理事長コラム

68歳の時の父進さんはどんな風に私の事を思っていたのかな

令和3年7月25日

一昨日(7月23日)お腹が張って昼間なのに午前中は横になりながらゴロゴロしている時にふと、父進さんが今の私の歳の時にどんな風に考えて生きていたのかと、ふと考えていた時の事をコラムにします。私は父進さんが42歳の時に生まれたので、私はその時(68歳ー42歳=26歳)26歳。と言う事は私が教員を辞めて旧徳山村で勘当生活を謳歌して、(威張って言う事ではありませんが)ようやく児童養護施設の指導員の職を得た頃。以前のコラムで書いたように、せっかく紹介して頂いて落ち着いた生活になったはずなのに9月に入職をした時には翌年の3月で辞める位のいい加減な気持ちだったのです。(結果的には13年勤めさせて頂いたのですが)多分父進さんはその事は見抜いていたように思いますが、決してその事には触れずにずっと私の事を見守っていてくれていたようです。(このような表現になるのは直接聞いたわけではないし、当然今も聞けるわけがありませんので。)68歳の今の私にこのような広い心でいられるかと問われたら「絶対に無理」と答えざるを得ないかな。父進さんが68歳の時には垂井小学校の校長を退職してから垂井町教育長を勤め、関ヶ原町歴史民俗資料館初代館長をしていた頃です。その頃の父進は古文書の虫食いの本を楽しそうに見ているのを、私は不思議そうに見ていました。その当事岐阜の繁華街に岐阜近鉄百貨店と言うのがあり、年に2回古文書即売会の企画があり、嬉々として即売会にいつもにはないお金を持って出掛ける父進さんを不思議な顔で見ていました。しかしながら、父進さんはよくよく『忍耐の人』だったんだと思います。私が他人事のように言うのは本来的に可笑しな話なのですが、42年も前の事ですので、リピーターの皆さん、犯罪者の時効のような感覚で話を聞いて下さい。私自身は本当に我が儘一杯の生き方で、ある意味自分の思い通りに生きてきました。もちろん、その為に厳しい状況に置かれた事は数え切れない程にありましたが、その都度いわゆる『神風』が吹くように強力な協力者が現れて今があると言っても過言ではありません。その最大の協力者は言うまでもなく父進さんです。私を育てて今の私があるのは父進さんの存在なくして語れないのです。しかしながら、父進の私に対する気持ちと支援は私から言わせると自分で言うのはどうかと思うのですが一言で言うならば『忍耐』そのものだったと思います。私には絶対に出来ない・・・。父進のあの忍耐力はどこからくるのかを考えてみるに、思い当たるのは恐らく『戦争体験』と『母秋江との結婚』です。まず1つ目の『戦争体験』ですが、父進は若い頃から視力が悪くてなかなか兵隊になれなくて33歳で戦地に行ったようです。戦地では年若い上官から意味なく理不尽な事をされたと聞いてます。ただし、上官の中には記録を書けない方もいて、父が代わりに書いて得をした事もあったとも聞いてます。また、終戦を迎えて旧ソビエト軍の捕虜になりシベリアに抑留された体験も(色々と大変な事があったはずなのにそれを面白く語ってくれたのを記憶してます。)凄まじくて絶対にしたくない体験をした事。そして、父進さんから言って奥さまになった私にとっての母秋江さんに一目惚れして(石垣に隠れてそっと見ていたとの事。何とロマンチックな。これって普通は男女逆ではないか。いやいや今風かな。と言う事はメッチャ先駆け)今須の地に分かれ家の養子に入り秋江さんに絶対服従。う~ん幸せの形は色々なんだ。母秋江さんの生き甲斐のかなりの部分は我が子宏を元気に育てる事で父進はその事を理解した生き方。と言う事は父進さんは家族の幸せが自分の幸せをのように忍耐強く生きられたと理解した時にリピーターの皆さん、とても私には出来ない。でも、よく考えてみたら私も地域の為に施設の為に頑張っているか。つまり、父進のDNAを受けついているのか。う~ん本日もわけわからんコラムでごめんなさい。