2021年08月の記事一覧

本日は内科受診と本館のお参りです

本日は土曜日なので公的な役割が無いのでしっかりと私的な事と施設の事を頑張りたいと考えています。但し、内科受診の前に身内の対応で中古車の契約に立ち会わなくてはいけないので、(原稿を打っていて9時30分からの約束を変更する事を忘れていることに気が付きました。忘れてしまうと相手の方に失礼な事になるところでした。)血液検査だけ先に済ませて契約に立ち会う事にしなければいけないので、午前中は結構にタイトですが頑張って対応して、午後からの本館1階、2階のお参りは心落ち着けて頑張ります。だって、本日は21日で弘法様の日だから。仏壇に手を合わせる機会が多くあるのは大変幸せな事だと思っています。

中古車の契約についてはお値打ちな契約がスムーズに出来たので内科受診予約の時間までに時間があったので一旦施設に行き、その後時間を見計らって診療所に行きました。血液検査については、コロナの影響もあり酒席が激減している為かガンマ何とかの数値はかなり良くなっていて、血圧の数値については正常値との事で大変気をよくしました。

診療を終えて診療所の3階にこの4月に開設された看多機に入居されている方が地元の方で近々本部施設の利用となる方があるので様子を確認しにいくと、私の事を覚えてみえて「若山はんお腹が出てきたね」の反応には私も苦笑いするしかありませんでした。診療所での面談を終えて再び本部施設に帰ると12時40分になっていましたので急いで昼食にして(メインは冷やし中華でした。)午後からの本館1階、2階のお参りの体制を取りました。1階のお参りは少し不満が残るような状況でした。と言うのは職員の準備の様子からフロアの責任者に係長がいたにも関わらず『ただやればよい』的に感じたからです。取り敢えず苛つきを覚えながら2階に移動すると1階とは比較にならないほど準備にしても入居者さんの雰囲気も良かったです。だからお経にも力が入りましたし、カラオケの準備もしてあり、お経を終えてから5曲も歌わせて貰いました。改めて思ったのは『職員の対応次第で同じ企画でも違ったものになることを。

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15時30分に盲養護老人ホーム    和(なごみ)の事務長との約束をしていて、事務長には入居者さんの人数が少ない中での体制作りについて理事長としての私の考え方について話をしました。本日は土曜日と言う事で公的な対応がなかったので早めに家に帰らせて頂きました。週明けからはよりギアをあげて頑張りたいと考えています。

《余談》

朝の食事を終えてから食後の薬を袋から出し手に持ち口に入れようとしたら4錠の内の3錠は口に入ったのですが1錠だけが入らず、どこにあるかなと探そうとするとお腹の上に乗ったいましたので探す手間は必要がありませんでした。と言う事はお腹がぽっこりしているのもたまには役にたつと言うどちらかと言うと『トホホ』の話しでした。

『悪循環になる前に』・・・一日で断ち切れた

私の小さい頃は文字通り『意志薄弱』で何か目標を決めたとしても何だかんだと言い分けをしては止めてしまう事ばかりで、その最たるものがこのコラムでも書いた『わら半紙に真っ黒になるまで英語の単語を書くかく大作戦』だったのですが、3人の内の剛君と宏君は見事に脱落してしまったのですが、宏君の脱落理由は「3日目にしてペンだこが出来て痛くて書けない。」との何とも情けない理由でしたが、一事が万事こんな調子で全く達成感のない幼少期だったように思います。

そんな私が頑張れるようになった最大の理由は何と言っても四国遍路だと思います。四国を集団で歩いていると私よりも体力がないと思われる方が必死になって歩かれているのに私が弱音を吐く訳にはいかんし、集団から遅れる訳にはいかんでしょ。「もう歩きたくない。」と思うような難所での山歩きやいつまでも続く階段(そんな事は決してないのですが)そんな時にもみんなは弱音を吐く事なく頑張っているのに私だけ脱落者になる訳にはいかんですから。そんな時に『一歩前に』を繰り返している内に目に見えない力を頂き元気になるのです。そんな中から達成感を身をもって知ることが出来て成長させて貰ったように思いますし、身体的な変化として冬場にあれほど悩まされた『霜焼け』が四国遍路を経験した次の冬のシーズンからは一切無いのです。これは私が『徳』を頂いたと言うべきなのかも知れません。

