2021年08月の記事一覧

司法書士の先生に相談しました

令和3年8月31日

8月24日のコラムでも書かせて頂いた地区有林の今後の対応について司法書士の先生に午後から相談に乗って頂いたのですが、自分にとってあまり興味のない事は頭に入らないと言う事を改めて理解しました。と言うのはコラムに書かせて頂いた8月24日の日に岐阜県治山課に行き今須門前地区有林に対する資料を提供して頂き資料に目を通してから司法書士の先生に連絡したので、資料の概略は理解したつもりでいたのですが、本日司法書士の先生と打ち合わせをして司法書士の先生が私が渡した資料に基づき話をしていただいているのですが、私は資料についてはしっかり見た積りでいたのに、あまりにもいい加減な見方だったと痛感した次第です。

と言うのも地権者の一覧が私の父進さんの名前も入っていたので、「父が他界して30年にもなるのにリストの中にあると言うのはかなり前から対応して無いんだ。」と勝手に思い込んで、その段階で多分次のページを見る気力がなくなってしまったのだと思います。と言うのは、次のページを開いたらそれ以降に相続変更しているのがついていたにも関わらず見過ごしていて、「殆どの方の相続変更をしなければいけない。私も相続変更をしなければいけない。」と思っていたのですが、実は司法書士の先生の指摘を受けて私への相続変更は父進さんが他界した年に手続きが出来ている事を知った次第で私自身いい加減な対応をしていた事を司法書士の先生に見抜かれた形となり、恥ずかしいし申し訳ないし、地元の長老から頼りにされたのにしっかりとした対応になっていない事に申し訳ない気持ちと同時にお引き受けした以上は司法書士の先生にお手伝いして頂きながら尚且つ岐阜県治山課の指導を仰ぎながら頑張って手続きを完了させたいと考えています。

しかしながら、改めて地区有林所有者リストで25名の方のお名前を見て思う事は25名のリストの中で昭和31年8月に払い下げを受けてから全く変更をしていない方が15名おみえになり(昭和31年と言えば65年前ですよ)3人のみがご健在ですが、それ以外の12名の方は他界されています。また、相続変更をされた10名の方の中で1人が既に他界されているので、16名の方の相続登記をしていただかないといけないので、これはかなり骨の折れる作業だと思います。ここまで登記が出来ていないのは、山の価値つまり木の価値が低くなり、昭和30年代の頃の「山持の家はお大尽」と言う時代ではなくなってしまった証しだと思います。昨日のコラムで「5年先、10年先戦略が大切」と書きましたが、山の問題は国家的戦略の中で30年先戦略が必要だと思っているのですがリピーターの皆さんはどの様に思われますか。

 

