2018年08月の記事一覧

ある意味充実した八月が終わり明日から九月です

2018.8.31

何と言っても八月四日は夏祭りがあり総勢800人の大盛況。後片付けも終わりホッとする間もなく東京出張に引き続き長崎出張があり、21日に法人監査があり、二日間の人間ドックを受け、本日31日は介護保険による施設監査がありました。今は二三日前から痛かった歯の治療に来ていますが、治療が終われば来月の敬老週間の打ち合わせと監査が終了した打ち上げで飲み会があります。歯の治療の為の痛み止と化膿止めを頂いたのに酒が入ったら薬は聞かないだろうから、せっかく薬を頂いたけど薬は飲みません。酒で消毒と神経を麻痺させると豪語していますが、明日倍返しで痛くなったらと思いますが、ここはケセラセラで行きたいと考えています。杓子定規な生き方をしていない自分です。何とかなると思っています。さてさて明日から九月です。新規事業も具体的に進めなければいけないのでガンガン行きますのでいろんな意味でご協力下さい。

 

ご縁PARTⅡ(8月23日の原稿がアップされてなかったので、アップしました)

2018.8.30

昨日に続いて『ご縁』の話しをします。この話しをしだすと、あまりに多くの出会いがあり、しかもインパクトが強烈なのばかりなので、昨日の原稿も正直途中からかなり省略してしまいましたが、昨日の続きは私が元気で引退する時期(今のところ65歳になりましたが全く考えていません。だけども元気で引退と言うのは全く持って難しい・・・)に書くことにして、最新情報のご縁の極意のような話しをします。

8月10日に厚生労働省老健局長に就任された大島局長を囲む政策勉強会があり、その後、交流会では名刺交換もさせて頂いて職員雇用について色々な視点からお話しさせて頂いたのを興味深く聞いて、私の名刺にメモ書きもして頂けたので、お会いして1週間後の17日にパソコン打ちでA4用紙3枚、私の生き様を思いつくままにかかせて頂き、18日(土曜日)に投函し、どのようなアクションを起こして頂けるかを半ば期待してはいたのですが、鮮やかな直球で返ってきました。それは、土日をはさんだ20日(月曜日)の13時前に昼食をとっている時に受話器を持って血相を変えて職員が来たので何事かと思ったら「厚労省の大島老健局長さんからです。」との事で私も思わず口の中に入っていたものを飲み込み直立不動で話しをしていたと思います。大島局長の話しぶりで、私の手紙を興味深く読んで頂いた事が良くわかり、特に『若山さんの生き様は波乱万丈だけれども頼もしい生き方だ』と言われたのには涙が出るほどに嬉しかったしこれからもこのご縁を大切にしたいと思いましたし、これからのご縁にワクワクしています。

私は良く『理事長さんはお顔がひろいですね。』と言われるのですが、私だけが特別なのではなくて、それぞれの立場で出会いはあるのにその出会いを大切にするかしないかの違いだと私は思っています。その考えに至ったのは私が小さい頃、虚弱児で対人恐怖症の赤面症だった事に起因していると言う事です。つまり、小さい頃の私は話したいと思っても出来なくて・・・。つまりその裏返しだと考えています。だから職員には、『例えば研修会に参加して質問の時間があれば必ず質問しなさい。その質問が的を得たものであれば講師の先生は演壇から降りて名刺交換から出会いが始まる』と言っています。

私が小さい頃対人恐怖症の赤面症だった事は自分自身を反面教師にしたある意味稀有な生き方かもしれないし、生まれて半年目に5分近く心臓が止まったと言う事で心臓が止まってからの65年間がおまけの人生と考えると何と充実したおまけの人生なのかとも・・・。

人間ドックの二日目を報告します。

平成30年8月29日

実は人間ドックの二日目は一日目の終了と同時に始まりました。だって、二日目の検査が終わるまで、固形物の飲食物として食べれるのはビスケットだけ・・・・。いやいやあったはもう一つ。コーンスープの中のパン切れのようなものが・・・・。20時と22時に水と一緒に信じられない位の下剤を飲んで・・・・。今のところ(6時現在)3時と5時30分にお腹がキリキリしてトイレには行きましたが大した苦痛はないです。お腹が空いたと言う現象も今のところ治まっています。と言う事は、ある程度我慢するとお腹が空いた現象がなくなると言う事は我慢が足らないと言う事なのか・・・・。

