2024年05月の記事一覧

朝のお参りで・・・愕然!

令和6年5月11日

いつもの様に朝のウォーキングで妙応寺の駐車場の幸福地蔵様の所で花立てに水を入れようとした時に、中学時代の同級生が忽然と現れて話しかけて来ました。久しぶりに話をしたのですが、その内容としては、駐車場の中に県道が走っていて、県道の所だけが綺麗に舗装がされていて、それ以外の所は至る所が凸凹(デコボコ)になっているのを、友達は「雪が降った時の除雪が原因なのに直してくれない。」と言って、私に県と掛け合って欲しい。との事でした。

もう一つの話題は駐車場内に公共のトイレがあり、今須に学校があった時には児童・生徒が定期的に綺麗にしていたのに、学校が廃校になってからは、汚れたままだと言う事で、この事も掛け合って欲しい。との話に私は私で「人肌脱がなければ」と思った次第です。

ところで何に『愕然』としたかと言うと、話が終わった時に友達が「宏君に習って、妙応寺からお墓まで行っているんだ」と言うなり、走って行ってしまいました。その走り方の軽やかな事と言ったら・・・。私の同級生と言う事は「彼も70歳になっているのにあの軽やかさは何なんだ。」と言う事です。彼は山での枝打ちが主な仕事で、今は多くの田圃を請け負っていて田植えに忙しいようですが、あの元気さには舌を巻きます。

但し、私だって休みなしで頑張っているのだから良しとして下さい。それに、今月14日は石川県輪島市の地震後の状況を確認に日帰りで行く体力はありますから。どうして行くのかと言えば、岐阜県老施協の会員施設の職員を災害派遣に行って貰っているので、会長として実態把握をする事は大切だと考えたからです。使命感の中で頑張らせて頂いていますのでリピーターの皆さん、まだまだへこたれれないので今後共宜しくお願いします。

今日こそコンパクトなコラムに挑戦するぞ!

令和6年5月10日

常識的には「短い文章を長くしよう。」と言う事になるのでしょうが、私の場合は「長い文章を短くしなければ」と言う事で、リピーターの方の中には「何をまた若山はややこしい事を言っているのか。短くするのなら簡単だろうが。」と言われる方が多くあると思うのです。ところが私にとっては長い文章を短くすることが出来ないのです。「どうして?」と言われる方に、私なりの説明をさせて貰うとしたら「朝起きてから、コラムのタイトルをどうしようか」と考えていて、閃いたものがあった時に携帯にタイトルを打ち込む様にしているのです。ところが、いざ書き出すとタイトルからどんどんと違う事におひれはひれが付き、全く違う話題までが入ってきて長い文章になってしまうのです。

そう言いう意味では、奈良薬師寺執事長の大谷徹奘師の日めくりカレンダーの言葉は最高なのですが、私がその様な事をしても、深い意味のあるものにする事は難しいし、長い文章を書き終えても短い一言がまとまらずに「う~ん。う~ん」と唸りながら一文字も書けない状態になってしまうのではないかと思っています。『長い文章は書かない。』と宣言した日でもありますので、リピーターの皆さん最後の一言「格好良い言葉は浮かんできませんので、やっぱり泥臭い文章で行きますが、だらだらとした文章は止めにしますので、これからも読んで下さい。そしてコメントもどしどし下さい。」

午前10時から老施協西濃支部の理事会が行われました。

令和6年5月9日

理事会とは言え、各施設の責任者(施設長)の方が集まってのいわゆる『総会』が盲養護老人ホーム 優・悠・邑 和(なごみ)で行われると言うことで、8時30分には全国介護福祉政治連盟の資料を準備する為に本部施設に行き、パソコンを開いてメールで送信されているのを開いて印刷をしようとしたのですが、パソコンがなかなか開かずに焦ってしまい、吉田副施設長に手伝って貰って何とか印刷をして急いで和(なごみ)に行くと、中西支部長さんと事務局を担っている職員の方がみえていたので挨拶をして、しばらくすると順次参加者の方がみえたので、それぞれに挨拶をしていて定刻の10時に会議が始まりました。