昨日ボランティア室の片付けをしていて、懐かしい映像をみつけました

令和3年8月30日

ボランティア室の片付けを時間を見つけてはしているのですが、(3日連続でしてますがまだまだです。)懐かしい中村会長(元参議院議院・全国老人福祉施設協議会会長)が出演されているDVDを見つけたので朝のウォーキングとお経を終えてお風呂に浸かり、朝食までに時間があったので改めて視聴しました。その番組とは、『小倉智昭のマッチメイク    ニッポンがおかしい08    自民vs民主・・・生活を任せられるのはどっち!?国会議員大乱闘SP《介護編のみ》だったのですが、「2008年と言う事は13年前か」と懐かしさと共にどっと涙が出てきました。だって中村会長がめっちゃお元気で番組の中でいつもの事だったのですが顔を真っ赤にして大きな声を張り上げてみえたので・・・。その中で中村会長の発言に対して民主側から中村会長に対して「だったら中村さんがしたら良いじゃないですか。」との挑発的な投げ掛けに対して、中村会長は顔を真っ赤にして、しかしながら全く詫びれた素振りも見せずに「私が厚労大臣ならやりますよ」と言われたのを改めて聞いて「テレビで放映される事等全く意に介さずの堂々と言うより、2008年と言えば参議院議院一期目の議員としてはまだ4年目でようやく総務大臣政務官に就任されたばかりの頃で(私も中村会長が入られている政務官室の机に座って記念写真を撮った覚えがあります。)よくぞ「大臣だったら」と言われたものだと思いますが、その発言はマジに思われての発言だったと今も思います。そう言う意味では2期目を半分残した70歳ての急逝はあまりにも残念だし、道半ばであったので、私は今でも中村会長のあまりに急いでこの世をさられたのが悔しくてたまりません。ここで、中村会長の略歴を紹介しつつ、私なりの中村会長への思いを語りたいと思います。中村会長は1943年1月29日生まれ(徳島県)ですから私とは10歳しか違わないのです。徳島大学を卒業後高校の教諭になられた後、中川一郎代議士の秘書等をされて政治を志され衆議院選挙では落選の苦汁を舐められ、その後地元徳島に戻られ社会福祉法人を設立して保育園や特養等を県内隈無く作られ1997には全国デイサービス協議会の会長に1999年にはデイサービス協議会と老人福祉施設協議会を統合されて自ら会長に就任されたわけです。1999年と言う事は中村会長はその時はまだ55歳だったわけですから、まるで蒸気機関車のような勢いで事業を進められたのだと思います。会長になられてからは、厚生労働省の委員を歴任され2004年の参議院選挙の比例で当選されて、政治家としての夢を叶えられたのです。私は中村会長から「馬鹿じゃ、阿呆じゃ、とろくさい」と言われたながらも色んなことを教えて頂きました。それは、私自身が法人の理事長として5年先、10年先を見据えての考え方を持つことの重要性を。その最たるものは福祉・介護人材の確保育成の大切さです。そして、自分で決めた事はしっかりと相手に伝える大切さです。今もバリバリと議員をされていたら、今頃は厚生労働大臣としての活躍もあったのではないかと私は正直思っています。人生には『もしま』と言う事はありませんので、「中村会長が厚生労働大臣だったら」等と言う事はないのですが、リピーターの皆さん。私はこれからも中村会長の教えを守り頑張っていきますのでこれからも宜しくお願い致します。

声が枯れてます

3日前から急に声が枯れた状態で少し焦ってます。だって、カラオケで歌を歌おうとしても声がしっかり出んでしょうから楽しくないです。本日は午後から家族会主催の誕生会がありますので『ハッピーバースデーの歌をしっかり歌いたいけど上手く声が出るか』と朝から心配してます。

本日も朝から良い天気で青空が見事ですが、心なしか秋の陽気になってきたように思えているのですがこのように感じるのは「結構な人生を歩んできた証ですかね」と朝から感傷的になっているのは私自身どうしてしまったのかと逆に心配してます。多分ですが、午後からの誕生会に参加すれば入居者さんから元気を貰えると思いますのでこの続きは誕生会の後で報告します。昨夜の宿直が五次部長で就寝時の報告があり、20時30分に報告の事で確認したいことがあり、連絡するとおっとり刀で「理事長が気にされていた月下美人がたくさん咲きました。」との報告に、よくよく考えてみるに、月下美人が咲く時の宿直者が五次部長の確率が高いし今回も五次部長だった。流石に毎日水撒きをしてくれている五次部長に月下美人がせめてもの感謝の気持ちなのかと思った次第です。しかしながら同時に七つも咲くとは「五次部長は偉い」と言う事でしょうか。

誕生会はいつものように家族会の吉田会長にきて頂き本館1階、本館2階、新館1階、新館2階の順にそれぞれのフロアの年上の入居者さんから順に吉田会長からプレゼントを渡して頂きその後ハッピーバースデーの歌を皆さんで歌って貰うのですが、朝の内私の喉の調子を気にしていましたが案ずるよりも生むが易しでしっかり歌う事が出来ました。

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新館1階の誕生日の方は奇しくも吉田会長のお母さんで、記憶力の良い吉田会長は「本日の最長寿やな」と満更でもないご様子でプレゼントを渡されたのですが、プレゼントを渡す前にご本人のスマホを職員に渡され動画の撮影を依頼されて「今日はいつもよりも元気やな」と嬉しそうなご様子でした。

