にしゃぶしゃぶの木曽路に着き私はお酒を少しと程々食べるのをしっかりして、2時間の時間はあっと言うまで、私自身は控え気味に飲むつもりだったのですが、ベテランの職員が若い職員の教育のつもりで理事長の私のところへお酒を注ぎにくるので「ここは飲まなあかん」と言う事で予定していたよりもかなり飲んでしまいました。だから、新年会の帰りの車の中でコラムを書くつもりだったのですが、車の中で寝てしまい、またまた『予定は未定であり決定ではない』ので、早め早めにコラムを打つようにしていたのですが、今日は午前3時30分からの大車輪だっとので、書けなかったのは仕方がないのですが、自宅に帰り水をしっかり飲んでシャキッとして何とか連続更新は出来ましたが、リピーターの皆さん内容に乏しいのはご容赦下さい。

「寝ます」

夜間対応から始まりました

東京へ出張中である事はリピーターの皆さんは既にご理解されていて、昨夜は22時まで広報委員長らと親しく交流をしていた報告はしましたが、ホテルに帰り昨日のコラムを完成させ(送信記録では22時26分)送信後は爆睡していたのですが、午前1時40分に本部施設の宿直者からの電話に反応して目を覚ましました。

その連絡は看取りとしての対応をしていた方が残念ながら「息を引き取られた」との報告。電話を切り深呼吸をしたあと、当施設の診療所の先生に連絡して、その後の対応を宿直者に指示して(本来、施設長である私がすべき事)申し訳ないのですが再び爆睡していて、6時前に再び宿直者から連絡が入り、ドクターの死亡診断と家族への説明について報告を貰ったので、湯灌や家族対応については主任生活相談員が早くに出勤してからの対応にするように指示を出して、ホッとしてから思った事は私が留守をしている時には定時の報告と緊急時の報告がきちんと来て、施設長に代わって対応出来る職員が確立されてきたと言う事です。幹部職員や宿直者には常々「施設長ならどんな事を考え対応するかを確認をしつつ行動するように」と言ってきたのが形になってきたと言う事です。

私の出来る許容量には当然ながら限界があります。それでいて対外的活動が増えている以上職員が頼もしくうごめいていてくれている事に感謝です。

2泊したアパホテルを出て新橋に移動して『ゆりかもめ』でビックサイトまで行き、研修会場まで歩き(私の記憶違いですんなり行けず)受け付けを済ませ、時間があったので、参加されている方の中で知っている方々に挨拶をして、厚労省の行政説明から始まり『処遇改善加算』『書類の簡略化』について時間のある限り聞いていたのですが、大垣のフォーラムホテルでの会議が18時30分からなので16時発の列車に乗らないと間に合わないので事務局に頼んでタクシーを予約して貰ったので予定通りの列車に乗り今は岐阜羽島に向かってます。

明日は岐阜県庁で、高齢福祉課と地域福祉課で打ち合わせがありますし、明後日には、高齢者福祉策定会議(正式名称でないかも知れません)があり、8日の土曜日は就労支援の会議が羽島であり、9日の日曜日は野田先生の新春互礼会があり、その間に青森からスコップ三味線の家元が岐阜にみえるので色々と暗躍しなあかんし。

週明けからは宿泊を伴う埼玉県と博多への出張がありますが、今回の出張中に全国老施協の多くの役員さんから「体に気をつけて下さい。」と言われましたが、全国老施協の組織強化と拡大の為に中村会長の遺言である『労を惜しまず』で頑張って結果をださねばど考えていますし、若手の幹事に激を飛ばしている以上はもっともっと自分を律しなければとも思っています。

リピーターの皆さん私に対するますます支援を宜しくお願いします。

大好きな日本酒は控えましたが

 