しかしながら、社会貢献事業の為に自分を鞭打ったり我慢したりするのは大丈夫だけど、食欲や酒欲を我慢するのは健康上良くないと考えている私は変ですか。そう言えば昨日の最後にお医者さんからの問診があり「肝臓の数値が悪いようですが」と言われたので、間髪入れずに「お酒のせいです」と答えたら、多分先生は「この患者に何か言っても意味がない」と思われたのか、それに対するコメントはなしで(喜ぶべきか、悲しむべきか)「何かお体の事で心配な事はないですか」との事だったので、「お腹に力を入れると異常に膨れるのですが」と言って先生の前で実演すると、「体重が増えてお腹の皮が薄くなって出てくるのです。お痩せになったら治りますよ」と言われました。体重が減って若い頃の虚弱な体になれと言うのか。とお腹が空いていたし先生に当たってしまいそうでした。(勿論そこは大人の対応)いよいよこれから腸の検査です。検査用に着替える時の説明が「全部抜いて、検査用に着替えれたら椅子に座ってカーテン開けて待ってて下さい。」と言われたので検査用のパンツに変えて椅子に座っていたら、「検査用の上衣を来て下さい。」と言われるまでパンツだけで座っていた私です。看護師さんにしてみたら当然の事でも私は理解出来なかったのです。検査はそれほどの苦痛もなく終了しましたが最後にドクターとの面談があります。面談では、数値が少し高いのを単に高いです。と言われると患者側としてはパニックになりますよ。但し私は聞き返すので先生も言葉を選んで話をして頂けましたが、私のように言えない方は、本当に病気になってしまうかも・・・・。

二日間全部のメニューが終わり更衣室で着替えロッカーの鍵を返すと「これで全ての検査は終了しました。病院内のレストランの昼食券を差し上げますのでよろしければ召し上がってお帰り下さい。」と言われたので、試食のつもりでとろろうどんを食べましたが、二日ぶりの食事なので薄味でしたが美味しく頂きました。今は家に帰りシャワーを浴びて、人間ドックから切り換えてガンガン仕事をします

本日から二日間人間ドックです。初日の報告をリアルタイムでメモをして、終了後アップします。さてさてどんな1日になるのか

平成30年8月28日

朝起きて、朝食はなし。わかっていたけど腹立たしい。朝起きて何回「行きたくない。結果はわかってる。」と言ったことか。その都度私の奥様かをりタンが「150歳まで生きるのでしょ」との答えが。うーん口は厄のもととつくづく…。出掛ける前に仏壇で合掌。検診専門のフロアで受付を済ませると更衣室に案内されて、着替えをして血圧測定の後体重と身長測定。そこで大失敗。同時に測定出来るとは知らなくて体重測定の要領で機械に向かって立ったら「背中を付けるように立って下さい。」その後血液を採取し、いよいよ本格的な検査が超音波からスタート。聴力・視力・肺活量の検査が順調に進み、腰回りを測られ、私は思わず「学生時代はウェスト67だった」などとわけのわからないことを言ったりして。いよいよ胃カメラを鼻から入れて貰って。この検査は検査していただいた先生が良かったのか、私の鼻が大きい為かはわかりませんがすんなりと検査は終わり一つの難関はパス。次に頭のMRIの検査があった時に前の検査が鼻からの検査だった為に薬を鼻から入れて貰った
ので、検査中に鼻がムズムズして思わずくしゃみを二回したら、間髪入れず「画像が乱れますので、我慢して下さい。」優しく言われてはいますが、ムズムズになったのは検査のせいやろがと。頭のMRIの為にうるさい音を緩和するためにヘッドフォンから軽音楽が流れてくるのですが患者に合わせて音楽を変えてくれると良いのに。例えば私なら山崎ていじの夜汽車とか昭和男唄とか・・・・。その後心電図では、階段の上り下りをリズムに合わせて・・・・。頑張りました。12時近くになったら5人はいた患者が私だけになって。昼からはどうなるのかと考えていたら、明日の説明がいきなり始まり、明日の大腸検査の為のビスケットやらコーンスープやらを貰い(当然ながら信じられない程の下剤も)、今日は以上ですので、明日もお越し下さい。あまりに早い終了なので、施設に行き色々な確認だけして、今は病院で貰ったビスケットを食べています。明日は検査が終わったら、ひもじい思いをしている分、倍返しでいっぱい食べると固く誓った次第です。

明日から二日間人間ドックです.