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誕生会会場の4ヶ所を回って頂き、本館の会議室に戻って頂き、今須の空き家対策と人口移入対策の一貫として外国人介護福祉士の受け入れの中で空き家の改修をして、夫婦で住んで貰い、何れは子どもを産み育てて行く構想についても一生懸命に話し合いました。と言うのは、先般関ヶ原診療所の運営審議会のなかで、子どもを生む年齢の女性がいないから人口がどんどん減って高齢者ばかりになってしまうと言う話だったから、外国の方であっても若い夫婦が生活しやすい環境を作れば活性化につながると熱く語ったわけです。

単に手をこまねいていても駄目なので介護人材の担い手となり一人でも二人でも子どもを増やす事は大切な事だと思うのですがリピーターの皆さん、このアイディアをどう思われますか。私は喉の調子もよくなってきたので舌の回転もよく話をさせて頂た次第です。

昨日と本日、姉春子さんに手伝って貰い、片付けをしました

令和3年8月28日

全国老人福祉施設協議会の役員をしていると資料がたくさん送付されてきます。特に副会長に就任してからの6月からは倍増いやいや3倍増です。副会長に就任するまでは施設宛のメールアドレスに送付して貰ったのを事務所の職員に印刷して貰っていたのですが、あまりにも多く送付されてくるのと、返信メールを送る事が多くなったので、おそばせながら私専用のメールアドレスを作りそちらに送付して貰っているのですが1日に5件以上は届くので毎朝必ずパソコンを開き確認をするのが日課になりました。昔からの格言ですが『習うより慣れよ』とはよく言ったものだと改めて思います。

さて、本題に移ります。(あいからわず本題に入るタイミングが遅くてごめんなさい。)姉春子さんは6月にたくさん地域の方から提供して頂いた梅を入居者、利用者の方に食べて頂く為に漬けて頂いた梅干しを天日干しにするためにきてくれました。そんな姉春子さんに、ボランティア室に山と積まれている資料を私が資料分けをして、処分しても良いのをシュレッターにかける作業をして貰いました。姉春子さんと一緒に作業をすることなどなかったので姉春子さんはとても喜んでいてくれていましたし、私は片付けの効率がめっちゃはかどったのでとても有り難かったです。

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昨日に引き続き姉春子さんに作業をして貰ったのですが、作業をしながら姉春子さんがしみじみと(この話をすると確実に姉春子さんに怒られるとわかっているのですが、敢えて話を続けます。)話をされて私は心の中で大笑いをしました。(だって、本人を前にして大笑いをするわけにはいかんでしょ。)姉春子さんがしみじみと語ったのは「お姉ちゃんは最初に生まれて喜んで貰えて2番目に生まれた私が女の子だったので親はがっかりしたんだと思う。特に宏が生まれたら私はよくお母ちゃんの実家の伯母さんに預けられたから、私はいらん子のように思えていじけた子どもだったと思うわ。」としみじみと言われて、私は「今頃気が付いたんかい。」と可笑しくて仕方がなかったのですが、姉春子さんにしてみたらマジに出した答えだと思うので改めて申し訳なかったなと思うと共に、こんな話をしみじみと今になってして貰えるとは考えてもいなかった。

言う事は改めて申し訳なかったと思わなければ。と言う事はこれからは今まで以上に姉春子さんに対して懺悔の気持ちを持って出来ることをしなければとも思いました。(こんな事を書くと姉春子さんはバケツいっはいの涙を流して喜んでくれる、今はそんな姉何です。)そしてつくづく思いました。私は今68歳ですから今から父進母秋江に恩返しが出来るわけがありませんが、姉春子さんには出来る事に感謝です。リピーターの皆さん、私が本日書いた事を理解して頂けたでしょうか。改めて今から全ての状況に感謝して今まで以上に頑張りたいと考えていますのでこれからも宜しくお願い致します。

 