しかしながら「血の循環が良くなった」とか「丈夫くなった」とか色々な事が言えるのかも知れませんが私は純粋に『仏様による見えない力』だと信じています。

そんな訳で、昨日は出来なかったウォーキングとお経が一日で復活出来たのは「素晴らしい。宏君を誉めてあげて下さい。」と自画自賛です。今は(午後6時29分)家に帰ってきてコラムを打ちながら気が付いた事は昨日は朝も時間的に余裕があったにも関わらずコラムの原稿は一切打てず(「打たなかった。」と言った方がより正確だと思います。)和(なごみ)の施設に行って全体会議でしっかり職員さんに話をさせて貰い、その後本部施設に帰り昼食後はリモート会議が16時過ぎまであり、烏野先生がみえたので幹部会前に打ち合わせをして、幹部会の時間になり引き続きの会議となり、幹部会では結構に熱くなりながらの議論だったので時間もかかり、家に着いたのは20時過ぎで、お風呂の中でも布団の中でもコラムを打っていてコラムを打ち終えたのは22時過ぎになりました。

その時つくづく思ったのは「忙しい方が時間を上手に使う事が出来る。」と言う事でした。その事を痛切に感じたからこそ一日で復活できたのだと思いました。「小さい頃のひろっちゃんとは違うぞ」当たり前か私もよく考えたら68歳だった。いやいや、よく考え無くても68歳なのであります。いやいや、生年月日ではそうだけれどのますます活動的な私ですから毎日が充実している事に感謝すると共に毎日が刺激的な事に喜びを感じているのですがリピーターの皆さんはこんな私の生き方をどのように思って頂けますか。私は少なくても「今日一日何をしようか」の毎日は真っ平御免ですから。

『百聞は一見にしかず』の話

令和3年8月19日

本日は午前中に盲養護老人ホーム優・悠・邑    和(なごみ)の全体会があり、最初に理事長である私から会計責任者等の辞令を渡し、ついで各委員会からの報告と提案があり、正直4月1日から事業開始してから4ヶ月弱、新設施設に移ってからだと3ヶ月弱で吉澤施設長はよくここまでに職員の頑張りを育てたものだと思いました。委員会の報告の後は吉澤施設長が職員の慣れからくる『雑さ』についての指摘があり、その中で入居者さんを前にして「見張っといて」との発言が現象的なものとしてある。との話には「聞き逃すことが出来ない。」と思った私は吉澤施設長の話の後を引き継いで「見張っていなければいけないとは普通は悪いことをした人に対して使う言葉だ。入居者さんは犯罪者等では絶対にない。大切にお世話させて頂く方々である。つまり、最大限の敬意と尊厳を持って接すしなければいけない。」とややきつい話し方をしました。その後は『百聞は一見にしかず』の話をしました。その時には私の体験をした本館開始時の話をしました。「平成10年5月18日に事業開始をして半年も経たない頃は職員も慣れない状況の中、頻繁に救急車の依頼をしたものです。慣れない職員集団ではありましたがあまりに頻繁に救急依頼をしていたので救急対応は手慣れたものになりました。つまり、『習うより慣れよ』を地で行く事が出来ました。今は救急依頼は年に3回もないので対応をしっかり出来る職員はあまりいないのが現実です。但し、万が一救急対応をしなければいけない時の為に机上訓練は本番を想定して真剣に取り組む必要があると話をしました。そして私が体験した救急対応の話をしました。それは、施設の事業開始をして1年も経過していない時に22時過ぎに私の携帯に連絡が入りました。第一報は「本日からショートステイを開始された方が部屋に見えません。」との事だったので「しっかりと落ち着いて探して下さい。」と話をしてから外出着に着替えて車に乗り込み運転していると「玄関から外を探したら石垣の下で倒れられていて頭が割れています。」との報告を受付、私は正直「6年も苦労して造った施設だけれどもこれで終わったな」と思うと同時に足がガタガタ震えたのを覚えています。ところが何とか施設に着き施設内に入ると、頭が割れていたと報告を受けた利用者さんが椅子に腰掛けニコニコされていて(もちろんタオルで頭を押さえてではありますが)事情を聞くと石垣の上から見てしっかりと血が流れていたので頭が割れたように見えたとの報告を受け、ぽっとした段階で救急車を手配して病院で縫って頂き頭にネットをして貰うとお医者さんから、一晩様子を見たいのでネットをとられないようにしてみていて下さい。」と言われた時の事を今も鮮明に覚えています。と話をしました。つまり色んな事を入居者さんから教えて頂き職員は成長させて頂く事が出来る。しかしながら少し慣れてくると『世話をさせて頂くが世話をしてあげている』と勘違いをしてしまうことがある。しかしながらそのようには絶対になってはならない。『習うより慣れよ。だけれども、決して世話をしてやっているのではない。』と私はいつも自分を戒めています。職員の皆さんも少し慣れてきた中で決して上から目線の対応をしないで、尊厳ある対応に徹して下さいと話をしました。リピーターの皆さんは私の話をどのように受け止めて頂いたでしょうか。出来たらご感想など聞かせて下さい。

