2025年04月の記事一覧

コミュニケーションを取ると言う事

令和7年4月30日

我が家の猫の『おもち』を通して、改めて気が付いた事を書きます。過去のコラムで書いたのですが、私がお酒を飲んで機嫌よく帰って来た時に猫部屋に『おもち』がいたので「おもち君元気」と声を掛けたらいきなり歯をむいて威嚇したので、私の『いらっと』にスイッチが入ってしまい、徹底的に大きな声を出して追いかけたのです。

その日を境にして、飼い猫であり、餌の支払いをしている私に対して、声を掛けても必ず威嚇しながら逃げていく状態が続いていたので「ご主人様を何だと思っているのだ」と思っていたのですが、良く考えてみると折角少し仲良くなってきて、猫が大好きな『チュール』を嬉しそうに食べてくれる様になっていたのにと、私なりに反省をして歯をむいても怒らないで「我慢、我慢」で対応していたら昨日の朝、いつものように私が部屋を出ようとすると、部屋の外で座って待っているような感じがして、部屋を出たら猫部屋に入っていったので部屋を覗くと、可愛く「ニャー」と鳴いた時にはめっちゃ愛おしく思いました。

そして、本日も昨日の朝と同じような状況だったので嬉しい気持ちになると共に、猫とは言えコミュニケーションを円滑にするには根気がいるし、何と言っても相手から信頼を得なければいけないと思った次第です。

そして改めて思ったのは猫とは言え、相手を愛おしく思わなければ愛おしく接してくれない。児童の指導においては「先生は僕の事を一生懸命考えて色んな事をしてくれている。」との信頼関係を構築しなければ、指導すべきものが『単なる命令』になってしまうのだと言う事を体験してきたのに、猫にはできていなかったと言う事。「う~ん。吾輩は猫であるの様に、猫は人間の観察をしっかりしている。」と言う事かな。

マイペースなもう一匹の猫『まる』とは違い、『おもち』はもっともっと可愛い存在にしなければと思っています。う~ん、リピーターの皆さん、本日も私の言いたいことを何となくでも理解して頂ければ幸いに思っています。

彦根東福寺の護摩供養での出来事

令和7年4月29日

昨日は28日と言う事で、彦根東福寺の護摩供養に参加させて頂く為、18時スタートなのですが住職の静慈彰師とお話が出来たらと思い、17時30分にお寺に着いたらお参りの方は誰もまだ来てなくて、静慈彰師とお話をさせて頂くことが出来たのですが、いつも元気に話をされる方なのですが、それ以上にテンション高くお話をされました。テンションが高かった理由は、話の内容から東福寺にご縁を頂いている女性の方が高野山での修行を1年されて、その中で『護摩供養の作法』も習得されたとの事で、本来住職である慈彰師が執り行う導師の役割を、一年の修行をされた方に慈彰師の言葉を借りると「護摩供養の作法を習得しても、実際に体験する機会はなかなかない。後進を育てる意味でも本日、私は補助に回って導師を勤めて貰う。」と自分の考え方に酔ったような話し方でした。

18時を少し回った時に、護摩壇の所に座られ慈彰師のやり方とはかなり違うやり方で進められ正直なところ、なかなか護摩木が燃えない状態もありましたが、何とか無事に執り行われたのですが、お参りに参加された私も含めた方が「なれない中で行われているので、お経はいつも以上に声を張り上げ応援しよう。」との気持ちでの参加でした。終了した段階で何らかの言葉を頂けるかと思っていたのですが、早々に退席されたのを受けて慈彰師がテンション高く話をされていたのですが、奥に行かれた3人の女性の方の声が聞こえて来たので、慈彰師が「少しコメントを貰おう」と見に行かれたら、何となく元気なく戻ってみえて「法衣から着替えられているので、本日のお参りはこれで終了します。」と先程までのテンションとは違うトーンで話されました。

その状況から、慈彰師の想いと違った事を察しました。私なりに理解した事を端的に書くと「女性3人の方が護摩供養の中心でされたのは良かったけれど、住職に代わって執り行う重さが分かっていない。しかも、終了してからのお礼の言葉も無く、奥の部屋で興奮気味に話をしているのは理解出来る部分もあるが、言葉を選ばずに言うのなら、大学のサークル活動で初めて経験した事を興奮しながら話ししているのと大差ないな。少なくとも、導師の代わりを勤めた重みを理解して、迷惑を掛けた事をお詫びする事をしっかりしなければ何の為の修行だったのか。」と思うと共に、慈彰師のトーンが下がった事を重く考えて貰いたいと思った次第です。