足音

令和3年8月27日

入居者さんがしっかりと眠られて『シーン』としている施設内の廊下を歩くときはなるべく足音をたてないようにそっと歩くのですが夜勤者の職員の中には靴音が大きいのがいたりすると「なるべく足音がしない靴に替えた方が良いのではないか」と言ってきたのですが毎日足音を聞いている入居者さんは『慣れ』もあってか、私のように気にかける方はあまりいないように思うようになりました。その代わり足音で職員が誰なのかを聞き分けられているように思います。基本的にはその足音を聞き分けて入居者さんの中には「今日は安心して眠れそうだ。」とか「少し不安だ。と言う風にです。

人間は感情の動物と言われているので、そう言う意味では常日頃の人間関係によっては同じ足音を聞いていても違った風に聞こえるかも知れないし、時にはその日の感情の持ち方によっても違うのは人間の摩訶不思議なところだと思います。と足音をテーマにして書いていて思い出したのは私が神戸北小学校の教員として4年3組の担任をしていた時に、私の事が心配だったその当時の校長先生が毎日のように廊下の窓越しに私の授業風景を見に来てくださりそのときの廊下を歩かれる時の足音は平生の歩き方よりも大きな足音がしたように思うのですが、校長先生の足音が響くと今までざわついていた教室内が急に静まり返り誰とは無しに「校長先生が来たぞ」との声があがるのです。

ある意味、涙が出るほどに嬉しかったのを昨日の事のようによみがえってきました。あの毎日の校長先生の日課は私が当時の西濃教室事務所の課長さんの指導の為の授業を見て頂いた日まで続いたのも鮮明に覚えています。今から考えたら当時の校長先生が毎日廊下越しに確認にこられた気持ちはよくわかります。だって、板書は適当で授業も思い付きの事が多かった私ですから。板書が適当になるのは授業の流れをしっかりと押さえないものだったと今になれば思いますから。そう言う意味では研究事業で真剣に取り組み板書は事前にビー紙にマジックで書いたものを張る形にしたのです。そうする事によって授業の流れが乱れる事はなくなり正直余裕のある授業になりました。

ただし、毎日毎日予習をしなければいけなかったので一見準備が大変そうですが、教育者の父進は私が意欲的に授業の準備をしているのを嬉しそうに(多分ですが)見てくれていたと思います。ただし、私は次の日の準備をしたら持っていくものの用意はしても正直片付けばしないで寝てしまうのが常でしたが、朝になるとやりっ放しのものは綺麗に片付いているのです。それは言うまでもなく父進が片付けてくれていたのです。今から考えたら大甘の父進さんでしたが、そんな息子でも毎日頑張って準備をしている息子の姿が嬉しかったんだと思います。しかしながら、そんな父進の事を「いらんことして」と思う事があります。それは今でも片付けが苦手なのです。勿論散らかすのは得意ですが・・・。

そう言う意味では、父進は私のすることが心配で心配で亡くなる直前までしっかりしていたな。大学で講義をしたり、父進の付き添いなんかをしたから安心して天国に行ってしまったとすると、リピーターの皆さんも思いませんか「もう少しフラフラしていた方が長生きしたのでは」と。天国の父進さん。勝手な事を言ってごめんなさい。

午前中に『2035の会』が開かれます

『2035の会』と言ってもリピーターの皆さんの殆どの方は「何のこっちゃ」と言う事になると思います。

『2035の会』は全国老人福祉施設協議会の組織の中で各委員会の幹事の方が全員揃った中で幹事の役割を理解して貰いしっかりとした役割を担って貰うと同時に各委員会との問題を共有するための組織なのですが、正にその2035の会が本日午前中に開催されるのです。この会を立ち上げたのは私ですので、副会長になった今も主体的役割を担わせて頂いているのです。『2035の会』は立ち上げた当初は『幹事横断の会』と勝手に言っていて、最初から組織として認められた存在ではなく、その当時の会長のお許しを得て私が始めたものだったのです。会を立ち上げた理由は「幹事と言うのは、委員会を事務局の協力を得て下支えすべきものであり、5年先、10年先の介護を担うべき存在になるための教育の場にしたい。」との思いからでした。始めた当初は長老の幹部の方から色々な形でチャチャを入れられましたが、その時の色んな対応が今は根回しをするのに役に立っているので『一生懸命に無駄なし』と思っています。