本日も目一杯の予定が入ってますが頑張ります

いつもの日課となった朝5時過ぎに起きてのウォーキングとお経が昨夜は22時過ぎの就寝になった為か一旦午前4時前に目が覚めたのに、いつの間にか二度寝をしてしまい5時5分のアラームによって起きました。(保険をかけておいて良かったです。)但し、その後の行動は早かったので、6時5分には湯船に浸かっていました。本日は9時30分から和合で幹部会及びお参りがあり、午後1時30分からは本部施設に戻り全国老人福祉施設協議会の正副委員長会議がリモートであり、場所を関ヶ原町の『やすらき』に移動して16時から地域ケア会議があるのですが(リモート会議が16時までなので少し遅れての参加になりますので、リモート会議後は急いで行きます。)これだけ充実した日々が送れるのは私自身が健康に生活させて貰っているからとの感謝の気持ちばかりです。朝家を出た時にはどんよりとした曇り空だったのですが和合の幹部会(事業戦略会議)とお参りが終了して和合の施設を出た時には太陽が顔を出していたので嬉しくなりテンションも上がりました。施設の駐車場に着いたら盲養護老人ホーム優・悠・邑    和(なごみ)の車があったので「私に用事があるのなら、本日の昼食時間も昨日同様生のみか」と思うと同時に「もし私に用事があるのなら前もって時間を合わせるべきだ。」と思いつつ施設の中に入って行くと和(なごみ)の事務長が決済印を取りにきたとの事だったので、「私のスケジュールはパソコンで確認出来るし、ましてやアポも取らずに出てくるとはどういう事だ。」と思うと同時に「配慮が出来、理事長を支えるのが事務長の役割だと思うのだが」とも思い、「最初が肝心」(和の事務長が決済を取りに来たのは初めて)なので、しっかりと指導しました。そうは言っても決済印を押して、最後の書類が振り込み料の決済で5000円近くの数字になっていたので「業者の振り込みは長いおつきあいをしていくなら業者側にもって貰えるようにお願いするのも事務長の裁量だぞ」と指摘しました。事務長が帰ってから慌てて13時30分からのリモート会議前にバタバタと確認しなければいけない案件があり、何ヵ所かに電話をしたり書類の確認をしたりしついたので、本日の昼食も殆ど生のみでした。取り敢えず13時28分にリモート会議の画面をクリアして、会議への迷惑をかける事はなかったので良かったです。13時30分からの会議は広範な話題があり予定の16時を15分遅れたので、慌てて次の会場である関ヶ原町のやすらきに行きました。当然のように会議は始まっていましたが指定された副委員長席に座りしばらくは内容確認の意味もあり黙って聞いていたのですが中身が理解できてからはしっかりと私なりの意見を言わせて頂きました。明日も午前10時から和(なごみ)て全体会議があり、終了後13時30分から全国老人福祉施設協議会の総務・組織委員会がリモート会議であり、17時15分からは本部施設の幹部会があるのでしっかりと頭を切り換えてそれぞれの会議に挑みたいと考えています。リピーターの皆さんも思いませんか。忙しいからこそ時間を有効に使っているのだと。