先ずは参加者の中で何人かが新しく施設長になられた方だったので、順番に自己紹介をしてから、令和5年度の事業報告と決算報告がなされ、令和6年度はリアルの研修を実施していきたいとの支部長からの提案があり、最後に監査報告がされて承認されてから、引き続き意見交換会に入りました。意見交換会では各施設から、コロナ感染症対策の緩和策について、外国人材を含む人材確保と質の担保について、物価高騰に対する提案等、他方面に渡っての意見が出されました。そんな中で私は、岐阜県老施協会長の立場で理解している事について、必要に応じて助言の様な形で述べさせて頂きました。

その話の中においても、『会員メリット』の面から物価高騰への対応について岐阜県においてしっかり対応して頂ける様に、岐阜県健康福祉部の福祉担当次長、高齢福祉課長・係長と老施協役員との懇談会を年に2回は持ち、今後、岐阜県議会厚生環境委員会の方々との懇談会も持って行くことも話をしました。また、外国人材については昨年度に引き続きマッチング事業も行って行くが、『質の担保』に対する補助金確保についても積極的に実施していく事も話ししました。

意見交流についても全て終えてから『全国介護福祉政治連盟』の会費納入のお願いを準備した資料を基にさせて頂きました。介護保険制度の仕組みを最終的に承認するのは国会の場で決定します。と言う事は介護事業においても政治的配慮が絶対条件なので、いわゆるロビー活動をしていくにしても活動資金が必要なので、施設長さん達の理解を得ていく必要があるので、私なりに熱く語らせて頂きました。この展開は文字通り『数の力』ですので、皆さんの協力が得られる様にこれからもしっかりとうごめいていきたいと考えています。

会議は12時近くまでかかり、13時30分からは和合1階でカラオケを予定していたので、和合に行く途中でうどん屋により、昼食を食べて急ぎ和合に向かいました。14時30分からは来客が予定されていたので10分前倒しでカラオケを始めて、14時30分からと15時からのお客様対応をして16時30分からは本部施設に行き社労士さんとの打ち合わせが入っていたのですが、出発前に予定外の対応が入り結局本部施設に17時になってしまい、社労士の先生を待たせてしまう結果になりました。勿論、遅れる連絡等はしましたが、本日もバタバタの一日になってしまいました。

午前はリモートで午後はリアルで会議があり、終了後は和合で幹部会です。

令和6年5月8日

10時から岐阜県福祉会館でリモートではありますが東海北陸ブロック会長会があり、引き続き同じ会場で午後から岐阜県老人福祉施設協議会常任理事会が実施されるので、昼食を頂いた後にコラムの原稿を慣れないスマホで打っています。和合の施設に帰る選択肢もあったのですが移動に往復30分掛けるよりも場所を借りてスマホの画面と格闘するほうが効率が良いと稽えてスマホの画面を睨んで頑張っています。

午後からの会議は今月29日に開催される総会に向けてのたたき台を作る会議なので会員施設がメリットを感じて貰えるような内容にしていきたいと考えています。常任理事会が終了次第和合の施設に移動して幹部会に挑み今後の展開について検討したいと考えています。

昨年8月から和合の施設長として色んな改革に挑んできましたが、まだまだ道半ばと言う事で一段とギアを上げて行きたいと考えています。入居者さんの表情も明るくなってきたし、外への散歩も実施出来る様になってきたので、もっともっと楽しい施設にしていきたいとも考えています。さて、コラムが長すぎるとの意見も頂く事もあるのでコンパクトにしたいと思っているのですが果たして俳句や短歌の様にいきますか。

