理事長コラム

父進さんの事を改めて書きます

令和7年4月21日

父進さんは明治最後の年である明治45年4月生まれで、生まれつき視力が悪かった為に兵隊に行ったのがとことん日本の状況が厳しくなってからの出兵だったので30歳を過ぎてからで終戦時にはロシアのシベリアに抑留されたとの事で日本に帰り着いたのは結構遅かったと聞いています。(ロシア兵は腕時計のゼンマイを巻く事を知らなくて、時計が止まると捨ててしまうので捨てられたのを拾って再び使ったなどの話を面白く話してくれましたが本当は大変な状況だったと思います。)戦前の教育を受けている父進さんは師範学校に通う為の学費を朝早くの新聞配達をして卒業したと言う事でとても苦労と共に非常な努力家だったと聞いています。

父進さんは戦地から実家のある垂井町に戻って早々に母秋江さんを石垣の陰から見て母秋江さんに一目ぼれをして若山春吉じいさんの末娘の養子になり、3人の子宝に恵まれ(私は末っ子の長男です。)私が小学生の時には加茂郡七宗町の小学校の校長に赴任していました。父進さんは戦地から帰って来て直ぐに岐阜市にある加納小学校に赴任していて、その時代に岐阜県教育委員会の幹部の方々とのネットワークを構築した事を父進さんから聞いた話から推測しています。

教員生活最後は自分が卒業したその当時不破郡の中では一番規模が大きかった垂井小学校の校長で退職しました。私の聞くところによると「部下の先生を大切にしていた。」と言う事で、父進の一文字を冠にした『垂進会』と言う親睦会は父進が他界するまで続いていたと理解しています。校長を退職してからは垂井町の教育長を長く勤め、その職を辞してからは関ケ原町歴史民俗資料館の設立に尽力して事業開始と共に初代館長を勤め、館長を辞めてからもアドバイザーのような立場でいて、80歳になった6月に入院するまで(その年の8月12日に逝去)虫食いの本を時間があると読んでいたように記憶しています。

私はまったく古文書に興味が無く「何が面白いの」と聞いた時に「虫食いで分からない文字を推理するのが楽しい」と言うような父でした。息子である私からみても「温厚な努力家」と言う方だったと思います。今となっては「温厚は努力家の爪の垢を飲むことが出来ませんが、父進さんのDNAを受けついでいない自分である事が悔やまれます。」「孝行したいときに親は無し」とは良く言い当てた言葉ですが、何ともならない息子を黙って見守っていてくれたからこそ今の私があると思うと、父に出来なかった恩返しを入居者さん頑張ってしていきたいと思っています。