水分補給の私の考え方と私の思い入れ

令和3年8月17日

今年の夏は異常な暑さで何もしなくても汗が出てきたり口が渇くのを覚える毎日で、自ずと飲み物を口にする回数も量も増える日が続きました。(停滞前線の影響からか、ここ2日間は比較的に涼しく過ごせてます。)私はお陰さまで元気に仕事に励んでいますので水分の量も回数も自己管理出来てます。最近はリモートの会議が毎日のようにあり(昨日は午後にありましたし、本日は午前中に予定されてます。)今ではリモート会議の準備をしていると大抵は水野係長がさりげなく飲み物を用意してくれてます。

さて、入居者さんの水分については、科学的介護の一貫として『オムツゼロ』を本格的に取り組みだした時に、残念ながら家庭の事情で退職した当時の服部課長がそれぞれの入居者さんの水分量を厳しくチェックしていくなかから認知症の症状が抑えられたりする事を実践で知ることができました。その時から『水分の重要性』については職員も認識するようになり、暑い日が続く状況の中、水分量については厳しく言ってきた為に水分量についての報告はしっかりと出来ているのですが、『水分量』にばかりに意識が言ってしまい、回数については少しずつないがしろになっているのではないかと思える節が出ているように思うので、改めて水分摂取には『量』と『回数』の両方が大切だと言うことについて述べる事にします。

本日は午後1時30分から岐阜県福祉会館で岐阜県老人福祉施設協議会の正副委員長会議があったのですが午前中の全国老人福祉施設協議会制度政策検討会議が定刻(12時)を20分超過したので、昼食のうどんは殆ど生のみ状態で食べて、(私は蛇か)食べ終わると車に急ぎ乗り込んで、13時20分に目的地の駐車場に着いたのですが、凄い勢いで雨が降っていて、しかも車には傘がない。でも館内に入らないといけないので走って館内にはいるとスーツはべたべたになりましたが何とか定刻に間に合い私の挨拶と共に進行で会議が進み、15時20分に終了し16時に約束してあった岐阜県庁高齢福祉課で災害派遣の打ち合わせを県庁側が5人で老人福祉施設協議会側は林副会長と私の2人でさせて頂きました。

本題に戻ります。本日は所によっては激しい雨が降っていたので雨に例えて話をしますと乾ききった畑の土に毎日朝と夕方に如雨露で水をまくと適度に水が満たされます。しかしながら、本日のような激しい雨は土の中に染み込む以上には水を受け入れてくれないので何処かに流れてしまいます。人間も一緒です。乾ききった喉に一機に水を飲んでも、しばらくするとまたまた喉か乾きます。喉の乾きを覚えた時に少しずつ水を飲んだ方が体にとっては満たされるのです。元気な方であれば必要に応じて飲む事が出来るのですが、要介護者である入居者さんにはこまめな水分摂取によって満たして頂くしかないのです。表層雪崩と言う現象がありますが必要以上には土は水を欲しません。リピーターの皆さんもご理解頂けましたか?何事も『ほどほどに』は人間も自然も同じだと言う事を。本日のコラムで何が言いたいかを理解して頂けたか自信がありませんが理解出来なかったリピーターの方には「ご免なさい。」3年近く毎日書かせて頂いているとこういう日もありますがお許しください。

 

 