柴田家のお墓で手を合わせていて

いつもの様に5時15分に起きて仏間でのお参りを終えて幸福地蔵様、妙応寺の本堂、今須稲荷、三仏様、六地蔵様等にお参りして、6家のお墓に手を合わせて行くのですが、お墓の最後が柴田家なのですが、お墓の主である『伯父さん』(と言うより学校の先生をされていたので『柴田先生』と言っていました。)『叔母さん』(と言うより『おばちゃん』と言っていました。地域の方々からは『かずちゃん』と親しみを込めて呼ばれていました。)についてですが・・。

正直『伯父さん』との思い出はそれほどなく、私が38歳の時に父進が他界した時のお葬式では「進先生には大変お世話になったので」と言うことで親身になってお世話して頂いたくらいしかないのです。

しかし『おばちゃん』とのエピソードは一杯あって走馬灯の様に頭に浮かんできましたので、リピーターの皆さん、私とおばちゃんの思い出話に本日は付き合って下さい。

私とおばちゃんの話をするときのキーワードは生みの親である母秋江さんとの関係から話をしなければなりません。母秋江さんは前にも書きましたが『今須のじゃじゃ馬娘』で、その母を一番慕って見えたのが『和ちゃん』だったのです。

と言うことで一つ目の強烈なお話は、私が小学校に入学して間もなくの遠足の時に秋江さんの私への思い「宏が途中で歩けなくなってはいけない」と言うことで本隊が歩く後からリヤカー(60年以上前の事ですから)で付いてきた時に母秋江さんと一緒にリヤカーを引いていたのが『おばちゃん』なのであります。

母秋江は私が13歳の時に他界して疎遠になってもおかしくないのですが、それ以降も「竹の子を煮たから」とか「山菜を煮たから」と機会あるごとに若山家に持ってきて下さいました。そんな時には必ず「秋ちゃんには本当に良くしてもらったから」と言われていました。

その後、私の父が60歳を前にして、姉春子さんは結婚を、私は大学で下宿生活が始まり「父ちゃん一人の生活は大変だろう」との姉春子さんの提案で父に後妻(英子さん)を迎えてから和おばちゃんが若山家に何かを持って来ることはなくなったのですが、義母英子さんがいないことを見計らうようにして「ひろっちゃんはきゃらぶきの煮たのが好きやったで持って来たよ。」と言って何度か美味しく頂きました。(ちなみに私は少しでも砂糖が入ると食べないことを良くご存じでした。)

和おばちゃんも高齢になられて残念ながら認知症になられ本部施設でお世話をさせて頂いた時には「御恩返しが少しは出来た。」と思って精いっぱい接点を持ったのですが、お会いすると必ず「ひろっちゃん。太ったね」と言われたものです。

多分おばちゃんの中では私は小さい時のままだったのだと思います。リピーターの皆さん私は今コラムを打ちながら涙を一杯貯めています。私はそんな人間なのであります。

ガキ大将といじめっ子

令和6年5月6日

私が小さい頃は文字通り『虚弱児』であった事は、何度かこのコラムでも書いていますのでリピーターの皆さんはご存じの事と思います。そんな私の小学校・中学校(1学年1クラスだったのでクラス替えはありません。そんな中で)、あの頃の時代には『ガキ大将』とか『いじめっ子』と言われる存在がありました。常識的には虚弱で学校も休みがちな私は『いじめの対象』になってもおかしくない存在だったと思うのですが、不思議なことに『いじめの対象』になった事はないのです。『いじめる対象にすると泣き虫だから面倒臭い。』と言うことだったのか『その頃のガキ大将もいじめっ子も、現在のものと違う』と言う事なのかと、何故か朝の仏間でのお参り後のウォーキング&お墓参りの時に何の脈絡も無く思ったのです。と言うより、ガキ大将にもいじめっ子にも『守られる存在』だった様に思います。