妙応寺本堂での私の流儀

盲養護老人ホーム 優・悠・邑 和(なごみ)の造成中に工事の進捗状況の確認の為に現場を歩いていた時に長靴を履いていたにもかかわらず、ぬかるみに足を取られ長靴と共に足を引き脱ぐ事を諦め先ずは足だけぬかるみから抜け出し、そのあと長靴を引っ張り出した事は、既にこのコラムで書いていますので熱心なリピーターの方の中には記憶にある方もおありかと思います。

そしてその頃、段々と建物が建って行くのを確認に行っていてその度に痛切に感じたのは「足腰が弱くなっているな」と言う事でした。その現象を少しでも解消しようと言う事で始めたのが朝のお参りです。それまでにも何度かウォーキングで片道2キロはある『若宮神社』まで歩いたり、ウォーキングマシンで30分以上頑張ったりしたのですが、長続きしなかったので、「無理なく出来るコースにして続けよう」と言う事で始めたのがペットボトルに水を入れてのお参りだったのです。

私はゴルフはしないのでゴルフをされる方から「ゴルフは結構歩かなければいけないスポーツなのでやられたら如何ですか」と進められても「複数での競技なので仕事最優先の私としてはお約束が守れなくてご迷惑かけてもいけないのでやりません」と言って断っていたのですが、今の生活は基本的には座っていることが多くて、足腰が弱ってきているのだと思います。そんな中で単に歩くだけでは「負荷がかからない」と言う事で思いついたのが『幸福地蔵様』に抱きついてのお参りと本堂でのお経中のストレッチです。こんな事を言うと申し訳ないのですがお参りをする前の所に立派なお賽銭箱があり、私が手をついて何かをしたとしてもビクともしないものなのです。そこで、お賽銭箱に手をついてのストレッチをお経を唱えている間、ずっと色んな動作でしているのです。多分10分くらいのお経なのですが結構しんどく、足腰に負荷がかかっている為は寒い時期でも汗が出てくるくらいになりますし、足腰の動きも依然よりは良くなっているように思います。

幸福地蔵様での行為も、本堂での行為も誰かが見ていたら「あいつは何をやっているんだ」と言う事になるのでしょうか、多分「仏さんはニコニコしながら見て御座る。」と勝手な事を言っている私なのであります。

児童養護施設の指導員時代にお世話になった老僧について語ります

令和7年4月27日

『老僧』と書きましたが、初めてお会いしたのは私が教員を退職して『自分探し』と言えば恰好が良いのですが、父進から『勘当』され、文字通り自由気ままな生活を旧徳山村で謳歌していた時に、その当時大垣市立中学校長をされていた方が、わざわざ徳山村にいる私の所に来て下さり「教員資格を小学校・中学校(社会)・高校(社会)と持っているのだから、児童養護施設の指導員として働いてはどうか」と誘って下さいました。

その校長先生は、児童養護施設経営者の娘さんのご主人と言う関係だったのですが、あまりに唐突だったのでどの様にご返事をすべきか、その当時の私は本当に軽いかるい考え方しか出来ない人間だったので困ってしまったのですが、「わざわざ徳山村まで来て下さったのだから、取り敢えず施設を見に行く事にします。」と答えて、その方の車の後ろをついて行く形で児童養護施設に連れて来て貰うと、その施設はお寺の敷地の中にあり、いわゆる庫裏に案内されてその当時社会福祉法人誠心会の理事長さんだった老僧にお会いしました。

最初の印象は「厳格な威厳のある方だ」と感じていました。お話は殆ど理事長の奥様としていたのですが、その時の話の中心は私が白いカッターシャツの下に四国団参で頂いた数珠を首にかけていることに周知して「四国八十八か所をしている方なら、頑張って職員になって欲しい。」と、私は見学だけのつもりだったのですが「翌月の始めから来てほしい」(その日が8月28日)と言う事で「これもご縁か」と勤める事になりました。

理事長さんである老僧は妙心寺派のお寺の住職で、若い頃には10年近く本山での修行をされたと言う事で威厳があり、若い頃は酒豪だったとの事ですが、大きな病気をされてからは酒を一切飲まれずに、食事は3食共にご飯茶碗1杯に湯豆腐に少しだけ醤油を垂らしたもののみ、15時のおやつに何故かキリンレモンを1本と言う生活を10年以上されていると言う事で、いつも威厳ある座り方で口数の少なく、私以外には副住職で主任指導員の息子さん以外は、女性の保育士さんと厨房のこれまた女性ばかりで、老僧は私とは色んな事を話して頂ける様になったのですが、そのきっかけは9月、10月の台風時期にはとても台風の情報を気にされる方で、極端な表現の様ですが、フィリピン沖で発生した段階から気にされてテレビの天気予報を毎回見られて、それだけでは納得されずに、庫裏に誰も見えない時を見計らって私を呼ばれて、台風情報を探る様に言われるのです。それを契機にして、私は良く老僧の話し相手をする様になりました。

