2019年04月の記事一覧

来月5月5日に満100歳になられる方の相談を受けてます

平成31年4月20日

法人立ち上げ前からお世話になっている方からの相談を受けていて、(伯父さんとの事です)今回2度目の訪問と言う事で、比較的リラックスをしてお話をさせて頂きました。元々目は見にくかったとのことですが、今年の3月になり全く見えなくなり、独居と言う事でお身内の方から夜も含めて一人での生活に不安を持たれての相談だったのですが、今年の5月5日に満100歳になられるのに、未だ大きな会社の重役として週5日は午前中だけとは言え元気に出社されて、色々な相談にのってみえるとか。尚且つ、目が見えなくても、慣れた所だからと3階にある役員室まで階段で行かれるとの事。このパワーはどこから来るのかに興味を持った私は相談を受けている立場だと言うことをさておき「大正何年生まれですか」とお伺いすると「大正9年生まれだからこの5月で満100歳になります。」と答えられたので、私は思わず「申年ですか」と言うと「そうです」との答えが返ってきたので、私が中1の時に他界した母親と同い年だとわかり何か因縁めいたものを感じました。そして、その方から「大きな取引に躊躇されていた、その当時の社長に、絶対に取引すべきだと進言してその取引を成功に導いた事が今の会社にとって大きかった。」と言われた時には、やはりこの威厳ある態度は自信の表れなんだと思いました。そして、「私は病気知らずで医者嫌い。足の骨が折れたらしい時も手術を拒否したら自然に治って今もしっかり歩けている。」には、本当に人間にも治癒力と言うものが限りなくあるのだと感心しました。また、「私は50代の頃の体重が65キロだったのが今も服を着ていて67キロだから殆ど変わらない。だから、服は昔からのが今でも着れる。」と言われた時に、相談依頼をされた私の20年前を知っている方に「若山先生は随分変わられましたわね。」と言われ、私は思わず絶句と苦笑でした。目は不自由になられていても、かくしゃくとお話をされ、昔の話しだけではなく、最近の出来事もしっかり記憶されているのには思わず脱帽でしたね。目が見えなくても行動力のたくましさには驚きですが「まだまだ、若い者には負けやせん。」の気構えが図抜けているのと、我慢強さと精神力と記憶力が毎日の糧になってるのだと思いました。学ぶところばかりで相談はこちらがしたい位でしたが、お手伝いさんがおみえにならない時間帯への配慮については計画して配置もできたので、多少のお手伝いはできたのではないかと、実は安堵しているしだいです。

昨夜の本部施設の経営戦略会議と銘打った幹部会での話です

平成31年4月19日

平成10年5月に事業開始した頃の話を幹部職員にしました。今は当たり前に出来ている事も色々な貴重な体験の積み重ねにより出来てきた事をしみじみと語りました。例えば、床が濡れていても「忙しい」との理由で後回しにして転倒されてから後悔したり、バイキングで刻みの食事を提供している方が普通食で提供していたロールキャベツを詰まらせ、救急搬送して貰い、その当時の外科の先生に上手に取ってもらい、最初はガーゼのハンカチのように見えたのが実はロールキャベツのキャベツでその時は事なく済んだ事に感謝してしばらくの間は我が施設のメニューからロールキャベツが消え、テーブル席の配置をしっかり検討するようになったり、お餅つきをして、小さな小さなお餅を提供するように指示してあったにもかかわらず、その当時の職員が入居者さんが食べたいといったのでと食べさせ、喉に詰まらせた事があり(この時も上手に取れました)それ以降の餅つきでは、蒸しの為に火の番をしている私が対応する職員をホールに集め、何故いけないかを話しして徹底を図っています。歴史と言うもの、伝統と言うものは貴重な体験を乗り越えて出来るものと思うと、日頃私が言っている『ご縁』を大切にして、ご縁を頂けた方とはとことんのお付き合いをしていかねばと改めて考えています。本日も朝一人残念ながら亡くなった方があり、看取りとしての対応をして、家族の方の相談に乗り、その後、私の自宅の町内の方でかつてデイサービスの運転手をして頂いた方の葬儀に顔を出し、今は新幹線の中でコラムを携帯に打ち込みながら昼食を頂いています。一人でもくもくと食べるのには少し悲しい面もありますが、その分いっぱい食べてます。多分この量は二人分だと思いますが、満たされない分を量でカバーしているとリピーターの皆さんはご理解下さい。(こんなことだから体重は一向に減らないのだとはわかっているのですが)東京では緊急理事会ですので、しっかり言うべき事は言ってきます。

