2025年04月の記事一覧

令和7年度の辞令交付式は出来ませんでした。

令和7年4月10日

「どうして」と言われるリピーターの方の為に、その理由を先ずはお答えする事から初めていきます。

一つには、新卒者の確保が出来なかったと言う事。二つには「職員の離職が無くて落ち着いている」と言う事です。

一つ目の理由はわかるのですが、『新しい息吹を入れる』と言う意味では、新卒者が一人もいないのは今後の展開においてもだめな事だと考えられるので、今後は高校、専門学校、短大、大学への就職依頼の対応をより充実させなければいけないと、社会福祉法人杉和会理事長として思っています。但し、新卒者を採用するにしても、専門学校、短大、大学で介護を学ぶ学生の内、半数以上が留学生と言うところも多く、『新卒で意欲ある日本人』を確保するのはかなり難しくなっているのが現実です。

考え方によっては『優秀な外国人』を確保していく事に注力することも大切だと考えています。実際に10年以上前にEPAでインドネシアから来た職員は、結婚をして2人の子育てもしながら、フロアの責任者として主任として頑張っています。また、留学生として短大を卒業して、介護福祉士としての経験によって同じく主任に任命されている職員が、男女一人ずついます。その他にも、ベトナムから来て特定技能介護を取得をして3年の経験で、介護福祉士の取得をして、これまた主任として頑張っている男子職員もいます。多くの外国人が一生懸命に頑張っている現状もあり「日本人だから良い」と言う事ではなくて「如何に人材を確保して育てていき、長く勤めて貰う仕組み作りをしていく事こそ、肝要だと考えています。

また、話題は変わりますが、『業務の省力化』を推進するために『ロボット・ICT』を導入して時間に余裕が出来た分を『寄り添いケアの充実』に当てる事によって、職員一人ひとりのモチベーションとスキルを上げていく事が、離職率の低下に繋がるとも考えています。人材確保と育成に注力をして、より良い施設運営に努めていきますので、リピーターの皆さん、社会福祉法人杉和会の展開にもご理解頂けると嬉しいです。

『能登半島地震復興フォーラム』の詳細について

令和7年4月9日

2部構成で、1部は『老施協DWAT活動レポート・・・老施協DWATが心に刻んだ震災の傷跡』と言うテーマで災害派遣に参加された方からの報告を2人の方にして頂きました。

最初に発表されたのは、愛知県で早々に派遣に参加されたリーダーの方からの発表でした。話の中で写真や動画も映しながらの発表でした。最初には「本来であれば5時間で行ける所を、倍の10時間かかった。」との話をされながら大変な状況である事の写真が提示された時と、震災直後の残って頑張られている職員さんの勤務表の一覧を見た時には、思わず絶句しました。また、話の中で「何とか応援施設に着いて説明を聞いている時に、施設の職員さんから『あんたらは3、4日ここにいたら帰るんだよね。慣れたころに帰られたら迷惑や』と言われたのはびっくりしましたが、心情を考えたらその様に言われる気持ちが理解出来ましたし、一緒にお世話している中で「酷い事言って悪かったね。」と言われた。」との話を聞いて、「施設側の指示で何かと行うと言うのでは、派遣先に申し訳ないんだ。」と私も思いました。「つまり、自ら入居者さんに寄り添える方が求められているのだ。」とも思いました。

2人目の発表は、3施設で4回に渡って参加された方の話を聞きました。この方は揺るぎない考え方を持って参加された事が話の端々で分かりました。この2人のかたの発表は、いずれ岐阜県の職員さんにも聞かせたいと思いました。

第2部のシンポジウムは、受け入れ側の施設長、発表された愛知県の施設長さん、派遣の差配をして下さった福井県老施協の副会長さん、二次避難受け入れ対応をされた名古屋老施協の会長さん、の4人でした。それぞれに思い入れがあり参考になることが多くありました。実際に震災に直面された施設長さんの話で、「体験した事のない揺れに何も出来なかった。」との話には「だからこそ、震災が起きる前の準備をしっかりしておかなければいけない。」と思った次第です。二次避難受け入れについても「色んな所との連携を平時の内にしておかなければいけない。」との思いと「震災があったとしても遠く離れたところでの生活は難しい。と言う報告を聞いて、ハード面の対応と共にソフト面での充実が大切だ」と思いました。

