2021年10月の記事一覧

こんな簡単な事に朝起きて気が付きました

令和3年10月31日

「何のこっちゃ」と言う話なのですが、実は私の今の体力では7時間の睡眠が不可欠だと言う事です。いつもコラムでお話をさせて頂いているように、アラームの4時50分の音楽で行動を開始するのですが(その前に大抵目覚めていますが)行動を起こしながらも「眠い」と感じる事が多くあったのですが、今朝は4時38分に目がパッチリ開いて何をしていても爽やかなのです。どうしてそのように思うのかと言うと、私の中で「22時前に寝るのは大人ではない」と言う変な思い込みがあったので眠くても『無理矢理』テレビを見たりして起きていたのですが、昨夜はそんな余裕も無くて21時には爆睡していたのです。考えてみたら無理に起きているのは無駄な時間だったと今になって気が付きました。

常識で言えば4時50分に起きるのはメッチャ早いのだからメッチャ早い時間に寝てもおかしくないのだと。四半世紀前に法人設立の為に大学の講義と家庭教師、書類作りと岐阜県との折衝、地元の協議と大車輪だった時には2時間睡眠が当たり前だったのに。そりゃ仕方がないか?だってその頃は40代前半のいわゆる『働き盛りの歳だった』わけだし、逆の言い方をするならば『働き盛りに一杯頑張れたのは幸せ者』と言う事なのかも知れません。

本日は14時からハロウィンの企画に私も参加するのですが、朝からそわそわしてます。入居者さんや利用者さんをお菓子で引っ張るつもりはありませんが、やはり『ハロウィン』と言えば『お菓子』と言う事で、昼食(味噌煮込みうどん)を急いで食べた後、ゲンキーは改装中なのでスギ薬局で小袋のお菓子を120人分買ってきて、13時からのガス業者さんとの打ち合わせ(急激に単価が上がるようです)していると、地域交流スペースが賑やかなので打ち合わせの後顔を出すとハロウィンの準備で盛り上がっていて、私もその輪の中に入りハロウィン行列?の準備です。

13時40分になり異様なハロウィン集団が新館2階までぞろぞろ歩くのですが、正直ハロウィンの衣装は「暑い」。ハロウィンの衣装のままで歌を歌うのは正直大変。カラオケの点数は80点。弁解するわけではありませんが熱くてカラオケの画面は見えにくいし最悪です。しかしながら、入居者さんの盛り上がりは最高でした。

しかしながら、新館2階、新館1階、本館2階、本館1階、デイサービスの5ヶ所を回り、それぞれの所で歌を歌っては流石にきつかったですが、私以上に職員は頑張ってくれていたので最後までやりきり、地域交流スペースまで帰ってきてハロウィン軍団で記念写真を撮りました。ハロウィン軍団には自販機で珈琲を購入して労いました。改めて私は入居者さん、利用者さんの笑顔を見たくて職員が頑張ってくれているのが嬉しかったです。リピーターの皆さん。このような職員と早く飲み会が出来るように祈って下さるとうれしいです。

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臨機応変の対応こそ福祉施設には必要です。

令和3年10月30日

私が気付きの多い人間になれたのは児童養護施設の指導員になり、その当時の経営者の方にそれこそ機関銃のような叱責や罵倒や嫌みを言われながらもその当時は温室育ちの世間知らずだった私は「そういうものなのか」と素直に受け止めていたので辞める事もなく受け入れたのが今に繋がっているのだと思います。世が世なら『パワハラ』で訴えるような状況のように思います。今の私はあの頃の経験で素直に受け止めれた事は参考にさせて貰い、納得がいかなかった事は『決してやらない』と決めて実践しているつもりです。あの頃の私は経営者の方が「何をすれば喜んで貰えるか」であり、「注意をされないためには何をすれば良いのか」ばかりを考えながらの毎日だったように思います。そんな毎日を13年間も実践しているうちに『気付きの多い人間』に育てて頂いたように思います。もしも私が世間知らずの素直な人間でなかったら、半年もしない内に児童養護施設を退職して今は何をしていた事かと考えてしまいます。だから人生経験の中で無駄な時間などないのだとも思います。施設を立ち上げた時は私自身が資金繰りの厳しい中で施設長として頂く給料は医療事業団の償還財源にするために使うわけにはいかなかったので大学や専門学校の非常勤講師として、週三日、家庭教師も週二日はやっていて、現場に入れない苛立ちを覚えながらの毎日で、私の施設長としても思いを語ることがなかなか出来なかったし、その当時の職員は耳を傾けてくれなかったように思います。社会福祉法人杉和会の思いを一歩一歩進めるようになっていったのは職員の白い封筒が私の所にきて、フロアの入居者さんがおみえになる中でもお構い無く「退職する」旨の話をしている現実に苛立ちを覚えながらも何も出来ないでいたのは今でも悪夢のように蘇ってきます。そんな中で私自身が出来るだけ現場の声を聞ける環境を確立していく為に気付きを多く拾い上げて行くなかから少しずつ現場も変わってきたように思いました。しかしながら今の悩みは、かなり贅沢な悩みですが、幹部会のメンバーは磐石です。準幹部も育ってきました。しかし、その次を担う職員か育たないのです。次を担う職員の動きを見ていると実に歯痒いのです。一言で言うと『腰が思い』のです。だからこそのマニュアルなのですが、何故そのマニュアルがあるかを理解せずに実施すると、勝手な判断で持って実施してしまい私だけでなく幹部の職員も慌てなくてはいけない事もしばしばです。もう一度『当たり前が当たり前になる為の体制』を構築して、多くの職員が気付きの多い体制にして、毎日の生活により多くの笑顔を得られるようにしていきたいと考えています。明日はハロウィン本番です。入居者も職員もワクワクドキドキを共有していく中から良い方向を築いていきたいと考えていますのでリピーターの皆さんの応援を宜しくお願い致します。