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知ってましたか

平成31年4月18日

関ヶ原町議会議員選挙の火蓋がおとされて3日が経過して朝イチで家の玄関先の郵便受けを見たのですが目指すものが入ってない。目指すものとは関ヶ原町議会選挙の投票用紙です。しかしながら、投票用紙はないのです。私の奥さま「かをり様」に聞いてみると、「新聞を取りに行った時にどこかに置いたのと違うの」と、まるで私が犯人のような事まで言われたので「ここは無実であることを立証しなければいけない。」と関ヶ原町選挙管理委員会に聞いてみると「一昨日に投函したので今日には届くと思います。」との答えが返ってきたので、私は知っていたのですが敢えて「期日前投票は投票用紙がなくても大丈夫ですか」と聞くと「投票用紙なしでも大丈夫ですよ」とさらっと言われたのでその時私は「あなたにとっての常識は町民のほとんどの方は知らないと思いますよ」と言い返したかったですが、こう言う対応しか出来ない職員に指摘をしても仕方がないと思い直して、言葉を飲み込みました。そして改めて思いました。私は26歳から福祉一筋できた私の常識が福祉の事をあまり理解されていない方にとって分かりやすく話が出来ているのかと、改めて自問自答する良い機会となりました。本日は17時15分から本部施設で幹部職員による経営戦略会議が行われ、その席でも入居者さんに対して上から目線になっていないかの検証を幹部職員に促しました。20時前に戦略会議を終え、かつてデイサービスで長いこと運転手をしていただいた方の通夜には間に合いませんでしたが幹部職員と共にお参りに行き、本日はバタバタでコラムを書く時間がなかったので、午後9時52分の今、携帯でコラムを打ってます。明日は全国老施協の緊急理事会があるので東京に出張ですが、頻繁に出掛ける事が出来るのも当法人の職員が頑張っていてくれるからと改めて思いました。リピーターの皆さん頑張っている当法人の職員も誉めてやって下さい。そして、アップが午後9時57分になったことについてもお詫びします。

いちご大福のルーツ

平成31年4月17日

NHKの今朝の情報番組で34年前に「いちご大福」が誕生したルーツについて報道していた。その番組の中では東京都新宿区住吉町の「大角玉屋」が発案者として紹介されていたが、改めてインターネットで検索してみると『元祖』を名乗るお店は、その他にも東京都板橋区「一不二」、群馬県前橋市「金内屋」、三重県津市「とらや本家」三重県伊賀市「欣榮堂」、滋賀県大津市「松田常磐堂」など多数存在するが、昭和後期になって登場した新しい商品である事は間違いないとの事です。いちご大福の製造法の特許を保有しているのは「大角玉屋」であると言う事からNHKでの紹介では「大角玉屋」が一番と言っているように思いました。但し、番組の中で私自身が印象に残ったのは、いちご大福を発案するまでは、和菓子がなかなか売れずにアイスクリームや駄菓子を販売して何とかお店を維持していたと言う事といちご大福の評判を聞きつけて同業者がバス3台で見学に訪れたとの件でした。そしてつくづく感じたのは、売り上げが伸びずに困っている時に打開策として『あずき』と『いちご』の一見ミスマッチのような組み合わせで取り組まれたのが昭和の終わりと言うのも意味深いものを感じましたし、苦肉の策からの新発想には古い概念を打ち破ろうとした、平成の世の前夜との意味にもとれる考え方は少し強引過ぎますか。その意味から言えば平成から令和に変わる今の時期だからこそ出来る、安部総理になり代わった言い方で言えば「イノベーション」と言うことでしょうか。この発想は、とことん困り、悩んだ末の逆転発想だと思います。そして、30年前に人気となりバスが3台も見学に来たとのお話には安堵感と共に高揚感を感じました。その発想から「ぶどう大福」「オレンジ大福」「ピーチ大福」「メロン大福」「ブルーベリー大福」「柿大福」「トマト大福」などバリエーションが広まった事を考えるといちご大福は画期的だったと言う事でこの逆転の発想は学ぶべきものが多いと思います。リピーターの皆さん私も規定概念にとらわれずこれからも頑張りますので今後とも宜しくお願いします。