休憩なしの3時間の企画でしたが、参加されていた方は一人も席を離れる事が無く、切実な課題に対して真剣に聞かれていたことが分かり、今回の企画をして頂いた愛知県老施協太田会長に敬意を送りたいと思った次第です。末尾になりましたがフォーラムの最後に6県1市の会長により、能登半島地震の経験を基に協定書の更新をした締結が行われました。

金沢で泊まり午前9時から災害フォーラムが12時過ぎまで休憩無しでありました。

令和7年4月8日

昨夜は18時から交流会が行われ2次会設定が無かったので岐阜県の役員5人で、ホテル近くの居酒屋に行き冷酒をしっかり飲みました。但し、22時30分にはホテルの部屋に戻りお風呂にも入らず爆睡をして6時に目を覚ましお風呂に2回も入り体をシャキッとさせて荷物の整理をして、朝食を食べてチェックアウトを一階フロントでしてから5階のフォーラム会場に行き、色んな方にご挨拶をして、皆さんが集まられていたので、9時5分前から、当番県の太田会長の許可を得て全国介護福祉政治連盟のこの夏に行われる参議院選挙についてのお願いをさせて頂きました。

定刻の9時になり能登半島地震復興フォーラムの開催のアナウンスがあり、最初に震災時にDWATの派遣に行った方2人から話しを聞きながら映像や動画を見て改めて大変だった現状を理解すると共に共助の大切さを実感しました。岐阜県老施協としても震災後の1月22日から要請に応えて派遣を実施してきましたので隊員として大変な苦労をかけた事を改めて理解しました。

2人の発表後、被災地の施設長さんで石川県老施協紙谷副会長、派遣の采配を振って下さった福井県老施協の屋敷副会長さん、2次避難所の対応して下さった名古屋市老施協の尾関会長さんの話しを聞いて、これから各施設ですべき事が山程ある事に気付く事が出来ました。

フォーラムの最後に東海北陸ブロックの会長が新たな災害協定にサインをして最後に被災した施設である石川県老施協紙谷副会長から熱いお礼の言葉を言われて終了しました。今回の企画は素晴らしいものだったと思いなが北陸新幹線の車中でコラムの原稿を打ちました。明日から杉和会の理事長として、岐阜県老施協会長として災害に対する対応の充実をしたいと考えています。

昨日から本日午前中の出来事

令和7年4月7日

本日、全国老施協東海北陸ブロック正副会長会議が金沢で開催される為に和合での業務を終えて大垣駅で切符を手に入れようと大垣駅北の駐車場に車を停め切符売り場に向い異常な人の多さに驚きながらも切符売り場を目指したのですが売り場の前の行列が凄いのに驚きながらも長蛇の列に並んだつもりで大人しく待っていると駅員さんに声を掛けられました。何を声掛けられるのか不思議に思いながら話しを聞くと駅員さんは私が並んでいる後方に手をやりながらまだ、後ろがある事を示されたので私は思わず絶句をした後「こんなの嫌だからと帰る。」と言ってそそくさと駐車場に戻り垂井駅を目指しました。垂井駅に着いてエスカレーターで2階に行き切符売り場に行くと売り場はシャッターが閉まっている状態でまたまた「絶句」。

昨日に切符を手に入れるのは諦めて本部施設に行き、先程の経過を事務所で話しすると吉田副施設長が「毎年新学期前は新規に定期券を購入する方で混雑するのです。しかも新規購入は大垣駅しか購入出来ないのです。」との情報に「JRとは言えサービス業なのに毎年がそうだと言うのであれば対応を考えなければいけない。」と思うと共に「新入生の定期券購入だと言うのにそれらしき若者が殆どいないと言うのは子どもの代わりに親さんが来ているという事か」と言う事で複雑な思いになる私は「やっぱり、バリバリの昭和おじさんなんだ」とも思いました。

さて、昨日は購入できなかった米原から金沢までの切符は本日8時からの和合対応を終えて米原出発が13時前と言う事で大垣駅での購入を再チャレンジしました。昨日と同様に北口の駐車場に車を停めて売り場に行くと3人程待っていましたが、2人の係員の方が対応されていたのでそれ程の時間もかからず対応して頂けました。

切符を渡して頂くときに「昨日は挫折しました。」といらぬことを言ったのですが係りの方が「大変申し訳ありませんでした。」と丁寧に答えて頂いた事の怒りは収まりました。しかしながら昨日の状況を考えた時、駅に直結した駐車場は30分以内が無料なので私は直ぐに諦めたので無料でしたがあの長蛇の列で待っての対応でようやく駐車場に行き出庫しようとおもったら料金がかかっているのにイラつきを覚えるのは私だけなのでしょうか。

