2023年11月の記事一覧

本日のコラムはお詫びのみにします

令和5年11月10日

本日は関ヶ原診療所に行き点滴をして貰い、その後理事長としての役割を一件のみ対応して午後からはずっと寝ていたのですが、コラムが書けないのでごめんなさい。改めて忙しいからこそ書けるのだと知りました。明日には熱も下がり頑張れるがしっかり静養してみます。

母秋江さんのフィーバーシリーズPART4

シリーズ4回目にようやくなりました。母秋江の事を書き出した為か小さい頃の「ヨワミソ」な私が出てしまいました。と言うのは喉が痛くて微熱があったので昨日関ヶ原診療所に行きました。いつものかかりつけ医は予約で一杯との事で一瞬不安になりました。と言うのもかかりつけ医からも「若山さんは異常体質なので困ります。」と言われていたのに若い先生で大丈夫なのかと思った次第です。喉が痛いのに喉をみることもされず、薬を処方して頂いたのみ。案の定夜中になり(まだ熱があり昨日の事と今日の事がごっちゃになっています。)39、6℃まで熱が上がり久しぶりの高熱により、頭がガンガンして、唾を飲み込むのも喉が痛くて大変で。こをな時に母秋江さんがいたら、若い先生の所に怒鳴りこんで行っていただろうなと思っています。だって息子を守るためなら命懸けのような母でしたから。そんな母がいない状況の中では大人しく寝ているしか仕方がない。本日は全国大会の実行委員会が開催されたのですが流石にリアルでの参加は出来なかったのでリモートでの参加となりましたが、実行委員長として最低限の仕事が出来たのはコロナによってリモートが浸透したと言う事で有り難かったです。本日も中身のないものになりましたが元気になったら頑張りますのでご容赦下さい。

なかなかフィーバー話しに行きません

昨夜帰宅したのは20時過ぎで何となく寒気を感じたのでお風呂の前に夕食を食べて、短めのお風呂に入り寝ることにしました。

疲れもあったので直ぐに眠りについたのですが、午前1時過ぎに目が覚めたら喉に違和感があり咳も出て、尚且つ頭も痛くなってきたのでその後はうとうととしていて、いつもの様に律儀にガラケーの携帯が4時25分にアラームが鳴り、私は眠りから覚めなければいけないと言う事で無意識に大きな声を出していました。そこで完全に目が覚めた時に「流石に本日はお墓参りは出来ないと朝食まで布団を被って横になっていました。

朝食を6時20分に頂き10時からの3施設幹部会議に迷惑をかけるわけにいかないので、その前に関ヶ原診療所に行き、8時30分の受付を済ませ熱があるし喉に違和感があると言うと、別室に案内されインフルエンザとコロナの抗体検査をして頂き取り敢えず「陰性」との事でお医者さんに診て頂き薬は町内の薬局に午前中に持ってきて頂きました。

10時からの会議に挑みうどんを作って貰いその後は家に帰らせて貰い、頓服薬を飲み横になり体温を図ると38・6℃でうとっとすると携帯がなりなかなか眠る事が出来ませんでした。夕食もうどんを頂き明日は頑張れる様になればと考えています。

本来ならば「母秋江さんのフィーバーシリーズPART4」のはずなのですが

令和5年11月7日

「シリーズ3で早くも挫折」と言う事ではありませんよ。だって母秋江さんとの13年間は密度が濃~いからそんなに簡単には連載は終わりませんよ。但し、本日は昨日の出来事を書く事にします。それは、和合の施設長になったのが8月からで3ヶ月が経過しました。

その間私は和合の入居者さんに少しでも受け入れられ楽しんで貰える事は無いかと色々と考えました。その中で難しく考えていても何も良いアイデアが浮かばない中で「難しく考えないで私が出来る事をやっていこう。」と言う事でカラオケで歌って入居者さんにも歌って貰える進行をする事とお経を入居者さんと一緒に唱えることを実施して来ました。

今では可能な限り3フロアを週に2回ずつ実施しています。そんな中で最初のうちはあまり興味を示してくれなかったカラオケも段々と参加者も増え手拍子も拍手もたくさんいただけるようになってきたと思っています。またお経についても3フロアを月に2回は実施するようにしています。そんな中で昨日の3階フロアでのお経を終えて片付けをしている時に車椅子の一人の入居者さんが全体の輪から抜け出され職員と何かごそごそされていて、意気揚々と私の所に来て下さったのです。

一つは甘納豆が入った小皿であり、もう一つは抹茶でした。私は私に飲んで貰いたいとの思いが嬉しくて、そしてお茶も飲み頃の熱さで甘い本当に行き届いたものであったので本当に嬉しかったのです。単に一杯の抹茶。されど・・・。

この様な事をしてくださる方が現れた事で3ヶ月の疲れが吹き飛びました。だから今日も頑張れた。やはり、自分一人ではない人生に感謝です。

母秋江さんのフィーバーシリーズPART3(表示を変えました。)