昨日の常任理事会の打ち合わせ会において、役員の考え方の中にいわゆる『ボランティアイズム』がない方も増えてきたとの話もあったので本日の会議の中でも十分話し方に気を付けながら進めていきたいと考えています。とは言え、全国の都道府県の会長さんから推薦を受けた方々なのである意味鍛えがいがあるとも思っています。会の報告は後ほどさせて頂きます。(今午後6時35分で家に帰り湯船に浸かりながらの報告をします。)

本日の2035の会は自分の評価としては100点満点をつけたいです。先ずは各委員会幹事の方も会を主催した方も全員出席だった事が挙げられます。(今までに10回以上開催してますが初めてです。)そして参加者23人全員が忌憚なく発言してくれたのも素晴らしかった。最初の担当副会長としての挨拶で私が平成18年8月8日に初めてその当時本部事務所があったTBRビル2階に行き、どの部屋に入って行ったら良いのかが分からず廊下を行ったり来たりしていてその当時の中村会長が大きな声をあげて話ながら近付いてみえた15年前の話から初めて「遠慮は3流。話さずに後悔するのは5流だから忌憚のなく話をしてください」と話をしました。その後を受けて渡辺総務・組織委員会の渡辺委員長が「若山担当副会長が熱い思いで作られた2035の会は幹事の皆さんが全国老人福祉施設協議会の若き担い手として活躍して頂く為の会議なので忌憚なく話をしてください。」と話して頂きとても雰囲気の良いスタートとなりました。

その後幹事の役割についての話を改めてさせて頂く中で事務局に全てを委ねる幹事であってはならないし、各委員会との情報共有をしてそれぞれの委員会の円滑で活発な委員会になるようにして貰いたい。仮に対応に困るような出来事が出てきたら遠慮なく相談して欲しいとも話をして、幹事の経験がある幹事から実際に対応してきた立場から話をして貰い、その後は初めて幹事になった幹事から忌憚のない意見を言って貰い、その後は総務・組織委員会委員からもアドバイスを話して貰い、最後に私から総括をさせて貰い、閉会の挨拶を副委員長にして貰いとっても雰囲気よく会を閉じる事が出来ました。

リピーターの皆さん、会議前には色々と悩んだのですが『案ずるよりも生むが易し』で今後の展開にワクワク感を持つことが出来ました。

昨日の約束通り『地区有林』について書きます

2021.8.25

関ヶ原町今須と言う山方育ちで戦後8年後に生まれた私だから分かる事で、その条件がない方にとっては(多分殆どの方がそうだと思いますが)「地区有林って何のこっちゃ」と言う事だったと思いますので、私が「こんなこっちゃ」と言う話をします。(昨日のコラムを書いていて思ったのですが、気が付いてから本題に入ると長くなるし、移動販売の『だるま』がくる時間が近付いていたので)本日は予告編の『地区有林』について書きます。(『書きます。』と書きましたが、正確な事を理解しているわけでは無いので、しっかりと下調べをしてから書きますので時間を下さい。)✳あいからわず前段が長くてすみません。✳