平成30年8月27日

人間ドックの前には色々と書類もあります。その中の質問項目の中に「20代から体重が10キロ以上増えましたか」と言うのがあり、私は50キロだったのが80キロになったのだから、計算するまでもなく10キロ以上ですよ。ほっといてと言う感じです。また、飲酒は1日どの位飲まれますかとの質問には答えようがありません。だって、1日にどの位飲みますかと言われても、月に7回から8回お付き合いの為に外で飲むだけだし、平均して3合と言うのも変だし…。私は決して病的に飲んでいるわけでなく、相手の方に合わせて飲んでると1升位になってしまう。それでも、話はするし歌も歌うし、道路上で寝ることもないし。確かにお酒の影響で悪い所はありますよ。でもでも、悪いなりに落ち着いていると勝手に思って何年も大丈夫だし。それよりも、今のスタンスを止める事によってバランス崩れる方が怖い等と勝手な理屈を並べています。私は思っています。美味しいお酒と食事を気の置けない人と楽しく頂く事こそ至福の喜び。美味しく飲めるのに感謝して、酒を自粛しなさい
と言うドクターとはお付き合いしたくない私ですが、人間ドックに行こうとしている私は何者。なお、先進医療のフランスでは極力薬に頼らないゆったりとした生活こそ健康の秘訣とか。私も、今日を幸せにして行く為に心にゆとりを持てる生活をしていきたい。等と勝手な事をコラムに書いてしまいましたが、これが私の本音です。懲りない酒飲みですが楽しく頂くお酒によろしければお付き合いください。

「ゼロから一代で成功した人に学ぶ」と言う書き込みに思うこと

2018.8.26

書き込みの中の一文を書きますと『私たちは、同じ様に生まれ、同じ様に学校に通い、同じ様に社会に出ました。にも関わらず、「あの人は信用できる」「「憧れる」「また合いたい」「あの人についていきたい」と言われる人がいる一方で、「あの人は信用できない」「嫌な奴」「二度と会いたくない」「もう一緒にやれない」と言う評価となる人がいるのは何故でしょうか。この違いをもたらす違いとは、いったい何なのか。それがコミュニケーション能力ではないか、と言うのが私の仮説です。』(中略)極端な話し、大学までは会話がおぼつかなくても、多少の差はあれど、親さえいれば生きていけるでしょう。しかし社会に出れば死活問題です。コミュニケーション力の差は人生の格差を生むと考えられます。(中略)『また、成功した人の口から、「そんなの意味ねーよ「やるだけ無駄」「どうせ自分は駄目だ」なんて言葉が出てくることはないのは何故か。それは、無意識のうちに自分の未来の可能性を信じているからです。仮に今、不遇な時代だと感じても、未来は変えられる、挽回できると信じているからです。』とのものでした。私自身はそんな大仰な生き方ではありませんが、確かにプラス思考でポディティブな考え方をしてきたな。他人からみたら大変な生き方をしてるように見える事を何と無くやってきたなと言う感じの生き方です。最近の私は「今の私があるのはお酒が飲めて、歌が歌えて、話しが出来るようになったお蔭だ。」と言っています。でも事実ですし。例えば、「辛い」と思った瞬間から本当に辛くなると思うので、辛いと思う前に、次の展開に楽しみを見つけるような・・・。でもこれは、今だから言えることで・・・。うーん。やっぱり素敵な人に恵まれたお蔭かな。運も実力の内とも言いますから・・・。禅問答みたいになって御免なさい。