ハロウィンでの私の本心を語ります

令和3年10月29日

昨日は本館2階のフロアが早々とハロウィンを実施するとの話をフロアの責任者の西村課長がかなり前に言ってきた時に「どうして10月28日なのか」と聞くと「フロアの職員がみんな協力して貰える日だからです。」ときっぱりと言われて私は「かなり気合いが入っているな。」と感じたので「私は何を協力したらいいの」と再び聞くと「職員みんなが仮装をして歌を歌いますので、理事長もその乗りで3曲歌を歌って下さい。」との事で、曲目は『3太郎』『北の漁場』『お前しか愛せない』にその場でスッと決まったのですが仮装をどうするかを悩んでしまいました。それ以降忙しさに紛れて何も出来ないでいたのですが24日の日曜日に誕生会を終えてから時間が空いたのでウダウダ考えているよりも「グッズのことならドン・キホーテに行けば何とかなる。」と出掛けました。16時30分までには施設に戻らなくてはいけなかったのですが、瑞穂市にあるドン・キホーテに行くと駐車場がいっぱい。何とか車を停めて館内に入ると「流石にドン・キホーテです。」探すまでもなく入り口を入って直ぐの所に「これでもか―‼」と言う位にハロウィングッズが置いてありました。時間も余りないと言う事と、私は即断即決なので篭の中にどんどんと入れて買い物ルートを無視してレジの所に行き(決してルール違反ではありませんので悪しからず)精算を済ませて一目散に施設に帰って買ったものを広げていると職員が寄ってきてワイワイガヤガヤ。既にハロウィンの第一ラウンドの様相になりました。そして本番当日の昨日は10時~12時まで全国老人福祉施設協議会主催の事業評価委員会がリモート会議であり、その後は書類の整理をして12時40分から昼食を頂き14時からハロウィンのイベントに参加する事になっていたのですが昼食を食べ終わってからは落ち着かなくて13時30分にはスタンバイOKの状態になっていて、事務所の椅子に腰かけて「今や遅し」と本館2階から連絡があるのを待っていて(殆どキリンさん状態になっていたと思います)。13時55分に西村課長から内線電話を貰い急いでエレベーターに乗りかっこう良く?エレベーターが開いて2階の入居者さんの前に出て行くと大きな歓声(悲鳴?)があがって、皆さんへのご挨拶をしてから一曲目の『3太郎』を歌いました。入居者さんの乗りが良くて気持ち良く歌えたのですが、マスクをしている私は顔が熱くて熱くて。次に副施設長が一曲歌う間にマスクからカボチャの帽子に変えて『北の漁場』と『お前しか愛せない』の二曲を歌わせて貰いました。今度はカボチャの帽子なので頭が熱くて熱くて。でも、取り敢えず本館2階の盛り上がりは凄まじくて私も乗りに乗って頑張りました。今しみじみ思うことは本館2階の職員は乗せる事も乗る事も上手な職員が多いなと思ったのですが、よ―く考えると中心的は職員が「入居者さんを元気にしたい。」との思いをしっかり伝えているからだと思います。フロア間の責任者同士で良い意味での競いあいが生まれてきているためか、11月を前にしてクリスマス会の提案をしているフロアもあります。ただし、その前に静かに全フロアに対してハロウィンで「あっ」と言わせる企画案が出てきています。「しまった。」これは起業秘密だった。リピーターの皆さん何分にもご内密にお願いします。