令和5年11月6日

私が小さい頃の我が家での役割は玄関の土間(土間と言ってもコンクリートだったと思いますが)の掃き掃除と風呂焚きだったと思います。長女光子さんは何事も出来るので母秋江さんから怒られる事はなかったのですが次女春子さんは何かにつけて要領が悪かったのか怒られる事が多くてむくれ顔が度々で・・・(今は決してそんな事はありませんよ。

それどころかいつもニコニコ顔で弟の私の事を「お兄さん元気」等と言われて喜んでいるくらいですから。)ところが末っ子の私が少しでも仕事をすると母秋江さんはめちゃくちゃ誉めてくれるのです。小さい頃に掃き掃除と風呂焚きをしていたので今でも掃き掃除は得意ですし、風呂焚きを薪でしていたので寸胴での薪での火の管理は上手ですよ。

但し、正直26歳で児童養護施設の指導員になった時にはそれ以外の事が出来ていなかったので苦労しました。母秋江さんは自分が早くに病気になり亡くなる事を理解していたかの様に姉2人には家事仕事をしっかりしつけた様に思います。

本当は単なるわがまま娘を貫いたと言う考え方もありますが・・・。甘やかされて育ったわがまま娘が目の中に入れても痛くない育て方をしたのですから私が最悪な人間だった事は間違いない事実です。私がめちゃくちゃ勉強をしたのは26歳で指導員になり学習指導をしなければいけない立場になった時です。

本当にとろくさい人間だったら「中学生に勉強を教えるのは無理」と言ってすぐにでも辞めてしまうのでしょうが母秋江さんの遺言である「蒔かぬ種は生えない。一杯種を蒔け。」の教えがあったからこそのいまだと思っています。

母秋江さんのフィーバーシリーズその②

昭和30年代初期は日本も高度経済成長時代前でまだまだそれほど豊かで無くて、何故か卵の値段はその頃も1個10円と言う事でなかなか貴重な時代でした。そんな中で姉2人は1個の卵を分けあっていたのですが、末っ子の私だけは1個を食べる事が出来たのです。

母秋江さんの考え方は「ヒロシは体が弱いし食も細いので食べれる物をしっかり食べないといけないのでお姉ちゃん2人は半分で我慢しなさい。」と言う事でその頃の私は「それが当然な事」と思っていました。姉2人も母秋江さんには逆らえない雰囲気があり、私が少しでも家の仕事を手伝ったりするとめちゃくちゃ褒められて、姉2人は「やって当然な事。」と言う事でそれが当然な事と思っているヒロシ君なのであります。そんな状況に不満を持っていたのが次女春子さんだったのです。だからその頃の天敵は次女春子さんだったのであります。しかしながら、母秋江さんがしっかりガードしていてくれたので太平楽でいられたのです。

※春子さんに悔しがられると思うのですが父進さんの夢を見たのです。ひょっとしたら母秋江さんのコラムを書くと宣言したから「ヒロシ、お父ちゃんも宜しく」と言う事で夢に出てきたのかな。

母秋江さんのフィーバーシリーズその①

朝のお墓参りで妙応寺の参道のトンネル(私はトンネルと言わずに何故かマンボウと言っていますが。)のところまで来てふと「最近母秋江さんの事を良く話題にしているな。」と思い付き「よし、コラムで母秋江さんシリーズを書こう。」との思い付きで本日からしばらくの間「母秋江さんシリーズ」で行きます。但し、トピック的に違う話題になることはあると思いますが、しばらくは「秋江さんシリーズ」でいきたいと思います。何度も書いた事も含めて書く事にします。

私が生まれたのは昭和28年5月16日で育てるには一番楽な時期に長女光子さん、次女春子さんの後を受けて生れたいわゆる末っ子の長男と言う文字通り甘やかされる環境の中で生まれたのです。しかし、私は生まれて半年が経過する頃に30秒程心臓が停まっていて、不思議な事に息を吹き返して今に至っているのです。(心臓が停まってからの方が圧倒的に長いです。)末っ子の長男で虚弱と来れば大切にと言うか大事にされるのは当然の理。しかも母秋江さんは春吉じいさん(昔の相場し)にとって可愛くて可愛くてたまらない末娘なので跡取り息子がいるにも関わらず養子に父進さんを迎い入れたわけだから、母秋江さんは地元では天下無敵。

