平成最後の日に思うこと
平成31年4月30日
平成の30年は私の人生にとっても意味深いものがあります。昭和の最後の年に資生堂財団による海外研修団の第15期生としてアメリカへ行かせて貰い、アメリカで行われていることが10年後に日本でも出来るのではないかとの大いなる勘違いにより、平成の世になってからは、児童施設の職員としての生き方より児童の個別指導で頑張ってみたい(施設職員になりたい者は一杯いるが、個別指導に活路を見出だす者は私しかいないと言う大いなる勘違い)との気持ちが強くなり、その方向でうごめきたいと考えながら2年後に児童施設の指導員を辞めようと、当時勤務していた法人の経営者に決意のほどを話したところ、今正に指導している子供達に迷惑をかけてでも辞めるのかと言われ、新しく採用して貰った指導員に2年掛けて引き継ぎをして、退職をさせてもらったのが、平成4年でその後は大学、短大、専門学校で非常勤講師を週13コマしながら、家庭教師もして、私がしたかった反社会、非社会の個別指導や不登校の親の相談にのったりして、2年間は個別指導に生き甲斐ややりがいをみつけていたのですが、若山家の家計は火の車。つまり、今までの預金を切り崩しながらの生活で、このままの状態を続けていくには、若山家では霞でも食べていくしかない状況の中、拠点作りをしないと理想を現実には出来ないと言う現実に気付き、情緒障害児短期治療施設の建設を志し、その構想を実現すべく、施設見学や土地探しや設計への思いを語り、設計士にパーツまで準備してもらい、その当時の岐阜県児童家庭課に行くと「ここ10年は高齢者のみに予算をつける」との結論を貰い、挫折の時期を経て色々な方の助言により、高齢者施設建設に大きく方向を変えて、当時の地元の民生委員会に協力を得て、実態調査をしたり、施設見学をしたり、土地探しや地元説明会等々をしながら平成10年5月に今の本部施設の本館の事業開始に漕ぎ着け、平成16年に新館を、そして平成26年には和合の事業も開始して、今は職員が150人の規模にまでの法人になりました。平成と共に私の人生も大きく育てて貰ったと言っても過言ではないと平成最後の日につくづく思っています。さてさて、令和の時代になり私も法人もどのような展開になるのか。但し、物語は自分自身が切り開くもの。勿論色々な方のご支援、ご協力無しには成り立ちません。平成から令和の時代になっても変わらず宜しくお願いします。