そして高校に進学した時には、何故か中学時代に柔道の猛者で暴れん坊との噂があった同級生が一番の友達になり、それどころか何故か私を慕ってくれていて、当時の私は身長160㎝で体重45キロの華奢な高校生だったにも関わらず、目立つ存在であったのか所謂『反対勢力』から目をつけられる事も多かったのですが、全てその友達が解決してくれたのを覚えています。彼とは大学は違いましたが夏休みの伊吹山でのバイトも一緒で(伊吹山の9合目の売店で日本そばを作っていました。)お互いに大学を卒業してからも(私は1年遅れての卒業ですが)仲良くしていたのですが、彼は若くして亡くなりました。

今私は社会福祉法人杉和会理事長として110床と98床の特別養護老人ホームで、養護老人ホームと盲養護老人ホームの経営の責任者ではありますが、基本的には母秋江さんの『蒔かぬ種は生えない』との教えと、小さい頃に色んな方々に配慮して貰って今がある事に感謝しての頑張りだと思っています。もう少し突っ込んだ事を言うなら、私を産んでくれた母秋江は私が13歳の時に亡くなり、父進は38歳の時に亡くなったのですが、両親共に「孝行したいときに親はいず。」と言うことで事業を通じて両親に出来なかった『孝行』をしているように考えていますし、『困った時に助けて貰ったのを、入居者さんとその家族にしている』との思いでいます。

また虚弱だった私が元気に走り回れて、一日も休むことなく頑張れる事に感謝です。でもね、エライ時はしっかり寝ていますよ。ちなみに昨日は和合で午前4時15分に連絡があり、早くからの対応だったので、16時過ぎに本部施設でバイキング料理を頂いてから家に帰り、直ぐにお風呂に入り、18時から寝て22時に一旦目が覚めたので1時間、ビデオを見て再び寝たので5時前にはくたくたの体が元気になりました。それはそうですよね、しっかり10時間は寝たのですから。リピーターの皆さん元気になっても当たり前ですよね。

和合でポップコーンと飲み物の提供をしました。

令和6年5月5日

昨日の報告です。

ゴールデンウィーク後半は天候に恵まれると、天気予報で聞いてはいましたが、朝から文字通り『抜けるような青空』だったので「入居者さんに外の空気を吸って貰いたい。」と言うことで、職員と相談した結果「施設の外を散歩して貰い、ウットデッキで新しく購入したポップコーンを食べてもらいながら、好みの飲み物を頂いて貰おう。」と言う事になり、13時過ぎから準備を始めて順次各フロアの入居者の方が散歩を終えてウットデッキに集まって来て下さり、先ずは皆さんにポップコーンの盛り上がって溢れる様子を見て喜んで貰いました。その後、出来上がったポップコーンを器に入れて座られている所にお持ちして、飲み物も好きなものをオーダーして貰い楽しんで頂きました。

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ポップコーンや飲み物を楽しんで貰いながら上を仰いで貰うと、大きな鯉のぼりが気持ちよさそうに泳いでいます。ワイワイ皆さんと話をしていて笑顔を一杯頂けると、私のテンションも最高に上がってきます。ウットデッキの所は午後から建物の陰になりそこそこの風が吹くのですが「心地よい風」と言う事で、入居者さんがいつもとは違う場所で雰囲気を変えて貰うには最適な環境だと改めて思った次第です。初めての企画で正直ぶっつけ本番的な企画になりましたが、職員もみんなで協力してくれたので助かりました。実際に実施しての反省は飲み物が出てくるタイミングが遅かったと言う事で、次回からは事前に飲み物のオーダーを聞いておいて、事前にまとめて作っておく様にしようと言う事が申し送られました。昔から言われていることですが『百聞は一見にしかず』です。頭の中で何度シュミレーションしても実際に実施して理解できる事が殆どだと思います。

今コラムを打ちながらつくづく思ったのは、パソコンの操作にしてもスマホの操作にしても、聞くだけ或いは代わりに操作してもらった時の事は殆ど理解する事が出来なくて、何度も何度も聞かなければいけない事があります。と言う事は『百聞は一見にしかず』ではなく『実践に勝るもの無し』と言う事なのだと思った次第です。