そんな事を考えている時にETCのトラブルの事が頭に浮かびました。だって、長蛇の車の列で待たされた上に後から料金の請求が来るのをリピーターの皆さんはどう思われますか。現代人はその様な事に動じなくなったのでしょうか。これだけ、権利主張がされる時代なのに。この発想こそ『昭和おじさん』なのでしょうか。

朝、和合の駐車場で車を降りたら・・・。

耳を澄まさなくても鶯の鳴き声が聞こえてきました。それも鳴き続けていたので、しばらくその場に立ち留まって聞いていました。その時に事務所の職員が銀行に行く為に外に出て来たので鶯の鳴き声について声掛けたのですが急いでいる為か反応が今一だったのです。事務所に入って改めて鶯の話をすると「私も鶯の鳴き声を聞きましたが施設で鳴いているのは初めてです。」と言うので私は「だとすると吉兆だな。」と思った次第です。

本部施設では毎年春先になるとぎこちない鳴き方から段々上手になるのを楽しみにしていたのですがまだ鳴いていません。それは当然ですね。だって大垣市内では桜の花が満開に咲いているのに本部施設がある今須では蕾が固いような状態ですから「本部施設での鶯の鳴き声はまだまだだろうな」と思っています。

銀行から帰って来た職員にもう一度、鶯の鳴き声について聞いてみると「そう言えば鳴いていましたね」との反応でしたので改めて「人それぞれだ」と思うと同時に「人の事は言えないぞ。私だってそういう事に興味を持つようになったのは最近だから話題を強制すべきではないな」と思った次第です。『風流』と言う文化が日本から無くならないようにしていきたいと思っています。

最近の方の中には「花火の音がうるさい。」とか「運動会の練習は静かに出来ないか」等と言う方もあるように聞いていますが『風流』とか『風情』が無くなってしまって『無味無臭の世界』が良いと思っている人はいないと思うし、『お互い様の世界』でないといけない事も多くあるのが世の中だと思います。

『少しでも良かったなと思えることに幸せを感じる人でいたい。』と思う様になっている私がいるのですがリピーターの皆さんはこんな私をどの様に評価して頂けますか。

シャーミャーの違いはデカイです。

令和7年4月5日

何度かこのコラムに登場している我が家の猫の話しです。三毛猫のマルは食事の時はのそのそと歩いて来て食べ終わると寝ている姿しか見たことが無いのですが、もう一匹の真っ白な猫のおもちは機敏に動く活動的な猫で私の奥様かをりさんにはめっちゃめっちゃ甘えるのですが私がお酒を飲んで帰ってきた時に歯を剥いて威嚇した時に大きな声で徹底的に追いかけてからは私の顔を見ると歯を剥いて威嚇するので日課となっていました。

しかしながら、いつまでもこの状態では飼い猫としては居心地が悪いだろうけど、猫の方から歩み寄る事は無いと良識のある私は一代決心をして威嚇されても優しい声掛けに努めた結果撫でる事に成功した時には可愛いなと思った次第です。

そして今朝の出来事なのですが、私がお参りの為に5時30分過ぎに部屋を出ようとすると私を待っているようにしていたので部屋を出て行くと少しずつ後退りしながら猫部屋に入って行ったので部屋を覗くと座った状態でいたのでおはようと声を掛けるとミャーと鳴いて甘える様に喉をならすので可愛いいなと思い朝から嬉しい気分になりました。

その時思ったのはこれが飼い猫がくれる癒やしなのだと。ところが朝食を済まして2階に上がって行った時にはマルと一緒に寝ていたのに声を掛けるとシャーと歯を剥いて威嚇したのですが、ここは認認と声を掛けて頭を撫でようとしても大人しかったので、うん成長したなと思いつつ頭を撫でる事が出来ました。

うん、待てよ。成長したのはおもちでは私なのかもと思いましたが癒やされるなら良いのかと変に納得している私がいます。こんな私ですがリピーターの皆さんこれからも宜しくお願い致します。

