令和5年12月25日
朝からどうしてこんなタイトルにしたのかと言うと施設運営にも、私自身の中にも「もらもや」している事があり、「でもね、必死に頑張ってきたから今がある。」 と考えると「まだまだ対応不足なんだ」と思っています。そんな中でつくづく実感しているのは「私の人生は常に火中の栗を拾う」様な生き様だと思っています。その様な生き様になったのは四国遍路歩き団参を高校2年の夏休みに参加させて頂き「人の役に立つ事は実母秋江さんの遺言の蒔かぬ種は生えぬの教えにも通ずる」と考えて高校2年生の後期に生徒会副会長、3年生前期に会長になって、その頃いわゆる『3無主義』と言われて『シラケ』の時代であったにも関わらず私は熱く語り実践していました。
大学時代も私が入部した『郷土研究の会』が無認可のサークルで、サークルの顧問であった教授の研究室での活動に違和感を持っていた私が当時の『学術局』にモーレツにアタックをして学術局の承認を取り付け、目立った存在だったのか翌年の学生会の改選で学術局長に任命され、翌年には大学祭の実行委員長も務めました。学生運動は下火になっていた中でしたが、自分ができる事を目一杯やったお陰で父進には大変迷惑を掛けたのですが大学を通常より1年余分に行かせて貰いました。
大学を卒業して父進の進めもあり、教育者の道に進んだのですが、私が進んでやろうとしたことはことごとく認められる事がなく、教員生活にピリオドを打ち、自分探しをしたのがダムで沈んだ徳山村での5か月間はモラトリアム(執行猶予期間とでも言えば良いのかと思います。)の様で、徳山村まで来て私の人生の道しるべとなった児童福祉(児童養護施設の指導員)の展開は、文字通り自己犠牲(自分ではその様に思ってはいないのですが)の13年間でしたが結果的には私自身が成長できた13年だったと思います。
そして、自分で道を切り開く為に13年勤めた児童養護施設の指導員を辞し、『児童の個別指導で在宅で困っている親子共々をサポートしたい』との思いから『教育・福祉カウンセラー』と言う肩書で大学・短大・専門学校で週13コマの講義をさせて貰いながら家庭教師もさせて貰いながら、『不登校児の親の会』『知的障害児の親の会』を」主催しながら、学校に行かない子どもの学習指導を頑張りました。この道は茨の道と理解していましたが文字通り「火中の栗を拾う」ものでしたが、やりがいはありました。毎週月曜日は午前2コマ、午後2コマ、夜間2コマをこなしたのですが、お弁当を二つ持参して非常勤講師室で同じような中味のお弁当でしたが何の違和感も無かったです。『火中の栗を拾う』と書きましたが本当は「厳しい状況の方のお役に立ちたい・」との思いからでした。リピーターの皆さん、こんな私ですがこれからも宜しくお願い致します。