昨日は東京のニューオータニで研修があり、長男も一緒だったので赤坂見附の和食屋に行き、板長おすすめの何故か岐阜の酒『三千盛』(私が岐阜から来た事をしっている)この演出は素晴らしいと思うのですが、純米吟醸『ドライ』と言うのが出てきたのですが、根っからの日本酒好きの私はどんどん飲みたいところだったのですが、今の私の体にはあまりよろしくないと言う事でおちょこ(かなり大きな)2杯で我慢して(長男が美味しそうに飲んでいるのを横目に)麦焼酎のお湯割を飲みました。

その後歌の歌えるお店に行きウィスキーを飲みながらしっかり歌いました。ボックス席にいた私たちの他にはカウンターに粋な雰囲気のおじさんが一人。(どう見ても普通のサラリーマンと言う感じではない)かなり歌って雰囲気が良くなった頃を見計らい(私の勝手な判断ですが)ボックス席に移り合流して楽しく歌と会話を楽しんでいて、名刺交換をすると『コピーライター』として独立されている方と分かり、私はコピーライターの職業の方とは面識がなかったのですが、名刺を頂いて改めて『コピーライター』の雰囲気を持った方だと思いました。

でも、コピーライターを職業とされている方にも歌を披露して貰おうと色々とアプローチして五木ひろしさんの曲をめっちゃ上手に歌われてから「今日は演歌ばかりなので私もつられて演歌にしました。」と照れながら話して頂きました。場に合わせた曲を選ばれしかも上手に歌われたのは『流石』だと思いました。一見キザに見える所作も全然嫌味に思えないのは、30年間業界にみえるからかなとも思いました。

(ここからは本日一日の経過を書きます)

昨夜は午前1時にホテルに帰り部屋で爆睡して6時40分に目覚めお風呂に直行してゆっくりお酒を抜き一旦横になり、再びお風呂に入り、シャキッとしたところで外出着に着替え平河町の塩崎ビルに9時に着き役員の方に挨拶をして定刻の9時30分から正副委員長会議が始まり園田参議院議員、久藤政治連盟会長、平石老施協会長の挨拶の後、『ケアニン』の試写会を見て(殆どの方がすすり泣き状態)その後事務連絡があり、会議終了後に『ケアニン』の原作者兼プロデューサーに挨拶をして、その後昼食。

13時から総務・組織委員会、広報委員会との合同会議でホームページとパンフレットの検討会をして、15時30分に終了して赤坂見附まで歩き、水野広報委員長と会食を共にして、その後歌も歌いに行き今は部屋でコラムを書いています。明日も戦略セミナーがあり、セミナー終了後は大垣に急ぎ帰り地元の県議の会が18時30分からあるので大車輪ですがリピーターの皆さん元気に飛び回っている私にご支援を宜しくお願い致します。

『師』と仰いだ吉田宏岳先生の事

令和2年2月3日

吉田宏岳先生の事はこのコラムでも何度も書いていますが敢えて『師』として、中村博彦先生に引き続き書く事にします。

吉田先生とは38歳に児童施設を辞めてから『教育と福祉を考える会』のお仲間にして頂いた事から始まります。勿論最初は私は末席も末席で小さくなっていて吉田先生は中央に座られ最初の挨拶をされている時に私は「大学の教授格の方ばかりの中で緊張する。」とばかり思っていました。

そんな存在の吉田先生でしたが、何回かの例会を重ねていったある日に吉田先生の家に行く事になり、私も同席させて頂く事になり、(運転手のような役割で)家に着くとそこは、お寺であり寺の1画に幼稚園もありました。私は寺の本堂を案内して頂きながら厚かましくも「何宗のお寺ですか。」とお聞きすると優しい眼差しで「真言宗豊山派なので長谷寺系のお寺です。」と先生に答えて頂いたので(多分目を輝かせながら)「お大師様のお寺ですか。私は高校2年の夏休みから四国八十八ヶ所を歩いていて、いつでもご案内しますよ。」とまるで少年のように答えていたのを今でも鮮明に覚えています。

