2018.8.22
私が今、特別養護老人ホームを2施設も経営し150人の職員をかかえる社会福祉法人の理事長でいられるとは、小さい頃の私をご存知の方は誰も想像だにしなかったと思います。勿論私自身も・・・。
では、どうして今のような存在になれたのかを改めて考えてみると、結局は私が中学1年1月16日に他界した生母秋江が癌の痛みの中モルヒネによる治療しかなくおかしな言動しか出来なかった状況の中、1月2日の日に長姉、次姉、末っ子の私の順番に枕元に呼ばれ、いわゆる「遺言」を言われた言葉に帰すると思います。私に対する言葉とは『蒔かぬ種は生えない』と言うものです。しかしながらその言葉の意味を理解する程の能力を持ち合わせていなかった私がその意味を理解しアクションを起こせるようになったのは高校2年の4月7日に長姉が23歳の新婚半年目に急逝した事により凧の糸が切れてしまった4ヶ月がありその時の救世主が2人存在しています。一人は横着をして学校へ謝りに来てくれた父親進であり、もう一人は熊のような伯父松本伊三郎さんが四国遍路への道を開いてくれた事です。つまり、父進はその当時校長会長までしていた状況があったにもかかわらず、何度も何度も馬鹿な息子の為に学校へ足を運んでくれ息子を信じていてくれた事です。また伯父は、その当時四国遍路の責任者(総勢60人)で、その伯父から「団体の最後尾で歩け」の指示通りに歩いていて、本体から遅れて歩かれた当時76歳の女性の存在です。
その時の私はその女性にイライラしながら付いていき、声掛けの中から2つの事を学びました。一つは相手の身になって考え行動することの大切さであり、二つ目には高齢者の方の中には遠慮されるが額面通りに取ってはいけないと言うことです。
私は四国で学んだ事を実行に移すことが息子を信じてくれている父親への恩返しであり、母親の遺言にも応えることになると考え、高校2年の10月からは生徒会活動で私が出来る事をしてその時代に構築した友人は今も大切にしています。大学時代に民俗学のサークルに入り、ダムで沈んだ徳山村の調査に入った縁で、大学卒業後教員生活を辞め、自分探しをしていた時には徳山村の語り部であり、インスタントカメラで何10万枚もの写真を撮り続け写真集まで出版された増山たず子さんの経営されていた民宿に居候をさせていただいたご縁も大切なものです。
徳山村の5ヶ月を終えた私は福祉のふの字も知らないのに児童養護施設の指導員を小・中・高の教員資格を持っているならと紹介して頂いた方は今でもご指導を仰いでいます。そして、児童養護施設での一人ひとりの子どもとの関わりは大切にしてきました。時には湯気を出して怒ったり、泣いたりわめいたりしながら・・。その当時子どもの為にしてきたと思ってやってきたことは、実は私にとっての経験に脈々と生きています。
38歳で志しを持ち児童施設を辞し、6年間の所属を持たない無納税者の時代にはいわゆる報酬無き活動をいっぱいしていて「よくこんなにただ働きができるな。」との謗りに甘んじながらも、私が老人施設を造りたいとの思いを語った時にはその当時、福祉の重鎮と言われた吉田宏岳先生、その当時大垣商工会会頭だった河合達雄さん、地元で尽力して頂いた吉田儀一さん(現在家族会の会長)さんをはじめ色々なかたの協力を得て優・悠・邑は出来ました。
優・悠・邑が事業開始して21年目を迎えていますがこの間も多くのご縁を頂きました。これからもご縁を大切にした活動をしていきますので、今後共このコーナー共々宜しくお願い致します。