令和6年5月27日
父進さんが、厳格な教育者であった影響もあり、私も大学を卒業後に教員になったのですが、正直「わけのわからない教員だった。」と自分でも思っています。教員最後に(とわいえそんなに長く勤めていたわけではありませんが)神戸町立北小学校4年3組の担任だった時の事を何の脈絡もなく頭に浮かんだので本日のコラムで書きます。4年3組の児童は35名で子どもたちとの格闘をするのに顔と名前が一致しなければ話にならないと考えた私は「初日に全員の名前と顔を一致させる。その為には35名一人ひとりの子どもとの接点をしっかりと持つ。」との目標を持ち、色んなタイミングで時間を作り全員の名前を覚えたつもりで家に帰って確認して残念な事にパーフェクトとはいかず3人の子の名前と顔が一致しなくて、次の日にはその3人の子に多くの時間を割いたお陰で35名の子の名前と顔の一致が2日でクリア出来ました。(今の私ではとても出来ない事ですが『若さ』と『気力』と『記憶力』の賜物なのかと思います。)それからの毎日は休憩時間と言う時間は子どもたちと遊んでいて、まるで担任の先生と言うよりは『ガキ大将』の様な存在だった様に思います。
正し、6月に行われた『校内研』での授業は舞い上がってしまったのと、準備不足で自分で言うのも変ですが、全く評価の対象にもならない出来でした。その時の校長先生の評価は「板書も含めてまとまりのないものでした。ただし、若山先生が焦っているのに対して子どもたちから『若山先生頑張って』と言う雰囲気があったのは共感を持ちました。」との事だったので、その日を契機に徹底的な事前学習をするようになり、板書については事前にビー紙にマジックで整理したものを準備するようにしました。
そして10月の西濃教育事務所の課長さんがおみえになっての授業の時には高評価を得て「私自身が生きた勉強が出来た。」と今になっても思います。但し、「4年生くらいの時は遊ばないかん」との考えはブレることなく12月には「一日かけてお正月に自分で作った凧を飛ばそう」と計画を立てて顰蹙を買いましたが教頭先生が理解をしめして下さり無事にそれぞれが作れたのは私の教員時代の素敵な出来事の一つです。
そう言えば必ず給食が遅い子がいたので「どうして毎日遅いのか」と観察していて、牛乳が飲めない為に遅かった事に気付いて、給食を隣の席で食べて「先生も牛乳が嫌いだったけど飲めるようになったから、先生と同じだけ頑張って飲もう」と言って少しずつのんで、彼女も何とか1本飲めた時に嬉しそうが顔になったのですが、学校から帰って家で「牛乳が飲めた」と興奮しながら報告してくれた。と母親から連絡を頂いたのは今でも良く覚えています。どうしてこんな昔の事を書こうと思ったのかは私自身良くわからないのですが、リピーターの皆さん、「若山宏はこんな人間だ」くらいの理解はして頂ければ嬉しいです。