令和元年10月19日
10月9日に母秋江さんの事について書いた時に「フィーバーフィーバー秋江さん」の奇想天外な事について書きますとお約束した事について本日、書くことにします。
私は小さい頃病弱だったのですがラッキーな事にその当時には『今須診療所』と言うのがあり、本多先生と言う女医さんがみえて、若山家の縁の下には酸素ボンベが置いてあるような事もありました。多分私は本多先生が今須に常駐されていたお陰で今があると言っても過言ではありません。そんな大切な本多先生なのに母秋江さんは息子の診察を丁寧に診て貰えなかったのが納得いかなかった時があり、診療所まで怒鳴り込み本多先生が我が家に見舞いの品を持ち謝りにみえた時には私も子どもながら驚きました。
病気がちだった私も何とか小学校に入学して5月に遠足があり母秋江さんは、虚弱な私が遠足に参加するのが心配だったのだと思います。ここで私の母秋江さんのフィーバーは、親しくしている同級生のお母さんを伴いその当時の事ですから(60年前)歩いてる一団の後ろをリヤカーを引きついてきたのです。その時の母秋江さんの論法は「我が息子の宏は全部歩く事が出来ないと思うのでいつでも乗れるようにしよう。但し、他にもえらい子は乗せるのだから文句ないでしょ。」と言うことだったと思います。この行動力は今須の生え抜きの娘だったからこそのものだと思います。このような事は後にも先にもこの一回だけですから。
そして、冬のシーズンになりまたまたフィーバーを起こしました。それは、前回のコラムで書いたように私の手足は冬のシーズンは霜焼けで大変なのですが、その当時の学校はコークス(石炭を再利用したもの)のダルマストーブで、その当時は安全策がしてなかった事に目をつけた母秋江さんは小学校の全学年分(6個分)の金網の柵を寄付する事をその当時の校長先生の所に行き話しすると共に交換条件を飲ませたのです。その条件とは①虚弱な息子である宏をストーブの一番近い席にする事。②豆炭アンカに足を突っ込める袋を作成し学校に持参しても良い事③霜焼けで靴も履けない状態になったら姉光子(その当時中学1年生)におんぶされて学校に行く事を許可する。と言うとんでもない条件だったのですが、母秋江さんの勢いに押されたのか全ての許可がでたのです。今だったら考えられないような事ですが息子を思う親心で叶ってしまいました。
その当時の私はそんな状況にも何の疑問も持たない軟弱な子だったのです。但し、ストーブの真ん前の席で足元には豆炭アンカがあり、授業中は『熱くて熱くて』先生の話は全く耳に入らず「早く授業が終わらないか」とばかり考えていました。また、姉光子さんにおんぶして貰うのを「楽ちん楽ちん」と思ったのは3日間位で、痛い足に我慢して靴を履き滅茶苦茶時間を掛けて学校に行った記憶があります。こんな母秋江さんは私が小学3年の頃子宮癌がみつかり、不思議な事に「もう駄目だ」と言う状況になると胃癌、肺癌、最後は骨癌となり、その当時の事ですから痛み止めはモルヒネしかなく錯乱状態になる事もありましたが、私が中学1年の1月2日の日には遺言のようにしっかりと「宏は長男だからお父ちゃんを支えなあかんし、これからは一杯種蒔きをしなさい。」と言ってくれました。私の自己本位的な考え方で言うなら、私にこの言葉を言う為に癌の転移を繰り返し痛みの中、モルヒネで頭が錯乱してでも生きてくれていたのかと考えると、母秋江の思いは半端ないと思っています。
リピーターの皆さん。私は今生かされていることに感謝して母秋江が生きれなかった分も生きて頑張りますので今後とも宜しくお願いいます。