気が付いたら杖を着かずに歩いていました。

令和7年4月4日

朝のお墓参りを再開して4日目で、歩くのが当然の様に足が動いているので、歩きながら考え事をしていて「ふと」気が付くと、橋の上を歩いて「はっ」として私の状態を確認すると、「橋に杖がつかないように、杖の真ん中辺りを右手で持っている。」と言う事を理解しました。リピーターの皆さんの中には「何のこっちゃ」と思われる方が殆どだと思いますので、その理由を次に書きます。

私が初めて金剛杖を手にしたのは、高校2年生の夏休み期間中に四国八十八か所の土用団参に参加した時です。その時に教えて貰った事の一つが、「橋の上では杖をつかない。」と言う事でした。その訳は「弘法大師は今も修行の旅をされていて、夜露を避ける為に橋の下で寝てみえる可能性があり、橋の上で杖をつくと言う事は、杖で弘法大師を叩く様な事になるから。」と教えて頂きました。初めての参加の時は「つい、うっかり」と言う事で、何度も教えて貰う事がありました。初めての参加の時は1週間の工程で阿波一国の1番さんから23番までだったので、流石の私も最終日には橋の上ではつかなくなりました。それ以降は26歳までは、毎年春と夏の団参には参加していましたし、大学3年生の時には、滋賀信行会の内藤現会長と共に先達もさせて頂いたりしたので「橋の上ではつかない」は自然に出来る様になっていたと言う事が言いたかっただけの事だったのです。

そんな事を書いていて「ふと」思ったのは『私の当たり前が、全ての方の当たり前ではない』と言う事にも気が付きました。但し、「正しい事は教えていかなければ」と言う気持ちは変わりません。と言う事で『お節介』と言われてでも言い続ける私は『バリバリの昭和おじさん』であることも改めて自覚した次第です。リピーターの皆さん。「若山は面倒臭い奴」と思わずになが~~~いお付き合いを改めて宜しくお願い致します。

介護報酬改定は3年に1度なのですが・・・。

昨年(令和6年)4月に3年に1度の介護報酬改定が実施されたのですが、この1年の間に色んな状況が変わっていて対応に苦慮しています。

具体的にはこの4月からも色んなものが値上げされています。特に「令和の米騒動」と言われて政府が備蓄米の拠出を実行したものの米の値下がりにはあまり貢献出来ていません。

当法人は米については地元の農家さんとの契約をしているので2倍近い値上がり等と言う事は無く、美味しい米を安価に提供して頂いているのでそれ程の影響は受けていませんが、電気、ガスは勿論の事ですが食料品も軒並み値上がりしていますし、人件費については大手企業が軒並み大きく基本給の見直しをしています。しかしながら、当法人では、基本給の見直しを精一杯したいと考えていても公定価格の中で思い切った対応が出来なくて他の産業との格差は開くばかりの状況です。

しかも、昨年の介護報酬改定に合わせて実施された標準価格の見直しで、『居住費』については1日あたり60円のアップがなされたにも関わらず『食費』については変わりなしと言う事で「実態に合っていない」と思い全国老施協の会議の中でも厳しく問題視しましたが、その答えの「事業所では実質上がっていない。」との事だったので「どのようにしたら上がらない結果が出るのかの実態調査をすべきだ」と言う中で前にもこのコラムで書きましたが「行事食の廃止」とか「魚の切り身が小さくなっている」と言う事がわかり、「実際には標準額をどの程度上げるべきか」の調査の結果『標準額を300円は上げなければいけない』と言う結論が出たとの報告を受けました。

確かに厨房の委託業者は値上げの申し出が相次いでいると言う事を考えたら300円と言う数字が実態に合っていると思います。

それぞれの事業所が今の介護報酬で、利用者さんにしっかりとした対応をしていくには次回2年後の介護報酬改定まで待っている事は出来ないので、気が付いた人たちでスクラムを組んで国に対して理解して貰える運動を展開して、介護の質が劣化しない様にしていかなければと考えています。

リピーターの皆さんにもご理解が得られたら幸いです。

岐阜新聞の記事から

令和7年4月2日

本日の朝刊1面に『昭和は「活気と人情」 県民、60歳以上には「古き良き時代」』との見出しを見つけ、自他ともに『昭和おじさん』の私としては興味を持って記事を読ませて頂きました。その中で【特に、昭和期を長く過ごした戦前から昭和30年代生まれ(60歳以上)の世代では、「貧乏なのに心豊かだった」「隣近所と『みそ貸してお米貸して』の付き合いがあった」など、人情にまつわるエピソードがたくさん寄せられた。人間関係が薄れつつある令和の今、濃密な関係を懐かしく思うのかもしれない。さらには「給料は現金でもらえたので給料日はみんなウキウキしていた」「新しい時代への希望があった」など、今にはない社会の活力を感じさせるコメントも並んだ。

