理事長コラム

生母秋江さんが優しくしてくれるのは当たり前だと思っていた私なのです

朝のお参りで若山家のお墓で般若心経を唱えている時に、母秋江さんの事を想い出している時の事です。「一杯いっぱい私の為に色んな事をしてくれていたはずなのに、母秋江さんに怒られて泣いた記憶ばかりが浮かんでくるのは、どうしてなのか」と思ったのです。とは言え、母に怒られて泣いた記憶は2度だけなのですが。

一度は、昔の事ですから火鉢で向かい合う形で私が国語の本読みを聞いて貰っている時に、上手く本読みが出来なくて、苛々している母秋江さんの様子を見ていて涙が出てきたのと(この状況は何度もあったのだと思いますが。)、もう一度は私が中学1年生の時に、卓球のラケットを友達から譲り受ける為に学校にお金を持っていって、気が大きくなったのか何人かの同級生とバスに乗って、当時の郡大会の試合を応援に行って帰りが遅くなり、我が家が大騒ぎになり、隣のおばさんが車で関ヶ原駅まで迎えに来て下さり、車の中でおばさんから「あきちゃんがめちゃくちゃ心配していたので、ちゃんと謝りなさいね」と言われただけで、涙を一杯目に貯める様な中学生だったのですが、母秋江は心配して心配して心配していて、ほっとした反動だったと今の私は理解出来るのですが、機関銃の如く言葉が飛んできて、泣きじゃくる私にもこの時ばかりは感情が抑えられなかった様に怒られました。(その時に、毅然と私をかばってくれたのは長女光子さんでした。)

母秋江さんの3人の子どもの中で『特別待遇』であった一つの現象としては、60年以上前、1個10円していた卵を、姉2人は1個を分け合っていて、一番小さい私だけが1個食べれたと言う事からも大切にされていた事が読み取れます。母秋江さんの思いの中には「宏は体が弱いので、丈夫な体になる為にはその様にしなければ」と思っていたと思うのですが、食べ盛りの姉二人にしてみたら、きっと面白くなかったと思います。

コラムを書きながら『当たり前が当たり前で無い事』に気が付きました。例えば、私が熱を出した時には、私の好きな食べものを用意してくれたり、霜焼けで手も足もボンボンに腫れている時に、家に帰るとごぼう等のとぎ汁と冷たい水が洗面器に入って待っていてくれたりと言う事で、随分手間をかけたのにそれを当たり前だと思っていた私は『田舎のバカボン』だったなと、自戒を込めて思っています。母秋江さんとは13年と短い期間でしかなかったですが、密度の濃い13年だったと今になって思っています。