理事長コラム

昨日が命日だった実母秋江さんの事

令和6年1月17日

私の実母秋江さんは私が中学1年の1月16日に他界しているので生まれてから13年と言う親子関係の中で比較的短い年月なのですが、『中身の濃い13年』だったと思います。と言うより小学3年までの私は母秋江さんの存在なしには考えられない文字通り『べったり』の関係でした。簡単に言えば母秋江がいなければ何も出来ない幼少期だったと思います。そう言う意味では私が小学4年になり、母秋江に癌が見つかり闘病生活の為に入退院を繰り替えしてからの私の生活は『激変』したと言っても過言ではなかったです。

何故ならば小学3年までの私は母秋江の後ろにくっついていれば良かったからです。つまり、小学4年からは後ろにくっついていたくても母秋江は私の前にはいないのですから。我が家の生活は一番年下の私中心に回っていたと言っても過言では無かった。それが許されたのは母秋江が若山家の絶対者でいたから。どうして母秋江が絶対者でいられたかと言うと、母秋江は若山春吉・ますを両親に持ち跡取り息子の長男よりも末娘を溺愛していて、母秋江の上に3人の娘がいたにも関わらず、敢えて母秋江に若山家の分家を作り、父進を養子に迎えたのです。

つまり、母秋江は今須町筋通りの地付きの娘で尚且つ父春吉(私にとっては祖父)は今須村の議員をしていたうるさ型で母ます(私にとっては祖母)は自宅敷地内で機織りの工場を仕切っていたしっかり者だったので、私が25年前に今の事業を始めた頃は、機織りの仕事をしていた時に「秋江さんは色白で綺麗な方だった。」とよく言われたものでした。

父進さんは、母秋江を石垣の陰から見て一目ぼれをして養子に来たとの事だったので(私が大人になり父進とお酒を飲んだ時の話しです。)母秋江に絶対服従だったわけですから母秋江の天下であった事は客観的に間違いない事実だと思います。但し、以前からこのコラムで書いている様に私が虚弱だったので「目の中に入れても痛く無い」息子の為に何をしたら良いのかが母秋江の思考の中心だったと思います。

そんな母秋江が死の淵に立った時に考えたのは私の生末の心配だったと思います。だから私は命日だった昨日には「心配をかけ続けた宏ですが、今は多くの方々に支えられながらも頑張っています。そして、母秋江さんには心配ばかり掛けて何も恩返しが出来ませんでしたが、地域の高齢者の方に母秋江さんに出来なかった恩返しのつもりでこれからも頑張って行きます。と仏壇でお経を唱えながらお話をさせて頂きました。