平成23年2月に林野庁が報告している『国有林の歴史・現状と今後の課題』の中で昭和22年~昭和40年代の状況は『戦後の復興用材及び高度経済成長期の住宅の需要に対応し、市場木材供給に努めた。これにより収益が増大し、民有保安林の買い上げ、一般会計への繰入の実施など独立採算を超えて国家財政への貢献等まで行った。一方、社会のニーズに応えるため、植え替える木の成長量を見込んで、伐採時点の森林の成長量を遥かに超える伐採や、林業効率性の低い奥地まで拡大造林を行うところとなった。』と言う記載がありました。確かに私の小さい頃の記憶の中で山持ちはお大尽と言うイメージがあり、その頃は山の境をで所有者同士で揉める事が度々あったように理解してます。次に昭和40年代~平成10年の記載では『昭和40年代以降、木材貿易の完全自由化とその後の円高の進行により、木材価格が低迷する一方、自然保護の要請に応えた収穫量の削減等により収入が減少。さらに人件費や資材費の高騰、伐採跡地への植林の増加などにより、造林に必要な経費が自らの収入によって自弁できなくなり、昭和51年以降財政投融資資金からの借り入れを行わざるを得なくなった。国有林の債務は造林のために使用され、造成された森林は公益的機能の発揮を通じて国民の安全・安心の確保に寄与してきた。』と記載されているのを目にして、私自身20歳の頃、父進さんについて滋賀県境の山の奥の方まで行き、いつも枝打ちをお願いしてきた方の指導を受けて檜の苗木を200本ほど植えた記憶があります。その時には父進さんから山の境についてしっかりと教えて貰った記憶があるのですが、正直、その山が何処に有るのかも分からない状態です。私の山へは本部施設が完成する前(平成9年)に地区有林の所に鉄塔が設置されると言う事で補償金を60万円頂いたのを原資にして、枝打ちをして頂いたきり行ってないので25年間は足を踏み入れてません。確かに50年くらい前には雪が降ったら『木をこし』と言った雪で倒れそうな木を縄でつないで起こすような事をした覚えがあります。

さて、かなり話題がそれましたが、今回の県庁からのお呼び出しは、平成29年まで岐阜県との契約をしていて、その後は何もしてない状態なので、契約を新たに結んで欲しいとの事だったのですが昨日のコラムで書いたように、大多数の方が亡くなられている状況で山の木に魅力を感じない方を(私を含めて)取り纏めをするのは至難の業だと言えますが岐阜県にご迷惑をかけるわけにはいかないので骨を折りたいとは思いますが、国の方向性のなさと言うか先を見る目がなかったと言うか。大きな立派な木を山から出してきても運び賃も出ないのでは魅力を感じろと言うのには無理がありすぎる。立派な木を3本切って1ヶ月優雅に暮らせるようにまでしろとは言いませんが山の地形を守るためにも山への愛着を持って貰う為にも制度設計を考えて頂かなければ山はもっともっと荒れてしまうと思うのですがリピーターの皆さんも山を守るためにご理解を頂ければ幸いです。

岐阜県庁林政部治山課に9時のお約束で出掛けました

令和3年8月24日

いつもはアラームをセットしている5時よりも早くに目覚め、5時のアラームの音楽とともに行動を開始するのですが、本日はアラームが一向に鳴らないので「おかしいな」と思い時間を確認すると、「5時30分を過ぎとるやないか」と言う事であ、慌てて起きて1階に降りていくといつもの事ですが老猫『リット』が私の足元に絡んできて餌の請求をするので「はいはいご主人様」と言う事で何をするよりも先に餌を器に入れて、洗面を済ませていつものようにウォーキングマシンに乗り般若心経を30分(ここは絶対に譲れないところです。)唱えて急ぎシャワーを浴びてお風呂に浸かると7時になり、朝食を頂き外出着に着替えて車に乗り込み岐阜県庁に。

垂井町の南宮さんの交差点までは信号で止まる事も無くスイスイと走れたのですが、そこからはトロトロとしか動かずに垂井を抜けて大垣に入ってからは再びスイスイと走れるようになり「このまま走れると8時30分には着くので9時までには時間があるな」と胸算用していたのですが、大垣を抜けて瑞穂市に入った途端になかなか進まない状態になったのですが、何とか8時45分に県庁の駐車場に着いたのですが、「駐車場の中に駐車出来るスペースがない。」と言う事で駐車場の中をウロウロしていて何とか車を停めて治山課がある8階に行くと9時ジャスト。「家を早く出て良かった。」で治山課の部屋に入って行きました。