ただ、「セクハラ当然の時代」「男尊女卑」といった当時の価値観に対する憤りも多かった。一方で、子供の頃に昭和が終わり、主に平成を生きてきた昭和50~60年代生まれの世代になると、パワハラや根性論、社畜といったネガティブな言葉も表れた。「疲れ切った大人たち」「今と違って、何も気にせず自由に発言できた時代」「昭和は熱いのがかっこいいといたが、平成以降はダサいに変わった」。

現在30~40代と働き盛りの世代でもあり、比較してしまうのかもしれない。その反面、「働けば働くほど給料が増えた良い時代」「頑張った人が認められた」「パソコンなどもない中で創り出してきたのがすごい」など右肩上がりだった社会をうらやむような声も聞かれた】この記事を読んでいく中で「うんうん」と頷いて納得する事が多くありましたが、私が職員採用時や施設の全体会等で「頑張れば頑張った様な処遇をしていく」と言っているのは『昭和おじさん』故のことなのか。

でも「当然と考えているのは古い考え方で時代にそぐわないのか」と思うと「仮に私の考え方を軌道修正していくとしたらどの様に組織を活性化していくのはむずかしいな~。」と思いつつ「昭和的な考え方で何が悪い」と思っている私がいます。「だ、か、ら、是は是、非は非でやっていく中で背中で見せていくしかないな」と思っている私です。

だからこそ私は『昭和おじさん』なんでしょうね・・・。リピーターの皆さん、こんな私をどう思われますか。

朝のお参りを再開しました

私の性格が元々『軟弱』なので、何らかの理由で歩けなかった時があり、そのまま冬のシーズンに入ってしまいズルズルとお参りが出来なくなっていたのですが、本日から令和7年度は始まると言う事で昨夜に『固い決意』をして今朝は午前5時40分のアラームで速やかに行動開始。

ところが久しぶりと言う事で一先ずリュックサックに入っているペットボトル7本に水を入れようとしたところペットボトルに水が入ったままのものが4本もあり「古い水では申し訳ない」と言う事でペットボトルの水を捨てる事から始めて7本全部に水を入れリュックサックに収めてから玄関先でウォーキングシューズを履いてから金剛杖を持って玄関を出ようと思って「いけない、お賽銭を持っていない。」と言う事で小銭をストックしている入れ物の所まで行き、1円玉1個、5円玉1個、10円玉5個、50円玉1個のお賽銭と100円玉2個(護摩木代)をズボンのポケットに入れて家を出たのが6時5分と言う事で「久しぶりだと手際が悪いな」と思いながら出発しました。

6時を過ぎているので既に明るくて歩くのには丁度良かったのですが、金剛杖を持っている右手が冷たくて「まだまだ寒いな」と思いながらも「これまた修行」と歩いて行き、妙応寺の駐車場の奥にある『幸福地蔵様』の前で「久しぶりでごめんなさい。私がお参りしないと前掛けが曲がったままですね。しっかり直させて貰ってから久しぶりに抱きつかせて下さい。」と言ってお賽銭を入れてから「南無幸福地蔵様」と言いながら抱きしめさせて貰いました。幸福地蔵様でのお参りを終えて妙応寺の本堂でお賽銭を入れて護摩木代200円もお賽銭箱に入れてから護摩木の表に『心願成就 今須門前 若山宏』と書き、裏には『令和7年度杉和会の益々の繁栄を』と書かせて頂いてから書いてある護摩木の所に収めてから、般若心経を中心にしたお経を唱え、今須稲荷、常在不滅之塔、吉川家のお墓、六地蔵様と順次お参りしていったのですが湯飲みが汚れたままであったり、六地蔵様の線香の残りを入れる器の中に入っているのが散らかっていたりと言う事でしっかり時間がかかってしまいました。

最後に若山家のお墓に行き、春分の日には花を持って行きましたが朝のお参りは久しぶりだったことを詫びると共に毎日行きますと誓ってから家に帰ってきました。再出発になった日が新年度の初日であった事で今年度には色んな意味で良い展開が待っていると確信しましたのでリピーターの皆さん、これからの杉和会の動きにも注目して頂けると嬉しいです。

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