早朝5時3分に地震がありました

昨夜はと言うより昨日は異常に眠くて18時には夕食もお風呂も無しで寝て、一旦20時30分に目が覚めペットボトルの水を飲み、しばらくはテレビをみていたのですが(内容をまったく覚えていません。)それから再び寝て再び目が覚めたのは午前4時30分。ウォーキングマシンで歩くにしてもいかにも早すぎると言う事で、ベット上でうだうだしていた午前5時3分にガタガタっと揺れました。地震です。

テレビの情報では滋賀県北部が震源地だったのだそうですが震度の数値では岐阜県揖斐川町が震度『4』と言う事で一番大きくて関ケ原町は震度『3』との事でした。その後も余震が何度かあったようですが、私は施設に来てから一回だけ感じました。

本日は午前中に坂口法人顧問(前岐阜県社協事務局長)との打ち合わせと10時から本部施設の係長・主任会議があり、午後1時からは全国老人福祉施設協議会デイサービス部会の会議と会議が続きました。午前中に開催した係長・主任会議は今年度から開催しているのですが段々と密度の濃い会議になってきたのはそれぞれ参加した職員のレベルが上がってきた証しかと感じています。

午後1時からの全国老人福祉施設協議会デイサービス部会の4者会議は(担当副会長、部会長、副部会長、幹事と事務局)部会長は北海道、副部会長は滋賀県、幹事は福井県からの選出でそれぞれにしっかりとした考え方をもった方ばかりなので意見が途切れる事もなく16時までの3時間が密度の濃いものになり、改めて『3人寄れば文殊の知恵』とはよく言ったものだと思いました。

ところで九州を中心としての豪雨はまだまだ続くようなので気を付けなければと思っているのですが、最近の豪雨では『想定外の降り方』をするので、私自身は休める時に休んで、いざと言うときにはいつでも対応出来るように心掛けていなければと思っています。本部施設には防災倉庫が設置されていて、5年の月日が経過したので、5年の賞味期限が8月末で切れるラーメンと9月末で切れるうどんを食事の中の一品にするために若園管理栄養士を中心にして提供の仕方を検討しました。そして検討をしながらつくづく思ったのは、賞味期限が切れるまで保存出来たのは災害もない5年であったと言う事であちこちでの異常な災害の報道を聞いているので、災害もなく非常食を提供出来る事に感謝しなければいけないとも思いました。

朝5時3分の地震も被害がなかったわけですが、改めて防災についての体制をとらなければいけないと思うのですがリピーターの皆さんも『備えあれば憂いなし』お互いに留意したいものです。