事前に連絡をしてあったので直ぐに打ち合わせに入る事が出来ました。打ち合わせの最初に何事も営業が大切であり、私の状況を知って頂くのは肝要と言う事で事前に用意しておいた当法人のパンフレット等を手渡しました。本日治山課に行ったのは私が住んでいる関ケ原町今須門前地区の戦後対策で出来てから所有している地区有林の話しだったのですが、戦後の地区有林の事をご存じの方はご高齢になっていて、あるいは亡くなってみえて、68歳の所有者の取りまとめと岐阜県との折衝役に抜擢されたので本日岐阜県庁に出向いたのですが、どのような話になるのか全く分からない状態で話を聞く事になりました。

そんな中で今須門前地区有林の所有者が25名みえると言う事で25名のお名前を見させて頂き25名の内で既に他界されている方が私の父進も入れて20名(父進が他界したのが20年前ですから当然の事か)、他所に移られた方や私には記憶の中にない方もみえるので、これをまとめていく事の大変さを今は実感してます。今須門前地区は転居された方が比較的少ないとは言え取りまとめるのは大変だと考えています。とにかくこの取りまとめをするには司法書士の先生の協力無くしては進まないので、取り敢えず私が懇意にしている司法書士の先生に連絡とりました。なかなか取りまとめが難しいと思う最大の理由が山の保有に魅力を感じない社会になっているからです。リピーターの皆さん。木に対する私の意見は明日しっかり述べる事にします。

 

『継続は力なり』をしみじみ味わおうと考えています

2018年8月24日から私のコラムは連続更新をしてますので、本日無事に更新出来れば丸3年更新し続けて、明日からはめでたく4年目に突入する事になります。自分でも「あんなにひ弱で軟弱だった私が」と思うと感無量です。勿論、丸3年はあくまで通過点でしかないとリピーターの皆さんに宣言させて頂きます。ところで、本日は盲養護老人ホーム『優・悠・邑    和(なごみ)』で『地蔵盆』を入居者及び職員とで開催します。リピーターの皆さんには既にこのコラムで紹介させて頂いていますが、和(なごみ)の駐車場東北端の所に垂井町を見渡す形でお地蔵様を設置させて頂きました。設置を提案したのは和(なごみ)の吉澤施設長です。その訳とは「元気な入居者さんばかりなので散歩に行った時の目標として石仏があれば嬉しいのですが」との提案に私は「吉澤施設長の思いを大切にしたい」と思うと同時に「予算をみてないので、私が寄付をすれば問題ない」と考えて、その為の手続きをした段階で和(なごみ)のすぐ側にある石材に行くと、和(なごみ)に設置されるべきお地蔵様が鎮座していて、いわゆる『一目惚れ』状態になり、その場で石材の経営者の方と話をして契約も済ませて、竣工式典にも間に合わせて頂き、竣工式典に花を添えて頂いた静慈圓大僧正に竣工式典の前日にお仏壇のおしょうね入れの後お地蔵様のおしょうね入れもして頂いた次第です。元気な方ばかりで、お地蔵様のお参りは天気のよい日は皆さんの日課になっています。本部施設を9時前に出て9時30分に和(なごみ)につくと2台の公用車を利用してビニールシートで雨対策がしてあり、昨日購入して届けておいたお供え物や花が既に飾ってありました。入居者さんも順番に歩いてこられて、一人ひとりにご挨拶をしていると長浜から滋賀信行会内藤会長が来てくださり、皆さんにご挨拶をした後しょうしんげを私が導師をして、般若しんぎょうには内藤会長に導師をして貰い無事に地蔵盆を終える事が出来ました。朝からドンよりとした曇り空でしたが雨に祟られることもなかったです。5月21日から新規施設での事業開始をしての公のイベントは初めて実施したのですがコロナの厳しい状況ではありますが一つひとつ確実に積み重ねて行ければと考えています。80人の定員のところで今は11人の入居者さんでしかありませんが、色んなところからアプローチをしていき、順調な経営が出来るように努力していきたいと考えています。このコラムの継続が明日からは4年目に突入していくわけですが、『頑張ったんだ』等と一言で語れるものではなくて、色んな意味でピンチもありましたがその都度クリアしたから今がある。リピーターの皆さん。明日からの展開についても見守っていて下さい。

