かつてのこのコラムで紹介しましたが、我が村『今須宿』は江戸時代は中仙道の美濃街道にある宿場✳13宿場町✳の中で岐阜城の麓にある『加納宿』についで人口が多かったとの事です。ようく考えてみると我が家があるのは旧中仙道添いにあるのですが多分江戸時代には、当然の事ながら当時の絶対的権力者は江戸幕府なので街道は江戸が起点ですから『関ヶ原宿』から『今須宿』に入った所が『門前』で本陣や脇本陣があった所が『中町』であり中町を越えた所が『西町』で宿場の終わりが『門間』と言う分かりやすい地名が今に至っているのです。ちなみに我が家は宿場の入り口に当たる『門前』にあるのです。と言う事は世が世なら我が家の生業(なりわい)は『お茶屋』か『旅籠屋』と言う事なのでしょうか。(✳ここでインターネット情報を検索して私の思い込みが発覚しましたので・・・)冒頭で『13宿』と書きましたか『16宿』だと気が付きました。一体『13宿』はどこから出てきた数値かわかりませんがずっとそのように記憶してました。「思い込みとは恐ろしいものです。」と居直ってます・・・。今須宿の記事を紹介します。《妙応寺の門前町として栄えた『今須宿』は、美濃路最後の宿場町。宿場の長さは1189メートルあり、『加納宿』、『関ヶ原宿』に続く大きさを誇った。宿の規模に比べて旅籠は13軒と少なかったが、問屋場が7軒あり、商業地として相当な賑わいを見せていた。現在の宿場町は、静かな山間の里といった風情で、問屋場家屋として現存する山崎家の古民家に往時の繁栄ぶりを垣間見ることができる。》この記事からわかるのは宿場としての長さは関ヶ原宿に次いで3番目だけれども、商業が発達していたので人口は2番目と言うのは興味を引くところです。また、別の記事では《今須宿から滋賀県境・・・中仙道美濃路の最西端の区間です。「車返しの坂」や「寝物語の碑」など数々の伝説が残っています。》等との記載に色んな事を思ったので以下に述べます。先ず特筆すべきは『今須宿が商業地として栄えていたと言うのは考えられない事ですが事実なのでしょう。次に気が付いたのは『静かな山間の里と言った風情』と書いてあり「ものは言い様だな」と感心してしまいました。そしてだめ押しで思ったのは、その時代、時代のリーダーによって栄えたり、衰えたりするのだと言う事です。私も社会福祉法人杉和会の理事長として舵取りを間違えないようにしていかなければいけないと改めて思いました。ただし、盲養護老人ホームの経営は今は厳しいものがありますが、今の厳しさを切り抜けて10年後、20年後の評価を待ちたいと考えているのですがリピーターの皆さんはどのように思われているのか知りたいです。
理事長コラム