妙心寺での修行をされていた時の話の中で、前回もコラムで書かせて頂いた『陰徳』の話を聞き深く感銘を受けたものです。口数の少ない方ではありましたが、強い信念を持たれた方で、公立高校に行くだけの成績を残せなかった時に上司は「私立高校へは予算の関係で無理だ」と言われたので、私は理事長である老僧に直談判しました。その時に老僧が出された答えは「その子の努力が足らなかったのだから、認めるわけにはいかない。しかしながら、若山さんが、毎晩12時頃まで子どもの勉強を見ていている事に免じて、私立の入学金は私が出すから、立派に卒業出来る様に面倒をみてやって下さい。」と言われたのには本当に嬉しかったし、しっかり職員の動きを見て頂いていたのだ」と思いました。その時に教えて頂いたのは「理事長とは情報を持って決断することなんだ」と理解しました。私の人生の中で色んな場面で『師』と仰げる方に巡り敢えているのには、感謝しかありません。

関ヶ原与市を検索したら

令和7年4月26日

朝のお参りで歩いている時にも「今日のコラムの題材を何にしようか」と考えている毎日なのですが、(そうでなければコラム連続更新は出来ません。)今朝は関ヶ原与市の墓にきて「よし、インターネットで詳しく検索して、コラムにしよう。」と考えて、「今は思っていても忘れてはいけないので、スマホに記憶させよう。」と言う事で、メモをしてから再び歩き出しました。そして、今パソコンで検索して驚いた事を見つけたので、そのことから書きます。

それは、私が令和4年6月21日に書いたコラムが『講談社』の次に紹介されていたからです。但し、残念だったのは当法人は『杉和会』なのですが『杉脇会』になっていたからです。検索の結果一番最初に出て来たのは『与市宮』(よいちのみや)と出て来て、妙応寺の五輪塔とは違う立派なお社で「しっかりお祀りされている。と言う感じなのですが、正直私は見たことがなかったので「こんな恥ずかしい事はないので、近いうちに行ってみよう。」と思った次第です。

次のページを開くと『関ヶ原開拓の祖』との大きな見出しがあり、【関ヶ原与市(本名:藤原基清)は平安時代の貴族で、用水の乏しかった関ヶ原へ、揖斐郡粕川上流から水を引こうと計画します。粕川は、関ヶ原からいくつかの山を越えた向こうにあり、工事は困難を極めました。権力者であった与市はこの地を通行する者は、何人といえども一日はこの工事に参加しなければ通さないようにし、使役したのです。この努力の結果が現在の関ヶ原の基盤になっているといえるでしょう。子孫の方が作った与市宮は今も手入れが行き届き、関ヶ原開拓の祖であるといわれている与市への尊敬がうかがえます。】との説明にあり、

私は関ヶ原町で71年(来月16日で72年になります)になりますが『関ヶ原開拓の祖』などと言う事は全く知りませんでした。少し言い訳をさせて貰うと『関ヶ原』と『今須』では大きな峠を越えなければいけないので『旧関ヶ原邑』の事だからしらなくて当然と居直った見解をしています。とは言え私は大学5年間所属していたサークルは『郷土研究の会』と言う民俗学調査をするサークルだったのに、地元の事は知らないでいたのですから情けない話です。もう一つ大きな見出しで『与市を斬ったのは、牛若丸!?』についてはいつの日か検証してコラムで書きます。

8本から9本に・・・

令和7年4月25日

「何の話や」と思われたリピーターの皆さん「慌てない、慌てない」と言う事で謎解き?をします。それは朝のお参りの背中に背負ったリュックサックの水を入れたペットボトルの数です。毎日お参りに行っている内に色んな所の花筒や湯飲みに水を入れる所が増えてペットボトルの数が本日から9本になったと言う事です。

お参りを始めた時は1本のペットボトルに水を入れ、我が家のお墓に持って行く為に1本のペットボトルを左手に右手に金剛杖を持って歩いていました。しばらくは1本だけでしたが、2本持って行くようになってからはビニール袋に2本の水入りのペットボトルをブラブラさせながら歩いて、2本が3本になり4本になった時に「手に持ってブラブラさせるのには限界がある」と言う事で家に眠っていたリュックサックに水入りのペットボトルを背負う様になった次第です。