私が吉田宏岳先生を『師』と仰ぐのかと言うと一つには『これは凄いから形にしよう。』と思われた事は即実行されて、継続される事を私自身まねが出来たらと思った事です。何度か先生の家で布団を並べて寝ていても朝の勤行をされなくて「布団の中で唱えている。」と豪語されていた先生が四国霊場を先生と二人で歩いてからは「こんな素晴らしい事はない」と、毎月8日には朝早くから『ごま供養』を、第三日曜には『写経会』 を開催され、春と秋にはバス一台で巡礼の旅ツアーをされていました。勿論私は出来る限り写経会の時には時期に合わせて『山菜おこわ』『竹の子ごはん』『栗蒸しごはん』等を作って貰い皆さんに振る舞う事をしましたし、四国巡拝の折りは道案内をさせて貰いました。

また、私が法人を設立するときには人材の紹介や資金の提供もして頂きました。資金の提供では先生の家にお願いに行くと設立準備資金として1千5百万円の提供をして頂いた時には正直「私にそれほどの価値があるのか」と真剣に悩みました。

平成10年5月に本館施設の事業開始をして、正直私が舞い上がったのと、私の理念で押し通そうとした事により、職員がどんどんと退職した時のタイミングで理事会があり私は思わず大きな声を出して「施設長を辞めたらー」と叫んだ時にはいつも温厚な吉田先生が私の声以上に大きな声で「今の言葉は取り消しなさい」と言われて自分を取り戻した事がありました。

その時の体験から「どんなに厳しい状況になっても自分を見失う事の愚かさ」を知りました。勿論それからも自暴自棄になる場面が全くなかったわけではありませんが、大変な時に大きく深呼吸をしてから冷静に考えるようにしているつもりです。

私はまだまだ、吉田宏岳先生のようには出来ませんが先生の器の大きさをこれからも追い続けていきたいと考えていますのでリピーターの皆さん私の動きにも興味を持っていて下さい。

『師』と仰いだ中村博彦氏の事

中村博彦氏は全国老施協の会長をされ、組織内候補として参議院の2期目の志半ばで他界された方です。

私は平成18年8月8日に役員として、東京の本部に行くようになってからは、正に『師』と仰いで可愛がって頂きました。最初はその頃出来たばかりの総務委員会の幹事として、各委員会のスムーズな活動を下支えすると共に幹部の役員の方々の発言を取りまとめ中村会長に報告するような立場でした。しかしながら、役員になったばかりの私はたくさんの役員さんの顔と名前もわからない、ましてや性格やお立場もわからない中で必死にうごめき、わからない事をその当時の福間局長に相談している場面を中村会長に見られたりするとめちゃくちゃ怒られたものです。

今の私なら「何故怒られるのか」が理解出来るのですが、その当時は「相談するのは仕方がないのに、どうしてこんなに怒られるのか。しかも私だけ」と思っていました。

しかしながら3ヶ月位経過した頃から『事務局に使われるのではなく上手に使う事をしなければ会の運営は上手に回っていかない。』と思うようになり、中村会長の頑固なまでの全国老施協への思いと先を見る力。それを支える情報の多さと理解の早さには驚かされっぱなしでしたが、少しでも中村会長のようになれたらと思って発言をしてきました。とは言え、中村会長との関係が最初から順風満帆だったわけではありません。だって、私との会話の中でどれだけ「ばかじゃ、あほじゃ、とろくさい」と言われた事か。

しかし私は単なる『イエスマン』だったわけではなく、納得がいかない時には反発もして、しかも、中村会長は自分が悪かったと思われた時には自分に対してのフォローをする柔軟性をお持ちの方だったと思います。