父進と朝からバトルをしてしまいました

令和3年8月15日

雨の状況によっては朝早く施設に行かなければいけないし、福井市までお通夜に行って疲れたので、先般長男誠と法要の後で飲んだ飛騨の酒『山車』(辛口の酒です。)が残っていたので残りのお酒を夕食時に飲みました。だから、寝付くのは早かったのですが、宿直者の北島部長から22時59分(履歴によって確認)に携帯が入り「何があった」と無理矢理目を覚まし話を聞くと「新館西の機械室の天井から雨漏りがしていたのでメンテをお願いしている大倉さんに連絡したところ、お湯の配管は昼間は止めれないので、これから向かいます。との事です。」との報告に「大倉さんの作業がどのくらいかかるかわからないから大倉さんが来たら北島部長は寝て、大倉さんの作業が終了したら教えて貰っての対応にして下さい。」と指示をして、「どおせ北島部長は寝んだろうな」と思いながら布団の中で待機しているとメールでの報告がきたのは午前1時27分。直ぐに携帯で「遅くの対応ご苦労様でした。即に休んで下さい。」と言って私も再び寝ようとしたのですが、眠りが浅い為か、同じ夢の繰り返しで目が覚めて正直眠りが浅いままいつものように5時過ぎに起きてウォーキングとお経をして今は(午前6時52分)お風呂でコラムを打ってます。実は繰り返しの夢なのか頭の中での葛藤なのかは定かでないのですが、新規事業を展開した盲養護老人ホーム優・悠・邑    和(なごみ)の入居者がなかなか集まらない状況で真っ赤っかな経営状況についての後悔の念によって(「あの時このように判断して行動すれば良かった。」のような事です。)金縛り状態 だったので、ウォーキングマシンで歩きながらお経をあげていて、父進さんの写真の顔を見ていると父進が「しっかりと理念に基づいて頑張れ」と言われたように思ったので私は「一杯いっぱいやっとるわ」と言い返すと、これまた父進が「だったら自分が決めた信念を貫け」と言われたので「わかっとるけどしんどいんや」とまたまた答えると父進が「だったら貫け」と駄目押しされたので「わかっとるけど思い通りにいかんのや」と言うと隣にいた母秋江さんが「いっぱい種を撒いとるのは知っとるよ。種の中には悪い種も混じっているから、悪い種から生えたのはしっかり刈りとらなあかんよ」と言われたように思った瞬間に「はっ」と気が付きました。「そうか、悪い種を撒いたのも私なんや。くよくよしていても何ともならん。だったら今の現実を受け入れてやれる事をする事によって悪い種を刈り取るしかないのか。」と思うと同時に大粒の涙が溢れてきました。大袈裟な表現ではなくて朝の出来事何です。「そうか、本日は8月15日でお盆供養の日か」と思った瞬間に「この世には父進も母秋江も存在して無いけど私の中には間違いなくいてくれているんだ。」と思いました。リピーターの皆さんも思いませんか先祖の存在って有りがたいと。そんな事を考えながら寝不足な状態で施設に行ったのですが、10時30分から夏祭り最後の御輿を担いで(私はリヤカーに乗り担がれたような状態でしたが)「わっしょいわっしょい」の掛け声で威勢よく各フロアに乱入して、『帰って来いよ』の替え歌の『3太郎音頭』を私が歌って桃太郎、金太郎、浦島太郎と赤鬼、青鬼が登場して、アンコールの声もあがり、結局10曲も歌わせて貰い、朝の沈んだ気分はぶっ飛びました。つまり私は入居者さんによって元気を頂いていることを改めて理解しました。リピーターの皆さん、こんな生き方しか出来ない私ですがこれからも再生『若山宏』でいきますので改めてよろしくお願いいたします。(追伸)本日は眠くて仕方がないので17時過ぎに帰らせて貰い今は(午後5時42分)夕食も無しでお風呂も無しでパジャマに着替えて寝る体制です。昨夜の分もしっかり寝て明日から頑張りますのでリピーターの皆さん宜しくお願いいたします。

昨日はお墓に行けなかったので・・・。

12日の父進の命日にお墓のお参りをしたのでうっかりしてお盆供養の『先祖お迎え』(こんな言葉があるのかは知りませんが私はそのように言ってます。)が出来なかったので本日は施設に行く前にお墓に行き、盆提灯を飾り、お線香をお墓から持って帰る事をしたいと考えています。「12日に行ったばかりだし、そんな事しなくても良いのでは」との考え方もあるのでしょうが、日本の風習を蔑ろにする気持ちにはなれません。本日は午後からデイサービスでの夏祭りがあるのでギアを上げていきたいです。本日は3太郎行列もあるので尚且つ頑張らなければ・・・。夏祭りが終了後は福井県老施協の役員の父親のお通夜があるので水野係長の運転で福井市まで行く予定です。私の養母英子の葬儀にも来てくれたので必ず行かなければと考えています。但し、このコロナ感染症の状況下なので焼香とご挨拶をして長居は出来ないとも考えています。