 

熱い戦いが始まりました

朝7時30分に家を出て、歩いて選挙事務所まで行くと既に10人位の方が来てみえ、本部長、副本部長や候補者本人にも挨拶をして、出陣式前の最終打ち合わせをしていると、8時をまわり地元門前地区の方を中心に親戚の方、同級生の方等がおおぜい駆け付けて下さり、関ヶ原町役場に手続きに行って下さった方が持ち帰って下さるグッズを待っていたのですが、ポスター掲示場所は二番との連絡を貰ってから10分が経過し20分が経過しても、一向に役場から帰らない。待ちきれずに役場に行った方に連絡すると、まだ役場で手続きをしているとの事。選挙事務所で待っている方に申し訳ないので、司会を仰せつかっている私としては「ここは小話でもでもして、場を和らげなくては」と思ったのですが、地元の長老の方々をまえにして何を話して良いのかが分からずイライラして思わず「役場にクレームをつけなきゃ腹の虫が治まらない」とばかりに携帯で連絡して話をしだしたタイミングで役場に行っていた車が帰ってきて、ようやく出陣式が私の開会挨拶から始まりました。私は話をしながら、イライラしていたので、ドキドキする暇もなかったのは不幸中の幸いだったかと自嘲ぎみに思いました。本部長、副本部長、来賓の方と順次挨拶をして頂き、候補者本人の挨拶と順調に進行して、祝電披露を3通読むのですが、3通目の原稿が見つからず一瞬慌てましたが何故かファイルの下にあるのを見つけ事なきを得ました。祝電披露の後はだるまの目入れだったのですが、だるまが会場の一番奥にあり、だれがだるまを運び持っているのかが徹底してなくて、少しもたつきましたが、そこは臨機応変に対応が出来たので、場数を踏んでいる成果かなと自惚れています。目入れの後は頑張ろう三唱で、すべてのセレモニーが終わり閉会を宣言して、候補者を乗せた車と随行の車に乗り込んで貰い選挙事務所を選挙カーが出発して出陣式は無事に終わり熱い5日間の選挙戦がスタートしました。狭い関ヶ原町で10人が立候補されたので、出陣式後に施設に向かった時には何台もの選挙カーに出会いました。さてさて、来る21日にはどんな結果になることやら。どの候補者も悔いのないように戦い、戦いが終わったら、当選される8人の方は、それぞれに関ヶ原町民の為に汗をかいて欲しいと願うばかりです。

いよいよ関ケ原町議会議員選挙が明日から火ぶたを切ります

平成31年4月15日

定員以上に立候補者が出る様相があり、熱い選挙戦が幕を開けます。私が住んでいる今須門前地区からも一人出られる予定ですが、その候補者は中学時代までの同級生でもあり、「何らかの形で協力しなければいけない」と思っていたのですが、明日の出陣式では進行係を仰せ使ったので、本日は候補者と打ち合わせをしました。明日の出陣式にはどの程度の参加があるのかはわかりませんが、中学時代までの対人恐怖症の赤面症は克服したし、司会などの場数は沢山踏んでいるので大丈夫だと思うのですが、大丈夫と言う根拠を完全にしたのは7年程前に当時の全国老施協の中村会長から石川県金沢市で開催された森元総理大臣の400人位のパーティーに司会をする為に岐阜から出てこいと言われて、のこのこと出掛け凄い状況の中でも自分なりにやり遂げたのが凄い自信になった事を覚えています。勿論、それまでにも結婚式の司会だとか、研修会の司会だとか、学校のPTA総会の議長だとか色々やる機会があり、その都度、会が始まるまでドキドキしているのに、始まってしまうと自分で言うのも変ですが堂々と出来て・・・。そしていつも思うのですが、私の頭の後ろ辺りから応援してくれている誰かがいて上手く言っているのではないかと・・・。始まる前までドキドキするのは、間違いなく対人恐怖症の赤面症の後遺症だと思うのですが、その後遺症のためだと思うのですが、自己紹介をする場面があると、自分の番が回って来るまで頭だ真っ白で「あーでもない、こうでもない」と考えていて、マイクを持った瞬間に先ほどまで考えていたことなど一切忘れて流ちょうに(自分から言うか?)話している。これもひょっとすると私についている素晴らしい背後霊が私の口を使って話しているのではないか等と真剣に思っています。だって、かつて講演したビデオなどを見ていて「よくもまあ、こんな素敵なことを話しているな」と・・・。ここまで言うと自惚れに聞こえてしまうかな。でも、私の素直な気持ちですからお許し下さい。