 

昨日予告しました感動した講演のお話です

昨日実施されました第2回制度制作検討会議の協議題の最後の項目が『医療と介護の連携について』だったのですが、その提案者である全国老人福祉施設協議会理事である石飛幸三先生のお話を聞いた事をお話します。

(石飛先生のお話は何度お聞きしても素晴らしいです。)お話の前に石飛先生の紹介をします。1935年広島県生まれで慶応大学医学部を卒業され、ドイツの病院で血管外科医として約2年間勤務。その後、東京都済生会中央病院副院長などを経て、2005年12月から東京都世田谷区の特別養護老人ホーム「芦花ホーム」の常勤医師として勤務。2018年4月からは特別養護老人ホーム「上北沢ホーム」の常勤医師として勤務されている86歳の現役医師。最先端医療を担う外科医から、老人ホームの医師へと転身。

「どう死ぬか」は「どう生きるか」と同じこと。老衰末期における苦しまない自然な最期として「平穏死」を提唱し、人生と医療のかかわり方、満足して生を締めくくるための生き方を提案されている先生です。

昨日のお話も静かな語り口で信念を語られる姿に圧倒されました。石飛先生のお話の中で「医療は部品修理ではない」との強い語り口の中に外科医としての功績に甘んじる事なく信念を貫いてこられた強い思いを感じました。そして石飛先生の凄さは「特別養護老人ホームでの勤務医を1年経験すれば充分だ。」と思って入職したが、介護職、看護職、歯科衛生士の方の対応の優しさに触れる中から「医療として単に病気と向き合うだけが全てではない。との思いの中から1年のつもりが16年勤める事となった。」とさり気無く言われたのには正直鳥肌だ立ちました。

石飛先生の講演のレジメの中に[人生途上の「病い」と「老衰」は違う。老衰は自然の摂理。いずれ人生の最終章が訪れる。それを医療でただ延命を図ると、かえって苦しめることになりかねない]は、医師でありながらその様なお考えを述べられるのにも強い信念を感じないわけにはいかない。尚且つ[「老衰」に無理な延命治療⇒治せないのに治そうとする。医療は人の一生のためになってこそ医療。しかし日本の医療制度は基本的に「出来高払い」。医療行為が点数化され、そのあり方は問われない。]

私はここまで断言されるお医者さんを知りません。会議の終了時の挨拶を私が副会長としてさせて頂いた時の話を書きます。「当施設も基本的には看取りをさせて頂きます。入居者さんとしてご縁を頂いた以上は最後までみさせて頂きたいからです。当施設には常勤医師はいませんが嘱託医師が必ず来て頂けるので出来る対応なのですが、お医者さんに死亡診断者を書いて頂き、その後亡くなった方を家族の希望でではありますがお風呂に入って頂きます。そして、通夜の席で安らかなお顔をされているのを見て「お疲れさまでした。色々な事を教えて頂きありがとうございました。」と言ってます。」との挨拶をしました。

