理事長コラム

1979年の国際児童年から始まった『ふれあい広場』

私が徳山村の居候生活(勘当生活、飲めや歌えの生活等色々な言い方がありますが。)を終え児童養護施設の指導員になったのは、1979年の9月で、勤めだした当初は『家庭教師』のような扱いだったのに、9月半ばになると、『ふれあい広場』の準備の渦中に巻き込まれ、午前10時には施設に来て、保母さんの協力を得て看板作りを毎日毎日していました。また、子ども達が作成した手作りのポスターを公共の掲示板に貼ることも大切な仕事で部活を引退した中学3年の男子を同乗させてポスターを貼りに行くのですが、最初の年は何処に公共の掲示板があるのかもわからなくて苦労しました。限られた予算の中での実施なので招待状は私の私物の年賀状を刷る時の『プリントごっこ』(懐かしい響きがあるなあ)で一枚一枚印刷してハサミで形を作って完成させたものです。大きなイベント企画は経営者の方がいろんなコネクションを駆使して立てられました。例えば、『ミニSLコーナー』『小動物園コーナー』『人形劇コーナー』です。また、『110番・119番コーナー』は警察や消防署にお願いに行き打ち合わせするのは私の担当でした。それから、『即売コーナー』の不用品を連絡を頂くと集めに行くのも私の係りでした。『模擬店コーナー』は卒業生の中に板前さんがいて、その方の指示で美味しいと好評のうどんや焼きそばを販売しました。(ちなみに、うどんや焼きそばは40年前から100円です。だからですかね、優・悠・邑の夏祭りの模擬店も100円です。)何人参加者が集まるかわからない中で、第1回は小学校区の規模で開催したのですが1500人の参加があったのには感動しました。2回目は旧穂積町全域に拡げた結果3000人が参加して下さったのですが、準備が大変だし協力をして頂く方も毎年は大変だからと2回実施した段階で一旦実施しないことに決まったのですが、盛大なイベントだと言う事とNHKが資金援助をして下さる事になり、3回目も開催され、今も続いてます。不思議なものです。何かをやり遂げる時には不思議な力が働くと言う事を。但し、基本的には一生懸命に行おうとするものに対しての後押しがあると言う事です。私が主体的に担ったのは13回なのですが、準備に対して主体的に関わっていて、何が何処にあるかをわかるのが私以外にいなくて大会が始まると本部席から「若山さん」と大会終了の15時30分まで呼ばれては走り回るばかりでした。今から考えるともっとみんなにわかるようにしておくべきだったと思うのですが多分今でも、同じやり方なんでしょうね。だって、夏祭り等の時は走り回っていますから。いやいや、近年は来賓対応をするばかりで職員が頑張って実施してくれてるか。とにかく、私のイベント好きは児童養護施設の時に培われたんだと思います。リピーターの皆さんこんな生き方しか出来ない私をどう思われますか。