私の口癖ですが久し振りに書きます。それは『予定は未定であり決定ではない』です。と言うのは朝の予定が変わりました。と言うのは職員に体調を悪くしたのがいたので3太郎行列は急遽夏祭りファイナルの明日になりました。(福井市に向かっていた時に北島部長からメールがきて10時30分スタートになりました。)雨の降り方がすさまじいので入居者さんの夕食を30分早める指示をすると共に福井市での通夜のお参りについてはデイサービスでの夏祭りでのカラオケ2曲(北島三郎の『祭り』と『北の漁場』)を気持ちよく歌って(デイサービスの利用者さんは聞き上手の方が多いから)一旦家に帰り礼服に着替えて水野係長の運転で14時40分に施設を出発して今は福井市に向かってます。雨が降っているのでガラケーの画面が見やすくてガラケーの携帯でコラムを打ってます。この調子でいけば、通夜から帰った時までに本日のコラムの連続記録を更新するのは楽勝かな。いやいや冒頭に書いたように予定は未定で決定ではないのルールからいくと油断は出来ませんが。『上り坂、下り坂にまさかの坂』がないとはだれも言い切れないので。連続更新記録と言えば2018年8月24日から続いているので、本日が8月14日ですから後10日で3年続いたと言う事でしかも、最初の頃(2008年開始です。)はせいぜい500字くらいだったのが今は少なくても1000文字は書いているのだから、ここは自分を誉めても良いのではないかと思うのですがリピーターの皆さんはどのように思われますか。正式には18時からの通夜法要だったのですがこのコロナ禍で感染症対策の一貫として、16時からまわり焼香が出来るようになっていたので、雨が激しくなって日が沈むと運転をして貰う水野係長に申し訳ないので早くに会場に着けば色んな意味で安心だと考えています。実際に16時10分に着いてびっくりです。だって駐車場は広いのに一杯で会場内に入って行っても多くの方がみえて、尚且つ「受付はどこかな」と思っていたら福井県老人福祉施設協議会小川会長が私を見つけて受付に案内して下さり気が付いたら役員の方がずらっと並んで挨拶をして頂いて面食らいました。そしてつくづく「福井県老人福祉施設協議会の団結力の強さを感じた次第です。リピーターの皆さんも思いませんか『良き友は有り難い』と。私も見習うべき事はしっかり見習っていきたいと思いました。それにしても、この雨はいつまで降るのかね。『てるてる坊主』に対抗する手立てがあればリピーターの皆さん教えて下さい。今は(午後6時56分)で我が家の湯船に浸かってリラックス出来るのも水野係長が凄い雨の中を安全運転でぴったり18時に施設に着いてくれたから。リピーターの皆さんも思いませんか。何事も『感謝』だと。但し、本日は少しだけ冷酒を頂き早くに爆睡して早くに起きて雨の状況を確認しなければと考えています。

 

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甘甘じいじのメロメロ物語(そんな大袈裟なものとちゃいます)

令和3年8月13日

大袈裟過ぎていて自分でも恥ずかしいのですが、年に5、6回しか会わないからこそ可愛くて可愛くて仕方ないのか、それともやっぱり孫は文句無し理屈なしに可愛いいのか。多分後者だとは思うのですが・・・。昨夜も我が家に来る車の中で「じいじと一緒にお風呂に入る」と言っていて、お参りが終わったら、私より先にお風呂の方に行ってしまう姿を私はめろもろのいそいそで孫の翔を追い掛けていました。お風呂に入る前にシャワーを頭からかけても大丈夫で一緒に湯船に入ってもおとなしい。

一旦湯船から出て頭を洗う為に頭からお湯をかけた時は両手で目の辺りを一生懸命に押さえていて嫌がる素振りなし。「もう少しじいじを困らせるかと思ってたのに。」夕食の買い物は事前に予約していたお寿司屋さん、鰻屋さん、肉屋さんに行って私が貰ってきたのですが孫の翔はお寿司屋さんで特別に少し小さめのお稲荷さんとツナ巻きを美味しそうに食べてくれて、甘甘じいじは大満足と言うお話でした。

 