そんな母秋江さんが虚弱な末っ子の長男を真綿に包むように私を育てるわけですから大変な逸話は一杯ありますので明日からのフィーバーにご期待ください。

「地獄に仏」とは正にこのことか

令和5年11月3日

昨日予告した東濃支部の支部会の事を書くのですが、先ずは支部会の定刻に間に合った話からします。この事が正に表題の通り「地獄に仏」の話しですから是非に読んで下さい。支部会は中津川市「ひと・まちテラス」と言うオープンして半年くらいしか経っていない建物で「地元の方でもあまり行ったことがない」との事でしかも、開催責任者の方から「駐車場がややこしい。」と事前に聞いていたので「早くに出発しよう。」と言う事で開始時間は13時30分からで車のナビで行程時間を検索したら1時間30分程度だとわかったのですが11時に和合の施設を出発して、昼食は大垣インターチェンジ手前のコンビニでおにぎりとパンとお茶を購入して車に積み込み大垣インターチェンジから高速道路に乗り東海北陸自動車道に入り中津川に近いサービスエリアの駐車場でコンビニで購入したパンとおにぎりを食べて「十分に時間があるな」と中津川インターチェンジを目指し中津川をおりて、ナビの指示に従い目的地に向けて進めて行く時に「新しい建物なので地番まで入れても入れた数字が出て来なかった事に不安を覚えながら進めて行くと「多分近くまで来ているはずなのに目的地がわからない。」と言う事でコンビニに飛び込み聞いてみるとしっかりと教えて下さるのですが私には地元の建物がさっぱりわからないので、大体のイメージで車を動かして行き、またまた不安になり食べ物屋さんに入り聞くと親切に店の外に出て教えて頂いたので「良し、これで行ける。」と思ったらその信号は一方通行で入る事が出来ず、その信号をやり過ごし入れる所で右折したら目標としていた建物の裏正面に出たのでそこにあった駐車場に停めようとしたら「この駐車場は月極めだから駄目ですよ」と言われて細い路地を通って表側に出たのですが「駐車場らしきものがない。」と車を停めて思案をしていると私の車の右横に車を停めて「ひと・まちテラスの駐車場を探されているのですか。」と聞かれたので「実は駐車場がわからずに困っていたのです。」と言うと「私の車の後について来て下さい。ご案内します。」と言われて、「これぞ正しく地獄に仏。」駐車場まで案内して下さり車がから降りて建物までの行き方を教えて頂いたのでお礼を言って名刺をお渡ししました。車に書いてあったのには「図書館」と書いてあったので「ひと・まちテラス」内にある図書館の職員さんだとわかり「わざわざ誘導していただいた事に感謝です。」結局会場に13時25分に着いたので迷惑をかける事なく支部会に参加する事が出来ました。リピーターの皆さん人が困っている時に「何とかしてあげたい。」と言う方はまだまだおみえになるのでまだまた捨てたものでは有りませんね。

不思議に思っていた月の疑問が解けました

令和5年11月2日

「解けた」と言うより「納得した。」と言った方がリピーターの皆さんにとって、よりわかりやすいかも知れません。そんなに仰々しい事ではないのですが。

今、原稿を打ちながらも私の思考の仕方が「粘っこくなっているな」と自分自身でも思っています。正直小さい頃の私は「何に対しても興味を持ってやりきる。と言う事のない人間でしたのに・・・。」5時過ぎに綺麗なお月様を拝みながら「満月の様なお月様を何日拝めるのか」と思いながらしみじみ見つめていきはたと気が付いたのが私の結論です。

一つには空気が透き通っているので鮮やかなお月様であること。

二つには私の目が近視で乱視が入っているためだと理解しました。でもね、毎日綺麗なお月様が見られるのは幸せな事だとリピーターの皆さんも思われませんか。

私は毎日の生活で素敵だった事を思い浮かべながら、常にブラス思考で頑張りたいと考えていますのでこれからも宜しくお願い致します。

明日は本日の東濃支部での武勇伝と素晴らしい出会いについて書きますので乞うご期待を。

今朝お墓参りの時に思った疑問について書きます

妙応寺の参道を歩いていて疑問に思った事なのですが、いつもは当たり前に通っている国道21号線及び東海道本線の下にトンネルが2つあるのですが、このトンネル2つは元々が山だったからトンネルにしたのかわざわざ土盛りをして敢えてトンネルにしたかと言う疑問です。と言うのは妙応寺は室町時代から続く曹洞宗の別格本山ですから山門の目の前に小高い土盛りがあるのは不自然だし、かといってわざわざ土盛りをして道や鉄道を作るのも変だしと全く唐突に悩んでいるのです。もし、土盛りをしてトンネルを作ったとすると当時の寺の方丈やそれに関わる方々が良く理解したなと思うからです。私が本部施設の新館を増築した時に本館と新館を結ぶ通路が川の上を通ると言うだけでも難しかったからです。しかも、妙応寺の場合はトンネルからお寺を見るわけだから景観にも問題があるし難しい問題だったのではないかと一人考えていたのです。多分その時代での都合もあったのでしょう。私は今の有り様しか知らないので何の違和感も持たないのですが、出来た当時の人達にはかなりの違和感があったと思います。

※昨日から極端に行数が減った事にリピーターの皆さんはお気付きになられていると思います。今の私には時間的に限界であると共に言いたい事を端的に書くのも悪くないと考えたからですのでご了解下さい。

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