7時33分発のひかりに乗り東京出張から施設に戻ります。

平成30年8月25日

新幹線の指定席が窓際を取れたし、東京の空は雲一つないので多分富士山は綺麗に見られるとニンマリしてます。これは、一生懸命に65歳の体に鞭打って頑張っている私へのご褒美と都合の良い事を考えています。時間は有効に上手に使うのが私の真骨頂。(かなりうぬぼれた考え方かな・・・)昨日の全国老人福祉施設協議会の報告をします。最初に開催された正副委員長会議は昨今度々起こっている災害について組織としてどのような対応と体制をとって行くかにかなりの時間を割き活発な意見が出ました。私も手をあげ「これだけ頻繁に災害が起きている以上、全国老人福祉施設協議会が「DWAT」と言う組織を提唱して具体的に動いているが、まだまだ各県全ての協力が得られているとは言い難い状況にあります。ちなみに岐阜県では1チーム5人で3チームをエントリーしました。是非ここにおられる役員の皆さんはご理解を頂き強固な体制を作っていくべきだ」と意見を述べました。また、次に行われた幹事の意見交換会では、会長から副議長の役割とは別に幹事会のスーパーバイザーと言う役職を任命して頂いたので、進行を担いながら、将来的に文字通りの幹部に為るための実行力を育てる為にどのようにすべきかを模索しながら、今回4回目の会だったのですが、ようやくその方向性が見えてきました。4回もかかったのは文字通りゼロからの築き上げだったからですが、流石に幹事の皆さんは全国から選ばれた強者なので形が出来たと言う事です。話をしていて、ふと思った事があります。それは、私が全国のお歴々の中で手をあげて意見を言ったり、若手の会で指導的役割を担えるのは何故かと言う事です。答えが出ました。それは、平成18年8月8日から全国の役員になり、その当時の中村会長に可愛がって頂く中で徹底して教えて貰ったのは「理事長であれば5年先10年先を見た情報発信をしろ。」と言う事と「遠慮は三流」と言う事を噛んで含んだように教えて頂いた事が今に生きていると改めて感じました。いっぱい中村会長には怒られましたが、結局暖かく見守って頂けたと言う事で、これもご縁を大切にしてきたからと思うとこれからも
出会いを大切にした生き方をしていきたいと改めて感じましたので、これから先ご縁を頂ける方の事を考えるとワクワク感でいっぱいです。65歳でもまだまだ頑張っていきますのでこのコラムも含め宜しくお願いいたします。

台風20号は関ヶ原にも影響を与えました。

平成30年8月24日

海のない岐阜県には波の影響はないし、強烈な台風は私が6歳の時の伊勢湾台風くらいで(もっとも、あまり記憶にありませんが)。但し、当法人の顧問であるびわこ学院大学の烏野教授の言い方を借りると「非常事態とはめったに来ないときに言う事ですが、これだけ頻繁に色々な所で色々な事が起きると非常の非をとらなければいけない状況です。」その通りだな。と思っていたら、昨夜の深夜の風は凄かったですね。しっかり活動してしっかり寝るのを心掛けている私ですが深夜の風は凄かったので流石に目が覚めました。ここ2日はご縁についてコラムを書くと決め、朝6時過ぎに施設に行って書類の整理をしてからパソコンでコラムの原稿を書いていたのですが、流石に本日は私の机に向かう前に施設の外の確認をして、大きな被害は入居者さんが家で丹精込めて育てられた盆梅の鉢が倒れていた(写真参照)位で、

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川の水も大した事なくて、ほっとして家に帰り朝食をとり、バタバタと着替えて、今は東京平河町の本部での午後からの会議の為に新幹線の中です。
時間を無駄にしない為に今は携帯の画面に向かって朝書けなかったコラムを書いてます。盆梅が倒れた位とのんびりとしたこと書いてますが、台風が直下だった所もあり、大変な思いをされている地域の方もみえるわけで、地域と共に歩む法人を目指しているわけだから平穏無事な内にしっかりとした体制を整えるのが理事長の責務。出来る事を精一杯していきますので、今後とも宜しくお願いいたします。

ご縁について書きます

2018.8.22

私が今、特別養護老人ホームを2施設も経営し150人の職員をかかえる社会福祉法人の理事長でいられるとは、小さい頃の私をご存知の方は誰も想像だにしなかったと思います。勿論私自身も・・・。