頭の回転が凄いと思ったエピソードを書く事にします。それは私が在宅委員会幹事をしている時の出来事なのですが、在宅委員会主催の研修会があり、中村会長が開会前におみえになり、私に「在宅に対する課題は何か」と聞かれたのでその頃の課題を三点お話させて貰うと、それに対しての疑問を私にぶつけられたのでそれに対してお答えして、確かにメモをとられてはいましたが、中村会長は演壇に立って、先程したばかりのやりとりに基づいて堂々と答えられていたのには驚きと共に感動しました。そして、中村会長が原稿を見ないで自信を持って話されるのは、項目を書き出される時には既に話す内容が頭の中にイメージが出来ているのだから凄いと思いましたし、私も 今は話しするときは項目だけ考えて90分の講義でも話をするようにしてます。だって、その方が自信を持って話をしているように見えると思うし聞いて貰っている方々の表情を見て話が出来るので話しやすいです。

中村会長の素晴らしさは例えば『行動の老施協』『労を惜しまず』などのインパクトのある言葉を提案して人を引き付けるのも素晴らしかった。時には真顔で私に『健祥会に来んか』と言われた時には『私も小さいながらも法人の理事長です。』と答えるような事があった事を心良く思い出しています。

リピーターの皆さんこんな私ですがこれからも宜しくお願いします。

『週刊現代』の記事の中から

『亀井静香の政界交差点』の書き出しに『政治家は大きく二つに分けられる。己の信念を貫き行動するタイプか、師の意志を引き継いで行動していくタイプだ。』と書いてありました。私はこの考え方は政界だけではないと思うので、少し私の考え方に基づいて述べてみることにします。

私の生き方は高校2年の4月までは師を仰ぐわけでも主体的に生きるのでもなく、手も足も出さないものだったと思います。それどころか誰かに甘えるだけの生き方だったと思うのです。この生き方に変化をもたらしたのは母親代わりの6歳上の姉の死がきっかけでした。私は姉の死によってやけくそにでも自分なりに動く事をやろうとしたのだと思います。暴れまくった高2の一学期があり、その年の夏休みに四国遍路に参加して、『先達の教えは絶対』と理解しました。そして、その頃から『やんちゃ』はしても『やりたいこと』を見つけれるようになってきたように思います。その頃から私は自分がしたいことを形にしていく為に、時には集団の中でリーダーに従ったり、自分がリーダーになったりしてきたと思います。

しかしながら大学を卒業するまでは、『遊びの域』を越えてはいなかったと思います。(当然の事ですか)大学を卒業して父進の根回しもあり教員になったものの自分の師を見つける事は出来ず、勝手に教員を辞し父に勘当された時も強い意志が働いたわけで無く、仰ぐべき師もなく・・・。

私が師と仰ぐべき人に初めて巡り会ったのは38歳で児童養護施設を退職して、フリーな立場で大学の非常勤講師と家庭教師と個別指導に走り回っている中で『教育と福祉を考える会』と言う研修集団(学会と言った方が分かりやすいかもしれません)の責任者をされていた当時日本福祉大学中央福祉専門学校の校長をされていた吉田宏岳先生に出会った時です。宏岳先生は優しい眼差しの中に厳しさを秘めた方で、宏岳先生の指示には何でも答えたいと必死だった事を覚えています。つまり、この時期に『相手の事を知り形にする』事の生き方を実践したのだと思います。

その間に紆余曲折があり、特別養護老人ホーム優・悠・邑の計画にしても、色々な方の師事を受けてきたように思います。確かに今は社会福祉法人杉和会の理事長として、間違いのない方向性を考えてのやり方ですが、よーく考えてみると、色んな事を考えて実践しているようでいて、色んな方の考え方を参考にしての方向性だと思うと、最初に書いた亀井静香氏の『己の信念を貫き』にしても最初から出来たわけではなく、色々な方の知恵の上で出来たものと思うと究極は『謙虚に聞き、最終判断をした事を信じてやり通す事なのかと。

リピーターの皆さん、疲れた頭のなかでグシャグシャの考えなので意味不明の点はご容赦下さい。

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