 

4月13日付けの週刊現代で見つけました

『今週のへぇ~、そうなんだ』のコーナーで『現在のゴジラは初代ゴジラより2倍以上大きくなっている』と言う記事を見つけました。その記事によると一作目の『ゴジラ』は1954年に特撮ものの走りとして出来たもので、今年で65周年になるそうです。私は1953年生まれだから、ゴジラと共に生きているといっても過言ではありません。当初のゴジラの着ぐるみは実寸は2メートルしかなかったが、街並みを再現したミニチュアの中では正に大怪獣として映っていました。その当時のゴジラの設定は身長50メートルだったそうです。

その記事を見て小学4年生の頃我が家で留守番をしながらテレビを観ていて、怪獣物をやっていて、その怪獣が名古屋に出現して名古屋城を破壊して西に向かって暴れまくっているのです。(多分『マリンコング』だと思います。)私は、その迫真の暴れかたを見て、思わず外に出て東の空を見上げた事を思い出しました。

そう言えば、私の長男が保育園に通っていた頃にその当時は関ヶ原にメナードランドと言う遊園地があり、そこへ、その当時の特撮番組の『ライブマン』がやってきて、ライブマンが怪獣をやっつけるシナリオです。怪獣が手の所から煙を出した瞬間に長男が泣き出しました。そうすると近所の同級生の子が「まこちゃん。あの怪獣の中に人が入っているのに」とちゃかすんです。私はその子の事を「夢のない奴やな。私なんか小学生の時でも信じていたのに」と思ったものです。

いつもの事ながら話題からそれましたので、戻ります。ゴジラは15作目の『メガゴジラの逆襲』までは50メートルだったのが16作目で80メートルになり、1990年代には100メートルを超える設定に変えられたそうです。何故、ゴジラをそこまで大きくなる必要があったのか。その理由は、ゴジラが映画の中で『実在する街』を破壊してきたから。その頃の建築基準法により建物の高さは31メートル以下に制限されていたから50メートルのゴジラは東京のどの建物より大きかったわけです。しかしながら、建築基準法が改正されて、1968年には高さ147メートルの霞が関ビルが出来、その後も超高層ビルがどんどん建って50メートルのゴジラでは迫真の映画にはならなくなったと言うのが大きくなったと言うことです。

巨人、大鵬、玉子焼き

平成31年4月13日

私は昭和28年生まれなので(来月16日で66歳です。)文字通り、高度経済成長時代の申し子のようなに育ちました。そして、その頃の少年は『巨人、大鵬、玉子焼き』と揶揄された時代です。私は少年時代、絵に描いたような素直な世間知らずだったので、『巨人、大鵬、玉子焼き』に何の疑問も抱かず巨人の帽子をかぶり大鵬が勝つのを当然に思い、玉子焼きを喜んで食べていました。小学時代の同級生の男子は殆ど『GY』のマークが入った帽子をかぶっていたように理解してます。ところが、社会に出てから同級生に会って野球の話になると、中日ファンが殆どになっていて、大学が関西方面だったりして、阪神ファンになったりしている同級生もいましたが、逆に巨人ファンは少数派になっていて、肩身の狭い思いをしなくてはいけない状況がありました。但し、若山家は『巨人ファンでなければいけない』みたいにして、巨人ファンの筈です。(最近はそのような話をしてないので、ひょっとして裏切り者がでてるかも)本日の新聞のスポーツ欄はしっかり読みました。何故ならば巨人がヤクルトに勝って巨人が首位に浮上したからです。このような対応は巨人ファンの特性だと言われています。長嶋名誉監督の引退時の名せりふ「ジャイアンツは永遠に不滅です」の流れの中で、巨人は勝ち続けなければ満足しないのです。だから、巨人が負けたときのスポーツ欄は決して見ないのです。私が何事にもぶれずに仕事に打ち込めたのも、このように他に影響されない生き方を巨人ファンで培ったのかも知れない・・・。さて、話題はガラッと変わって本日は地方選挙の為の選挙事務所開きがあちこちであり、私は地元から2期目に挑む同級生の所へ9時に、かつての職員が隣の町から出るので、そちらに10時に行き参加させて頂きました。二人とも2期目の挑戦ですが、同級生は前回トップ当選だった為か、参加者は半減しているように感じました。10時からの事務所開きは活気がありました。けっして油断している訳ではないのでしょうが、ネジ巻きが必要に思いました。でも、これは私の単なる感想ですから等と他人事のように言ってしまいましたが、今後の町制にとって大切な選挙です。見守りながら是は是、非は非でジャッジしていきたいと考えています。皆さんも大切な一票をしっかり見極めて頂けたらと思っています。