リピーターの皆さん、私は一生懸命に仕事出来る事に幸せを感じています。

昨日は4799歩しか歩けませんでした

昨日は朝本部施設の事務所の私の椅子に腰かけて迷うこと無くパソコンのワードを開いて、ずっと頭の中で葛藤していた事を素直な気持ちで文字にしました。頭の中での葛藤ではきちんと整理をしていたわけではなかったのですが、自分としては素直な気持ちを出せたと思っています。多分昨日の場合は私がパソコンに向かっている時には私に話しかけるような雰囲気でなかったのだと思います。書き終わって直ぐに、白色の封筒に住所を書き(いつもとは違い自分で言うのも変ですが整った字で書けました。)郵便局へ行き速達で出しました。郵便局から帰って改めて私の椅子に腰かけるとドーンと疲れを覚えました。つまり、昼食の時間になるまでボーッとしていたように思います。昼食は月に一回のバイキングだったのですが、あまり特色のない(秋の食材で栗ご飯はありましたが)内容だったのと、午前中を引きずっていたのか何と無く食べてしまいました。ただし、13時30分からは全国老人福祉施設協議会主催の東北ブロックの会長懇談会があり、私も副会長としてリモートによる参加をさせて頂くので、引きずらないように頭の切り換えをして挑みました。2時間の予定が少し超過して終了しました。流石に昨日はその後資料の整理はしたものの16時40分と早くに帰らせて頂きました。家に帰っても何も出来ないのでベットに横になりながら何と無くテレビを点けると懐かしい番組でかなり古いのだと思うのですが(藤田まことさんが若かったので)『必殺仕事人』をやっていたので何と無く見てリラックスしました。。ここでようやくタイトルの『歩数4799歩』になるのです。(本当に長いなが~い前段でスミマセン。いや、殆ど前段で終わってしまいそうです。)つまり、朝のウォーキングで歩いたものの、それ以外では1500歩程度しか歩けていないのです。ちなみに、(午後6時21分)先程家に帰り夕食には早いので部屋で横になりながらガラケーの携帯でコラムを打っているのですが、今現在の歩数を確認すると4012歩だったので驚いています。朝のウォーキングで3300歩は歩いているので、ウォーキング以外の歩数は700歩しか歩いていないことになります。でも、仕方がないか。午前中は全国老人福祉施設協議会の常任理事会が10時30分からあり、その為の予習の為に机にへばりついていて、その会議は12時15分まであり、その後は隣の部屋の施設長室で昼食をとり、午後は15時15分から開催される制度政策検討会議の為の分厚い資料との格闘をして、15時10分からはリモート会議のスタンバイで制度政策検討会議は16時45分まであり、それこそ一歩も歩いてないのですから。そう考えると朝のウォーキングは絶対に続けなければいけないと強く思った次第です。。さて、歩数談義で本日は終わりにしますが、リピーターの皆さんには明日の予告をします。それは、本日の制度政策検討会議の最後にお話頂いた、86歳の現役医師である石飛先生のお話をします。どうか、お楽しみに

昨日のハードな様子を聞いて下さい。

令和3年10月26日

朝8時30分に岐阜県老人福祉施設協議会事務局長が本部施設に来て下さっての打ち合わせがあるので、いつものように朝のウォーキングとお経をしてシャワーを浴びてから7時前には朝食を食べて施設へと出掛けました。これまたいつものようにパソコンでメールの確認をして必要に応じて印刷をしていると事務局長さんが来て下さったので会議室で打ち合わせをしました。殆どは来年4月から岐阜県老人福祉施設協議会を一般社団法人にするための最終的な詰めをしました。

正直なところ事務局長さんがしっかりとした企画案を作成して頂けるからこそ、ここまでに仕上がったと思います。そこで改めて思うのは何事も『人材』だと言う事です。打ち合わせを終えて書類の整理をしていると、11時30分になったので、少し早かったのですか昼食を頂き、食べ終わってから和(なごみ)に向かいました。と言うのは和(なごみ)に始めての外部導入のボランティアを『てるてる座』にして頂く事になっていたので菊川座長に挨拶をしに行く為です。和(なごみ)に着くと既にてるてる座の方々がみえていて着替えをされていて、参加者3名の予定が倍の6名との事で意気込みの強さを感じた次第です。私は14時から和合において全体会議があるので、残念ながらてるてるさんの本番を見ることは出来なかったのですがきっと入居者さんは喜んで頂けたと思いますし、職員たちはてるてるさんの「喜んで貰う為の気遣い」を少しは理解してくれたのではないかと思っています。14時前に和合に着き全体会議会場に行きました。職員からの報告を聞いて最後に理事長である私から総括をして終了しました。

これで終わりでは無くて15時30分からリモートの会議があり、本部施設に帰ってからでは間に合わないので理事長室にリモートの準備をしてもらい会議に参加しました。リモート会議を終えて本部施設に帰り、18時40分からDVDによる研修がありその後引き続いて全体会議があるので、全体会議が終了してから家に帰り夕食をとるとなると夕食が遅くなるので研修が始まる前に簡単に食事を済ませました。本部施設の全体会議でも、最後の総括は私がしっかりと熱く語りました。長い充実した一日が終わり、家に帰りつきお風呂にゆっくり浸かりました。

本日は昨日の流れを書いただけですのでコラムと言うより日記いやいや覚え書きのようなものになってしまいました。と言うのは、頭の中に解決しなければいけない事があり、全く閃きが浮かんでこないのです。リピーターの皆さんには申し訳ないようなものになってしまいましたがお許し下さい。本日午前中に気になっていた事を正直に手紙に書きましたので明日はこのコラムはしっかりしたものが書けると思いますので懲りずに明日も私のコラムを読んで頂ければ嬉しいです。