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難しい時代になりました

令和3年8月22日

先般8月18日に行われた全国老人福祉施設協議会主催の正副会長委員長拡大会議において役員研修が行われて弁護士の先生から『ハラスメント』についての講義を聞く機会がありました。そして、改めて今の労務管理の難しさを理解しました。

私は何度も言いますが昭和28年生まれですから文字通り戦後復興が見事にされて高度経済成長期に多感な時期を過ごしています。私の拙い記憶の中にも『猛烈社員』とか『貧乏人は粟を食え』等と叱咤激励し働く事によって豊かな生活を勝ち取る為にがむしゃらに働く事が美徳なような時代を過ごしてきました。『サービス残業』等は当然のようにまかり通る時代でしたし、叱咤激励をしながらも歯を食い縛り働くのが当たり前のような感覚がありました。『立身出世は体で勝ち取る』的な発想だったと思います。会社勤めは残業を沢山して対価を多く得るのは当たり前の時代です。

しかしながら今そんなことを口にしたらバッシングの嵐になるようなご時世です。『働き方改革』の名の下、『ノー残業デイ』なる言葉もまかり通り、間違っても叱咤激励するような発言は出来ないような風潮です。介護の世界もICT化とロボット開発に力を入れています。しかしながら介護の世界では、人と人との関わりの中でのお世話をさせて頂く仕事なので、なかなか難しいと考えています。人間は『感情』によって色々な展開があります。『喜怒哀楽』が人口頭脳によって理解できるのか甚だ疑問です。しかしながら、人間の中から喜怒哀楽が理解できない社会を作る事は簡単に出来てしまうような気がして私は怖いです。

私はメッチャ古い考え方の人間なので義理人情を大切にしたい。私が児童養護施設を退職してスーパーバイザーとしての指導に他の施設に行った時に、小学5年生の男子に作業の指示をしたら「先生、作業したらいくらくれるの」と言われた時には少なからずショックを受けて「そんな事を言う子にはやって貰わんでも良いけど、先生もお前には何もしないから」と言った事を今でも後悔してます。今時の若い方の中には飲み会に誘われて「業務の一貫なら参加します。」と言われる方もあると聞いてますし、飲み会参加を強要するのもご法度です。若い方の中には激励の意味を込めて言った言葉が重荷になってしまい極端な方の中には精神疾患を患ったとの訴えをされる方もあるように聞いてます。

管理職の立場で一生懸命に指導するあまりに言葉がキツくなったり場所をわきまえなくて指摘しなくてはいけない場合もあるのですが、管理職の職員が一生懸命故の行為に対して注意をしなければいけないのには、私自身自己矛盾を感じながらの事も度々あります。職員に話をするときに「相手の身になって」等と言っても、なかなかその意味を真に理解しての展開は難しいし、だからこそ『マニュアル』等もきちっと整理していくのですが、マニュアルを作成する側の人であれば当然のように理解しての展開は出来るのでしょうがそうでないと、なかなかマニュアル通りの展開は難しいし出来ないことが多いと思います。だからマニュアルは作成するだけでなくてマニュアルに至った必要性を理解して貰う事から始めなくてはいけない。しかしながら、そこまで理解して貰う為の時間が持てなくて、バタバタしてしまう悪循環。『体に染み込ませる指導』が出来たら楽なんだけど。

正直『巨人の星』の星一徹がうらやましい。愚痴を言っていても解決しないので、今風のやり方を理解して頑張らなければいけないと考えています。但し、リピーターの皆さん。本部施設の職員の中には体育会的な考えの持ち主が多いので助かってます。但し、いつまでもそんな事に甘えてばかりはいられないので5年先戦略を考えての展開を頑張って作りますのでこれからも宜しくお願い致します。

 

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