理事長コラム

母親代わりだった姉光ちゃんが急逝した日です

令和8年4月7日

高校2年生の新学期が始まった4月7日は姉光子が急逝した日です。56年も前の話しなのですが私にとっては忘れられない日であります。そこで姉光子の事を走馬灯の様に思い出されていることを時系列など関係なく今日のコラムで書かせて頂きます。

姉光子は私にとって6歳上の頼れる姉でした。と言うよりは私が小学4年の頃から生母秋江は末期癌で入退院を繰り返し(既にこのコラムで何度か書いています)私が中学1年の1月16日に亡くなっているのですが、姉光子は私が小学4年の頃から文字通り『母親代わり』だったと思います。僅か6歳年上だったのですが「頼りになり、甘えられる存在」だったと思います。

以前に書いた私が中学1年の夏の中体連の応援に行き母秋江さんのめっちゃ心配を掛けて怒られて多分感情が高ぶってだと今に思えば理解出来る事ですが母秋江さんが「いけない事する子はご飯を食べなくていい。」と言った時に姉光子が毅然と「悪いことした事を反省しているのにご飯を食べなくてもいいと言うのは間違っている。」と言ってくれて両親共に冷静になれたので、ご飯を泣きながら食べた事を今でもはっきりと覚えています。

姉光子さんが中学生の時にはバレーボール部に所属していてそれ程背が高くなかったのですが前衛のポジションでガッツあるプレイをしている姿を何度か運動場で見ていて「お姉ちゃんは凄い」と思ったものでした。姉光子は私が高校1年の10月に22歳で関ヶ原町職員同士で結婚したのですが結婚する前に結婚する相手の方の事を「股下90cmで180cmで格好良いし優しいの」と何度も嬉しそうに話してくれました。

そんな姉が新婚生活真っ最中の最高に楽しいはずの半年後に23歳と言うこれからと言う4月7日に急逝したのは悔しくて仕方が有りません。亡くなる前前日には入院先の岐阜大学病院に一人で見舞いに行った時には「頑張って良くなるから気を付けて帰りなさいね」と本当は大変な状態の中で行ってくれた言葉は今も耳に残っています。

見舞いに行った翌日は春休み最後の日で家に一人でいたのですは従姉弟から電話がかかってきて「宏君、何で家にいるの」と言われたので「春休みで一人留守番している」と言うと「光ちゃんが亡くなったと連絡が入ったよ」と言われて頭が真っ白になったのを覚えています。

家にいてはいけないと言う事で姉光子の嫁ぎ先に行って姉が帰って来るのを待っていたのですが、なかなか帰ってこないので理由を聞くと「23歳の若さでの病気なので病院側が解剖をしたいと言われて時間がかかっている」と言われ。その頃の私は「何で死んでから切り刻まれなければいけないんだ」と腹が立ちましたが今考えると父進は「流石に教育者だった」と思っています。

つまり、「医療の進歩に寄与すべき」と考えたのだと思えるようになりました。姉光子は弟の私からみても姉御肌だったと思いますが姉光子が今も健在だったら今の私は無かったと思っています。走馬灯の様に思い出してコラムにしたことで供養になったのではと思っています。