令和2年10月10日
9時過ぎから地元の県議会議員の先生の所に新規事業の進捗状況を報告をしに行く事にしていて、昨日の内に地元の町会議員さんとは時間も合流場所も確認しておいたのですが、副施設長には伝えてなかった事を思いだし朝一で連絡することにして、携帯で番号を押し結構長くコールした後で眠そうな声で出られた対応に(その時点では完全に本人だと思っていました。)私は若干ムッとしながらも、用件である時間や集合場所を一気に話をし終えたら、相手の方が「どちらにお掛けになってみえますか」と言われて、番号を確認すると「間違っている」と気が付き慌ててお詫びをして電話を切りました。そして、副施設長にかけ直しをして、今あった事と用件を話ししてからつくづく思ったのは『思い込みとは恐ろしい』と思うと共に『間違えた相手が男性だったら直ぐに気が付くのに』とか『副施設長の声にそっくりだったから』とか、色々な自己弁護をしている自分に自分の事ながら呆れています。県議とのお約束の時間より三人とも10分以上早く着いたのですが、事務所に入って行くと私たちを待っていてくださったので、事務所内に入らせて頂き、先ずは私から経過報告と共に今後の進め方について話をさせて頂き、報告が済んだ後で、県議の先生が私の父進さんが垂井町の教育長をしていた時の話題になり、(約50年前)その当時垂井北中が新設され、通学地域の問題で父進さんが大変苦労されていたのをみていた。との話を聞き、30年前の出来事なので県議の先生はまだ若い頃の話しなのに覚えてくださっていれと言う事は父進さんの存在が余程大きな存在で、30年前に他界したのに今も私の事業を後押ししていると思うと感謝しかの言葉しか出てこないので、本日は17時30分に帰れたので、スーツを脱ぎ捨て仏壇にローソクと線香に火をつけてウォーキングマシンに乗り30分間『正信偈』と『四国遍路でのお経』を唱えると共に四人の写真を見ながら法名を遮二無二唱えました。特に本日は至心院釈善進(父進さんの法名です。)を繰り返し唱えて父進さんに感謝と畏怖を表しました。しかしながら、しみじみ思うに約50年前の父進さんの事が話題になったのは単に私が父進の息子だから県議さんが話題にしたとしても、50年前の事を覚えて頂いているからであればこそ。と考えると余程のインパクトな出来事でなければ、話題にすらならなかったと思うと父進さんは素晴らしい人格者だったのだと思います。そこで私は考えました。私がこれから50年後に『素晴らしい人だった』と言われる人物でいられるのかと。こればっかは、バックツーザフューチャーのタイムマシンがないと・・・。50年後に語られる存在になるにはこれからも頑張らなくては・・・。今、二十歳位のリピーターの皆さん。50年後に宏君が誉められるように頑張りますので、語って下さいね。