では、どうして今のような存在になれたのかを改めて考えてみると、結局は私が中学1年1月16日に他界した生母秋江が癌の痛みの中モルヒネによる治療しかなくおかしな言動しか出来なかった状況の中、1月2日の日に長姉、次姉、末っ子の私の順番に枕元に呼ばれ、いわゆる「遺言」を言われた言葉に帰すると思います。私に対する言葉とは『蒔かぬ種は生えない』と言うものです。しかしながらその言葉の意味を理解する程の能力を持ち合わせていなかった私がその意味を理解しアクションを起こせるようになったのは高校2年の4月7日に長姉が23歳の新婚半年目に急逝した事により凧の糸が切れてしまった4ヶ月がありその時の救世主が2人存在しています。一人は横着をして学校へ謝りに来てくれた父親進であり、もう一人は熊のような伯父松本伊三郎さんが四国遍路への道を開いてくれた事です。つまり、父進はその当時校長会長までしていた状況があったにもかかわらず、何度も何度も馬鹿な息子の為に学校へ足を運んでくれ息子を信じていてくれた事です。また伯父は、その当時四国遍路の責任者(総勢60人)で、その伯父から「団体の最後尾で歩け」の指示通りに歩いていて、本体から遅れて歩かれた当時76歳の女性の存在です。

その時の私はその女性にイライラしながら付いていき、声掛けの中から2つの事を学びました。一つは相手の身になって考え行動することの大切さであり、二つ目には高齢者の方の中には遠慮されるが額面通りに取ってはいけないと言うことです。

私は四国で学んだ事を実行に移すことが息子を信じてくれている父親への恩返しであり、母親の遺言にも応えることになると考え、高校2年の10月からは生徒会活動で私が出来る事をしてその時代に構築した友人は今も大切にしています。大学時代に民俗学のサークルに入り、ダムで沈んだ徳山村の調査に入った縁で、大学卒業後教員生活を辞め、自分探しをしていた時には徳山村の語り部であり、インスタントカメラで何10万枚もの写真を撮り続け写真集まで出版された増山たず子さんの経営されていた民宿に居候をさせていただいたご縁も大切なものです。

徳山村の5ヶ月を終えた私は福祉のふの字も知らないのに児童養護施設の指導員を小・中・高の教員資格を持っているならと紹介して頂いた方は今でもご指導を仰いでいます。そして、児童養護施設での一人ひとりの子どもとの関わりは大切にしてきました。時には湯気を出して怒ったり、泣いたりわめいたりしながら・・。その当時子どもの為にしてきたと思ってやってきたことは、実は私にとっての経験に脈々と生きています。

38歳で志しを持ち児童施設を辞し、6年間の所属を持たない無納税者の時代にはいわゆる報酬無き活動をいっぱいしていて「よくこんなにただ働きができるな。」との謗りに甘んじながらも、私が老人施設を造りたいとの思いを語った時にはその当時、福祉の重鎮と言われた吉田宏岳先生、その当時大垣商工会会頭だった河合達雄さん、地元で尽力して頂いた吉田儀一さん(現在家族会の会長)さんをはじめ色々なかたの協力を得て優・悠・邑は出来ました。

優・悠・邑が事業開始して21年目を迎えていますがこの間も多くのご縁を頂きました。これからもご縁を大切にした活動をしていきますので、今後共このコーナー共々宜しくお願い致します。

お盆真っ只中の恐怖

 かつての職員の対応の為に急遽長崎県佐世保市まで行く事になり、突然の事で指定席券を手に入れる事が出来ず、昨日も東京から名古屋まで立ちっぱなしで1時間40分・・・・。辛かったですが本日は京都から博多まで指定席の確保が出来ず、今もしんどい思いをしてます。人材確保には厳しさが増すばかりですが、それにしても大変です。急遽お盆帰省ピークの本日に行くのは無謀だった。最初は指定席が取れないので車で行く事も考えましたが、養老サービスエリアのガソリンスタンドに10台以上並んでいるとの話を聞いて車で行く事を断念。列車にして京都でのぞみに乗り車掌さんに直談判してみたものの「博多まで全くありません」との冷たい答え方。確かにその通りでしょうがもう少し言い方があるのではないかな…。とにかく私がお盆に移動するのは初めての経験で、ニュースなどで盆帰省する人は大変だと全く持って他人事だったのですが、盆帰省ではありませんが満員の列車に指定席券を持たずに乗ることの恐怖を味わっています。「恐るべし日本のお盆帰省」博多からはレンタカーを2日間借りての移動ですが、これもお盆価格なのでしょう。2日間で35000円を払わなければいけないとか。レンタカーの対応をしてくれた職員が言ってました。「博多駅前には全く車がなくて空港に一台のみだと」恐るべし日本のお盆価格。自由経済万歳と言う事ですかね。後30分程で博多に着くので愚痴もいっぱい言いましたが、腰が痛いし足は感覚がない状態なのでお許し下さい。

 

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