リピータの皆さん、私はあと10日もすると満71歳の誕生日を迎えるのですが「70歳を過ぎてもそんな事を言っているのか」と言われそうですが、これが私の実情です。でもね、『人それぞれ』とも言うでしょ。姿かたちが違うように得意不得意があってしかるべきと思うのですが・・・。でも、同じことを聞かれて答えなければいけない方が存在することも肝に銘じていなければとも思っています。

御縁には『良縁』と『悪縁』の二つがあります

子役俳優の事件から改めて悪縁と良縁について考えてみました。

元子役俳優だった方は黒田官兵衛の子役に抜擢された時には才能があり、良縁に恵まれて普通では考えられない活躍が出来たのだと思います。しかしながら、何らかの理由で俳優業を辞められてから、10年の年月の間に悪縁が悪縁を呼んだ結果として、殺人の実行者として逮捕される結果となってしまった。そんな事を考えながら自分自身の御縁について考えてみました。

先ずは生まれて最初に御縁を貰ったのは当然の事ながら私を産んでくれた母秋江さんです。この秋江さんとの御縁は強烈です。母秋江さんは当時の有力者だった父親(私にとっては祖父)春吉さんの末娘で『溺愛』を受けていたので、『今須のじゃじゃ馬娘』だった様ですが、私にとってはとってもありがたい母親でした。と言うより『末っ子の長男で虚弱』だった事もあり、甘える事は3人姉弟の中で独占していたと思います。

そして、父進さんは母秋江さんに絶対服従だったので『甘々』な日々だったと思います。その現象は食事を食べる時間でも理解して貰えるかと思います。と言うのは小さい頃の宏ちゃんは(私の事です)なかなか口を動かさない子であったので凄い時間がかかっていました。(今の私は誰よりも早いと思っています。)そんな両親に育てられたので今の自分が存在するのだと考えています。

もう一つ私にとっての幸運な出会い(御縁)は、我が家から200mくらいの距離に関ケ原病院の診療所があり(今は影も形もありません。)その診療所に住み込みの形で本多先生と言う女医さんがみえたので、私は今も存在していると言っても過言ではありません。

その本多先生から私が小学校の入学時に「1年延ばした方が良いのでは」と言われたのを私の母秋江さんは「1年遅らせるのは宏が可哀想だ。」と言って「何かあれが対応するから」と言う事で遅らす事無く、結果的には病気がちな小学生でしたが何とか今があります。

次の御縁は小学1年から3年までの担任の先生だった塚原先生です。塚原先生は「塚原卜伝」と揶揄されるくらいに厳しい先生だった様で私の姉春子さんは「怖くて嫌いだった」と言うのですが、私は塚原先生が休日に日直をされている時は母秋江さんに食べきれないくらいのお弁当を作って貰い一日中塚原先生の所でニコニコしている子どもだったと記憶しています。現在の事業をするまで、そしてそれ以降もたくさんの御縁を頂いています。それを書くだけでも本になるくらいですが、その事はリピーターの皆さんボチボチ書きますので宜しくお願い致します。

「人との出会いが大切だ」とテレビのコメンテーターが熱く語っていました

栃木県那須町の夫婦の遺体が見つかった事件で、岐阜県出身の元子役俳優が実行役の若山耀人容疑者として逮捕拘留されたとの報道がされていました。

私は大河ドラマ『黒田官兵衛』の幼少期で出演していた姿を鮮明に覚えていて「利発な子役だな」との印象を持っていたので10年後にこの様な形で報道される様になったのは本当に残念に思います。

「岐阜県出身の『若山』」と言う事で「関係ないの?」などと要らぬ心配をして頂いた方もあったのですが・・・。

岐阜県は広くて美濃加茂市と関ケ原町は岐阜県の東と西で全く関係無いのですが、その様に結び付けられる方があるのには感謝すべきなのかなと思った次第です。

本題に入ります。子役俳優で活躍していたにもかかわらず、子役俳優を辞めたのには色んな理由があると思いますが、その結果として『殺人に手を染める』と言う結果は、どんな理由があったとしてもあってはならない事だと言う事です。

