令和5年10月12日
5時15分に、まだ明けきらない空を見ると青空の中に月が忽然と上がっていました。今までは左手にあった月が右手の方向にあり、三日月より太くて半月より細い月でした。私は自信を持って小学時代、中学時代、高校時代を通して理科が全く苦手でした。(自慢して言う事ではありませんが・・・)と言う事で恥ずかしながら『月』についての知識が全く無いのです。確かに「満月」とか「三日月」と言うのは「見たまんま」ですから「今日は綺麗な満月だ。」くらいの話題にはついていけますが、それ以上の事は全く知らないし覚える事も出来ないのです。これも広い意味でのLD障害児(学習障害児)なのでしょうか。そう言えば私はかつて吉田拓郎の歌で「上弦の月だって」とのフレーズがあるので歌っていましたが、「上弦の月」と言うのがどんなものかも知らずに歌っていました。恥ずかしい話ですが、今だから時効の様に話が出来る事を正直に話します。それは私が大学を卒業して教員の末席にいた4年3組の担任だった時の事です。その当時の旧文部省の指導要領に基づいて理科の指導案を立てて時には理科の実験も行っていたのですが、正直実験の意味が理解出来ないままに実施していたのを覚えています。しかしながらそんな時には必ず救世主が現れて実験の結果に気付いてくれるのです。私はそんな時は教え子の子ども達と同じ目線で目を輝かせて実験を楽しんでいた様に思います。考え方によっては「不幸中の幸い」と言う事になるのでしょうか。大学での講義では「社会の指導案では自分なりのものを作成してその当時の8ミリカメラで現地を撮影して子ども達も目を輝かせて見て貰いながらワイワイとした授業をしていました。」と格好をつけて話をしていましたが「先生、理科はどうだったのですか」と質問されたら困るなと思いつつ話していましたがその様な事も無く自慢だけで済んだので正直助かりました。4年3組の担任をしていた時には色んな武勇伝がありますが『担任の先生』と言うよりは『ガキ大将』の様な存在だったと思います。但し、研究授業の時にメロメロな状況になった時には校長先生からの総評で「若山先生を何とかしなければいけない」と言う子どものメッセージをひしひしと感じました。それは日頃の子どもとの親密性がわかる事だったのでその点は自信を持って良いと思いますので授業の組み立てや板書についてしっかり勉強して下さい。」と言われたのは今でもしっかり覚えています。そんな私が今は高齢者福祉の重鎮の仲間入りをしているのだから不思議なものです。リピーターの皆さん、こんな私ですがこれからもよろしくお願いします。