令和7年4月27日
『老僧』と書きましたが、初めてお会いしたのは私が教員を退職して『自分探し』と言えば恰好が良いのですが、父進から『勘当』され、文字通り自由気ままな生活を旧徳山村で謳歌していた時に、その当時大垣市立中学校長をされていた方が、わざわざ徳山村にいる私の所に来て下さり「教員資格を小学校・中学校(社会)・高校(社会)と持っているのだから、児童養護施設の指導員として働いてはどうか」と誘って下さいました。
その校長先生は、児童養護施設経営者の娘さんのご主人と言う関係だったのですが、あまりに唐突だったのでどの様にご返事をすべきか、その当時の私は本当に軽いかるい考え方しか出来ない人間だったので困ってしまったのですが、「わざわざ徳山村まで来て下さったのだから、取り敢えず施設を見に行く事にします。」と答えて、その方の車の後ろをついて行く形で児童養護施設に連れて来て貰うと、その施設はお寺の敷地の中にあり、いわゆる庫裏に案内されてその当時社会福祉法人誠心会の理事長さんだった老僧にお会いしました。
最初の印象は「厳格な威厳のある方だ」と感じていました。お話は殆ど理事長の奥様としていたのですが、その時の話の中心は私が白いカッターシャツの下に四国団参で頂いた数珠を首にかけていることに周知して「四国八十八か所をしている方なら、頑張って職員になって欲しい。」と、私は見学だけのつもりだったのですが「翌月の始めから来てほしい」(その日が8月28日)と言う事で「これもご縁か」と勤める事になりました。
理事長さんである老僧は妙心寺派のお寺の住職で、若い頃には10年近く本山での修行をされたと言う事で威厳があり、若い頃は酒豪だったとの事ですが、大きな病気をされてからは酒を一切飲まれずに、食事は3食共にご飯茶碗1杯に湯豆腐に少しだけ醤油を垂らしたもののみ、15時のおやつに何故かキリンレモンを1本と言う生活を10年以上されていると言う事で、いつも威厳ある座り方で口数の少なく、私以外には副住職で主任指導員の息子さん以外は、女性の保育士さんと厨房のこれまた女性ばかりで、老僧は私とは色んな事を話して頂ける様になったのですが、そのきっかけは9月、10月の台風時期にはとても台風の情報を気にされる方で、極端な表現の様ですが、フィリピン沖で発生した段階から気にされてテレビの天気予報を毎回見られて、それだけでは納得されずに、庫裏に誰も見えない時を見計らって私を呼ばれて、台風情報を探る様に言われるのです。それを契機にして、私は良く老僧の話し相手をする様になりました。
妙心寺での修行をされていた時の話の中で、前回もコラムで書かせて頂いた『陰徳』の話を聞き深く感銘を受けたものです。口数の少ない方ではありましたが、強い信念を持たれた方で、公立高校に行くだけの成績を残せなかった時に上司は「私立高校へは予算の関係で無理だ」と言われたので、私は理事長である老僧に直談判しました。その時に老僧が出された答えは「その子の努力が足らなかったのだから、認めるわけにはいかない。しかしながら、若山さんが、毎晩12時頃まで子どもの勉強を見ていている事に免じて、私立の入学金は私が出すから、立派に卒業出来る様に面倒をみてやって下さい。」と言われたのには本当に嬉しかったし、しっかり職員の動きを見て頂いていたのだ」と思いました。その時に教えて頂いたのは「理事長とは情報を持って決断することなんだ」と理解しました。私の人生の中で色んな場面で『師』と仰げる方に巡り敢えているのには、感謝しかありません。