毎日お参りをしている中で「このお地蔵さんや仏さんにも」と考えている内に本数が増えていったのです。とは言え、今使っているリュックサックでは9本が限界なのでこれ以上には増やせないのですが、ペットボトルの容量は500mlばかりではなくて、容量の多いので600mlのもあるので、リュックサックの中の水は5000mlにはなるので「背中に背負っているのは5㎏にはなる」と思うので朝背負って歩いている時にずっしりと重みを感じたので「これまた修行」と思った次第です。そして改めて「岐阜県最古の曹洞宗のお寺だけに色んな仏さんがおいでになる」としみじみ思いました。

毎日の日課になると手を抜いて進もうとしても「これが出来ないのです。」そのことを思った瞬間に思い出したのは、私が26歳から13年間お世話になった児童養護施設の理事長さんが妙心寺派の老僧でその方に教えて頂いた『陰徳』の話です。だって誰も見ているわけでなく、ましてや仏さんが文句を言うわけが無いのに、律義に水を手向けている私なのであります。

う~ん本日のコラムは何が言いたかったのかが分からない状態ですが「こんな私です。と言う事を知って頂ければ」と思っています。

午前3時40分にスマホがなって

令和7年4月24日

昨夜は21時には爆睡して午前3時に一旦目覚めて、再び眠りについて、「うとっ」とした時にスマホが鳴り慌てて出ると「胸が痛くて救急車を呼んで欲しい」との事。本人さんが会話も出来る状態なので「救急車は呼べないと」伝えると「タクシーで行く」と言われるので「一人で行かせるわけにはいかないので私が施設に向かい対応をします」との旨を伝えて電話を切り、着替えてから急いで車に乗り込み施設に向かいました。

午前4時前と言う事で車は少なかったのですが、トラックばかりが走っている様に思いました。運転をしながら真っ暗の中、星と月が鮮やかに輝いているのを感じながら運転出来たのは本人さんと話が出来るような状況だったからだと思います。と言うのは施設を開始して間もなくの頃夜中に部屋から出られた方が「外の石垣で頭を打たれて血を流して倒れられているのを発見した。」との連絡を頂いた時にはそれ程の経験も無い頃だった事もあり、施設に向かう時に運転していた時に足が震えて大変だった事を覚えているからです。

和合の施設に着き本人をお乗せして病院に着き、緊急用のインターフォンを押すと直ぐに入り口を開けて下さり、本人がしっかりされているのと何度も自分で対応されていて夜勤の看護師さんも馴染の方だった様で、CT、レントゲン、心電図、血液検査と手際よくして頂き本人が気にしていた『心不全』でのえらさでは無くて『貧血』の数値が非常に悪くてえらかったと言う事をドクターから説明を受けて入院することになりました。

本人が「えらい」と言われて不安になられていたことに対して対応出来たのは良かったと思いますし、貧血状態を改善されて元気に帰ってきて貰えればと願っています。多くの方が入居されている施設ですからこの様な事態は想定内なのですが、とにかく入居されて見える方が元気に楽しく生活して頂ける様に頑張っていきますのでリピーターの皆さんのご理解、ご支援を宜しくお願い致します。

 

お墓を守ると言う事

令和7年4月23日

妙応寺の本堂裏手に墓地があり、墓地の入り口には『墓仕舞』したお墓が地蔵菩薩様を中心に多く安置されています。放置するのではなくて『墓仕舞』をされているのですから「止む無し」と言う事なのですが、『昭和おじさん』の私としては残念な気持ちもあり、少し違和感があります。

確かにお墓を新たに建てられる時には、建てられた方の思いが強く表れると思っています。事実、私が17歳の時に、新婚生活半年で23歳の若さで他界した姉光子の場合は、慌てて姉光子だけのお墓を他界して早々に建てられたのです。つまり、姉光子の旦那さんの強い意向で建てられたのだと思うのですが、姉光子の旦那さんはこれまた早々に再婚され、姉光子の墓を訪れるのは次姉の春子さんと弟である私がお参りをするのですが、姉光子の嫁ぎ先のお墓がずらっと並んでいる中で、姉のお墓にはお花が供えられていないと忸怩たる思いになったものです。