本日花見の宴です

16時から花見がスタート。場所はコミュニティーハウス。コミュニティーハウスに泊まる猛者がいると聞いたので、我が家で大切にとっておいた石川県老施協会長の久藤会長から頂いた『菊姫』を家に取りに行き、猛者が楽しめるように準備しました。今は19時10分で3時間が経過したので25人は食べて帰り、後10人が参加するのですが、料理は半分以上余っています。こりゃあ、夜勤者と宿直者の6人に残った物をしっかり食べて貰わなければいけない。昔から言うでしょ「残り物には福来る?(こんな格言は絶対にないない。)でも、足らないよりは良いと思ってます。嫌な思い出なのですが、かつて勤務していたところでの事です。施設で葬儀があり職員は下働きを一生懸命にして、後方付けも終わり遅い夕食をとるためにお弁当を貰いに行くと夕食用のお弁当はなくて、「お昼のお弁当があまっていたのでそれを持っていきなさい」と言われた時には流石に絶句で夕食を食べていない職員だけで外へ食べにいきました。確かに、葬儀と言うのはばたばたになることがあり、このような不手際がないとは限りませんが、臨機応変の対応としては最悪の対応だと思います。私がそのような場面に遭遇したら「しまった。」とは一瞬思いながらも機敏にこう切り返すと思います。「ご苦労様でした。大変だったので、遅くなったけど食事を食べてきて」と責任者にお金を渡したと思います。昔から「食べ物の恨みは・・・。」と言いますが。コミュニティハウスでの花見の宴からわけのわからないものになりましたが、今、最後の団体が来ました。気持ち良いくらいに食べてくれていて、私に元気を貰いました。やっぱり、我が施設の職員が頑張って仕事してくれるのは良く食べれるからと。だとすると、中村会長の口癖だった「遠慮は三流」を連発しながらご機嫌に菊姫を飲んでいます。2019041220170901

昨日の雨が嘘のような快晴の空です

平成31年4月11日

朝施設に来て外回りを歩いていると正に春爛漫。どこを歩いても『春』『ハル』『はる』です。携帯で思わず『パチリ、パチリ』と写真を撮りました。先ずは本館北側の桜を撮り、『パチパチ』と撮り(誰ですか、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」と言ってるのは・・・。でも、確かにそうかもしれない。)足も軽やかに進めていくと本館と新館の渡り廊下から見える東屋のある公園?お庭?の桜が綺麗だったので思わず『パチリ』。平成20年11月11日が『介護の日』になったのを機に家族会が設立され、(21年3月)その記念樹としてしだれ桜を植樹したのが、ピンクの花を咲かしているのです。

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新館から戻りこいのぼりを見るとだらっと垂れ下がっていたのですが、「頑張って泳げ!」と念じて、しばらくすると風が結構吹いてきて「これぞ神風!」(そんなわけないか。いやいやそんな事ありか!。)しっかり泳いでいるのを『パチリ、パチリ』と撮りました。

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私が出かける前にコラムを完成させようと頑張ってパソコンに向かっていると新館の入居者さんが作成されている広報誌を届けて下さいました。この記事を見て「完全に負けた・・・」(このホームページの「今日の優・悠・邑」を参照して下さい。)でもこれは勝ち負けのものではないけど、この入居者さんの171号には驚かされますが、私も負けとれません。リピータの皆さん益々の声援宜しくお願いします。

 

 

 

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