「人との出会いは大切だ」と言うコメンテーターの言葉の中には、「人に恵まれるには自分自身の中で正しい事は正しい、悪い事は悪いと言える生き方の中で人間関係を作って行く事こそ大事」と言う事だと私は考えます。

勿論『弱い自分』は誰にでもあります。そこに対して自制心が伴わなければいけない。自分自身を強く見せる為に刺青やタトゥーを入れたりする方がありますが、私は自分の弱さをその様な形で隠そうとしているとしか思えません。

新聞報道の写真で首の所にタトゥーが入っている様に見えたのは、黒田官兵衛の子役で颯爽とした姿であった事とのギャップがあまりにあり過ぎて「考えられない」の言葉しか出てきません。

「楽をしてお金を儲ける」方に考えが偏ってしまったのも残念でなりません。私は改めて「地道にコツコツ」の生き方こそ大切だと思いました。

今の私は入居者さん、利用者さんの笑顔を引き出し、『今日一日楽しかった』と言われる様に「私に出来る事は目一杯」との気持ちで頑張って行きますのでリピーターの皆さん、これからも私の展開にご理解下さい。

価値観の違いですか・・・。

価値観の違いですか・・・。

 

朝のウォーキングを再開して5日目ですが、お墓参りを終えて六地蔵様の所まで行くと近所の方がお参りにみえたので、挨拶すると「朝早くからご苦労様です。」と声かけられ、背中のリュックサックが重そうに見えたのか「背中が重そうですね。」と聞かれたので「我が家の水をペットボトル8本に入れて持って来たもので。」と応えると「天気が良いと花立ての水も沢山必要ですものね。」と言われたので「そう何です。」とは答えたものの私の思いは「確かに花立てにも水は要るけど湯飲みで入れなければいけないのが一杯あるから8本は毎日いるんだけど。」と思うと共に「この方はお勤めをリタイヤされてから家の前の畑を一生懸命にされているので、水撒きの大切さを一番に考えられるのだろうな。でも私の場合は、沢山の仏様に我が家の水を届けたいとの思いが強いんだけど」と思った次第です。

今回感じたのはそれぞれの立場によって同じものに対しても思う事が違うと言う事です。介護においても同じような事が言えると思っています。例えば私が入居者さんと共に午前中は『お参り』を午後は『カラオケ』をさせて頂いていますが、カラオケをさせて頂いている時は眠そうにされている方が俄然お参りになると経本無しでも数珠をしっかり握って手を合わせてお経を唱えられている方があります。また、カラオケの中で自分が歌っている時は張り切って歌われているのに、聴く立場になるとつまらなそうにされる方、歌は歌われないけれどもリクエストを積極的にしてくださり、手拍子をしっかりしてくれる方と千差万別です。私は千差万別だからこそ面白いしやりがいがあります。お参りについては粛々とお経を唱えてからの私のお話についても各フロアによって聞いて貰える雰囲気が違います。これもまた面白い事だと思います。『継続は力なり』でカラオケへの参加も歌われる方も増えてきましたし手を叩いたり、タンバリンやすずを鳴らして下れる方も日に日に増えてきました。そんな中でも各フロア共に私がフロアに行くと手を挙げて下さる方や声を掛けて下さる方も日に日に増えてきているのは私にとって至福の喜びです。職員さんの協力も日に日に増えて来たのも有難い事です。皆さんが盛り上げてくだれるお陰でお経もカラオケも上達しています。カラオケについては『古城』『王将』『宗右衛門町ブルース』など新規開発も進んでいます。勿論、時には砂田おさむさんの『人生夢の途中駅』を歌っていて「いよいよCDデビューか」等と思っている私は太平楽過ぎますかね。リピーターの皆さんはこんな私をどう思われますか。

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