今朝は6時30分に施設からの連絡がきました

いつものように朝5時過ぎに起きてウォーキングとお経を唱え、汗びっしょりになり、水のシャワーを浴びてから湯船にゆったり浸かっていたら本部施設から携帯に連絡が入り緊張しながら電話に出ると「本部施設1階の食堂に行くところの廊下の天井から水が漏れています。メンテ契約をしている大倉商店に連絡しました。」との報告を受けたので、改めて大倉商店に連絡すると、「自分は行けないので、代わりの者に依頼する連絡をしてます。」との事だったので「私もこれから確認に行くので大倉さんも取り敢えず来て下さい。」と言って慌ててお風呂から出て急ぎ着替えて本部施設に向かいました。取り敢えず水漏れしているところに行くとバケツが5個並んでいましたが床が濡れているところもあったのでモップで床ふきをしてから丸いバケツより四角いのを探していると、夏祭りで使用する浴衣を入れる化粧箱があったのでバケツとの入れ替えをしていると大倉さんが来てくれたので天井の石膏ボードを外して貰うと比較的体が入る場所だったのと、状況をよく把握しているので、手際よく作業をしてくれたので9時前に直してくれました。私のスタンスは自分が納得するために先ずは現場を確認することから始めて、一件落着です。何もしないでいるのは私の主義ではないのて本日も動いてしまいまいたがリピーターの皆さん、私はいつまでも出来るわけがないので・・・。いやいや死ぬまでこのスタンスは変わりようがないと私自身は考えています。

本日は父進の命日です

令和3年8月12日

平成4年の今日が父進の命日です。と言う事は父進の存在がこの世からなくなって30年が経過したのか。早い気がしますが、この30年で私の生活は激変したと言っても過言ではありません。私が38歳を迎えようとしている平成4年3月で児童養護施設を退職した時は正直自分が進むべき方向が明確になっていない状態(思いのみで具体性がないまま)のままで父進に退職した事を報告しました。しかしながら父進は「自分で決めた事を全うしなさい。」とのみ言われて、逆に責任の重さを感じました。その時長男誠は7歳で次男諭は2歳だったのです。確かにあの頃の私は理想のみを追い掛け現実を理解しない生き方だったはずなのに、父進は遠くから見ている文字通り『木の上に立って見る=親』そのものだったと思います。(自慢ではなく絶対に私には出来ないと思っています。)まだ、その頃の父進は関ヶ原町歴史民俗資料館の館長は辞めていましたが後進指導の意味で勤務してました。(満80歳でも仕事をしていて文字通り生涯現役だったわけです。)そして私は「非社会と反社会の子どもを何とかしたい」との思いで、生活の糧は大垣女子短大の非常勤講師と家庭教師と単発の講演講師でまるで霞を食べて生きているような生活だったと思います。(稼ぐより使う方が多い生活)そんな生活の中父進が6月22日に真っ直ぐに歩いているつもりが真っ直ぐに歩けなくて当時の関ヶ原病院(今は診療所です。)に緊急入院となり、8月11日の日に初めて父進の付き添いをするために病院に泊まる事になり翌朝の7時20分に父進は息を引き取りました。何も私が初めて父進の付き添いをした日に息を引き取らなくても良いと思うのですが考えようによっては、体が弱かった私が付き添いをするまでになってくれたのかと思い安心した為かフッと息を引き取ったのかも知れません。あれから30年。今は180人の職員を抱えた社会福祉法人理事長をさせて頂いているのですが、父進の底抜けの愛情と包容力と忍耐力があったからの今だと長男夫婦とその息子(私の孫の翔)と春子お姉さま夫婦が集合しての法要に際して痛切に思っています。法要が終わってからは久しぶりに孫の翔と一緒にお風呂に入り改めて成長している姿が嬉しかったです。『子どもは神童』とはよく言われますが翔も正にそのように感じました。だって、床の間に置いてある私が頂いた厚生労働大臣表彰の額の中に私の『若山宏』の名前を見つけて『わかやまひろし』と読むし、私の歳が68歳と教えると「ばあちゃんといくつ違うの」と聞いてきたので「5つ違うよ」と言うと「あばあちゃんは63歳か」と答えたのには感心してしまいました。7人も寄ってお参りをしてその後夕食を共にしての賑やかさは写真になった父進も母秋江も姉光子も養母英子もきっと喜んでいると思うのですがリピーターの皆さんはどのように思われますか。

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