23歳と若くして他界したとは言え、私にとっては母秋江さんが入退院を繰り返していた小学校3年生の頃から『母親替わり』の存在だったし、姉春子さんにとっても、姉光子は頼りになる存在だったわけで、当然ながら姉光子のお墓に手を合わせるのは当然の事なのです。

私が17歳の時に他界しているのですから、姉春子さんと私の2人以外には姉光子の存在は無いのです。2人が元気な内は良いのですが・・・。こんな状況はどの家でも起きうる話です。ましてや人間関係が希薄になってきている昨今、お墓を建てた方の思いがある内にしっかりとした対応をしていかなければいけないと思います。

このような問題はお墓だけでなくいろんな対応に対して言える事だと思いますので、私自身も色んな対応を元気な内にしていかなければと思っています。

毎日の様に見ているはずなのに

いつもの様に朝のお墓参りの時の妙応寺本堂でずっと前から置いてあるチラシを何となく手にした時に目に飛び込んできたのが妙応寺のチラシで表面の真ん中に県下最古の曹洞宗寺院との文字に先般インターネットて検索したばかりのことが書いてある。「文字通り灯台下暗しと言う事だな」と思った次第です。

インターネットで書いてあった以上に情報を得る事ができました。私が小さい頃に妙応寺を創建された方の母親が強欲な方で鬼に食べられて、その供養の為に創建された絵を見せて貰ったのですがその絵を描いた方が江戸後期から明治初期に活躍された地元今須出身の喜田華堂と言う日本画家だったとは。その他にも毎月第4土曜日午前7時から座禅会が行われているとか、要予約ではありますが精進料理が提供出来ると言う事を私は地元にいながら知りませんでした。

「確かにかなり前にはクコ料理が大々的にされていて観光バスもよく停まっていたように記憶していますが今は多分ほそぼそとされているのかな?と思うと勿体ないな。」と思った次第です。私も他人事の様に言うばかりでは無くて今須に住んでいる者として脱げればと一肌脱げればと考えています。

リピーターの皆さんも支援してもらえると嬉しいです。

父進さんの事を改めて書きます

令和7年4月21日

父進さんは明治最後の年である明治45年4月生まれで、生まれつき視力が悪かった為に兵隊に行ったのがとことん日本の状況が厳しくなってからの出兵だったので30歳を過ぎてからで終戦時にはロシアのシベリアに抑留されたとの事で日本に帰り着いたのは結構遅かったと聞いています。(ロシア兵は腕時計のゼンマイを巻く事を知らなくて、時計が止まると捨ててしまうので捨てられたのを拾って再び使ったなどの話を面白く話してくれましたが本当は大変な状況だったと思います。)戦前の教育を受けている父進さんは師範学校に通う為の学費を朝早くの新聞配達をして卒業したと言う事でとても苦労と共に非常な努力家だったと聞いています。

父進さんは戦地から実家のある垂井町に戻って早々に母秋江さんを石垣の陰から見て母秋江さんに一目ぼれをして若山春吉じいさんの末娘の養子になり、3人の子宝に恵まれ(私は末っ子の長男です。)私が小学生の時には加茂郡七宗町の小学校の校長に赴任していました。父進さんは戦地から帰って来て直ぐに岐阜市にある加納小学校に赴任していて、その時代に岐阜県教育委員会の幹部の方々とのネットワークを構築した事を父進さんから聞いた話から推測しています。

教員生活最後は自分が卒業したその当時不破郡の中では一番規模が大きかった垂井小学校の校長で退職しました。私の聞くところによると「部下の先生を大切にしていた。」と言う事で、父進の一文字を冠にした『垂進会』と言う親睦会は父進が他界するまで続いていたと理解しています。校長を退職してからは垂井町の教育長を長く勤め、その職を辞してからは関ケ原町歴史民俗資料館の設立に尽力して事業開始と共に初代館長を勤め、館長を辞めてからもアドバイザーのような立場でいて、80歳になった6月に入院するまで(その年の8月12日に逝去)虫食いの本を時間があると読んでいたように記憶しています。

私はまったく古文書に興味が無く「何が面白いの」と聞いた時に「虫食いで分からない文字を推理するのが楽しい」と言うような父でした。息子である私からみても「温厚な努力家」と言う方だったと思います。今となっては「温厚は努力家の爪の垢を飲むことが出来ませんが、父進さんのDNAを受けついでいない自分である事が悔やまれます。」「孝行したいときに親は無し」とは良く言い当てた言葉ですが、何ともならない息子を黙って見守っていてくれたからこそ今の私があると思うと、父に出来なかった恩返しを入居者さん頑張ってしていきたいと思っています。

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