昨日の笑えない話から

令和3年10月25日

昨日は、残念ながら入居者さんで亡くなられた大垣市の方の葬儀が朝9時からあると言うので、葬儀に遅れてはいけないと家を8時に出たのですが日曜日の朝と言う事だった為か比較的スムーズに走れたので8時40分には葬儀会場に着いて、係員に会場まで案内して頂く時に、お身内の方からご挨拶をされたので(私の記憶では多分始めてお会いした方)「優・悠・邑施設長の若山です。」とご挨拶をすると相手の方が(80代半ばと思われる女性の方)「垂井町役場の教育委員会におみえになった若山先生ですか」と言われたので、私は思わず「私は垂井町には勤めていませんでしたが。」と言うとその女性の方は確信を持って言ったのにと言うような顔をされながら葬儀会場に入って行かれました。

お身内も少なかった事とコロナ禍と言う事で和室のこじんまりとした部屋で先程ご挨拶をした方の隣の椅子に腰かけながら色々と考えを巡らせました。そして結論に達したのは「ひょっとして私の父進さんの事と違うかな」と思い、その女性の方にまだ、葬儀の開始には時間があったので話をする事にしました。「ひょっとして私の父は教育委員会におり教育長をしていましたが。」と話をすると「お父さんでしたか。だとするとみどりやさんからご養子に行かれたんですよね」と言われたので私は思わず「父進が生きていたら110歳になっていますよ。それに父進が教育長をしていたのは私が大学生の時ですから40年以上も前の事ですよ。」と話をすると相手の女性の方も「そう言えば私も80歳を越えているから。自分が歳をとった事を忘れていました。」と苦笑いされました。

これは決して笑えない話として理解しなければいけないと思います。私も常に自分が38歳のような勢いで行動してしまう事が多々あり、自分自身を冷めた気分でみてしまう事があるのですが(AB型の性なのかも知れませんが)今回の場合は私との会話を成立させる為にこの女性の方は40年以上前にいきなりワープされたのかも知れません。しかしながら、父進が生きていたらちょうど110歳になっているわけです。その父進さんの事を鮮明に覚えていて下さる方がみえた事に嬉しさを覚えた次第です。

110歳と言えば私にとっては42年後になるのですが、私の長男にが42年後に78歳となり、私の事を好意的に語って下さるのを聞く事が出来るのかと考えた時には一瞬「大丈夫かな」と思ってしまいました。リピーターの皆さん。私がこんな事を考えたのは40年以上の時空を一瞬にしてワープして下さったからだと考えると笑うどころかありがたいひとときを持たせて頂いたと感謝しなければいけないと思いました。

 

門前地区有林のお話

ちょっと前にもお話しましたが『門前区有林』について語ります。

まずは簡単に復習することにします。『区有林』とは戦後復興の一貫として、国が仕事がない山村地に対して地区毎に山を与えてその山の植林をすることによって国からの補助金を労働代価として支払い、山の整備を行ったと言うものであり、戦後復興に寄与していました。尚且つ、昭和30年代の木の評価は高くて国家予算の収入にも貢献したとの事を私も最近知りました。確かにその頃の『今須のお大尽』は持山に立派な木があり、立派な木を3本も切り出したら余裕で生活が出来たと言う今では考えられないような時代背景があったようです。

さて、私が生まれ育った『門前』と言うのは江戸時代は中山道の宿場町のいわゆる『門前町』だったのです。因みに、旧中山道沿いの2キロに渡る地名は『門前』で始まり『中町』『西町』『門間』です。つまりは宿場町としての地名が起承転結になった分かりやすい地名なのであります。

ようやくにですが本題に入ります。(あいからわず前段が長くてご免なさい。)

今回から門前地区有林の岐阜県とのパイプ役を引き受けたので(今までのお世話役の方はご高齢で県庁での折衝はとても出来ないし私なら県庁への対応はできるだろう。との長老の判断ですが高齢福祉課と治山課では全く畑違いなのですが・・・)さて、昨日地区有林の所有権利をお持ちの(25軒)方に集まって頂き(委任状は9軒)最初は長老の方に話をして頂き、続いて私から岐阜県庁に行って指導を受けた事について話をしました。

結論的には亡くなった方からの相続が出来ていない方の相続を急ぐ必要があり、最終的には私がいつもお世話になっている司法書士の先生にお願いする事になり、委任状の方への説明文については出来るだけ早くに司法書士の先生と打ち合わせをして理解して頂く事になりました。ただし、話し合いの中で出てきた話の中で「昭和31年の時とは木の価値は全く違うので、その当時の契約のままでは何ともならない。」と言う意見が殆どだったので、私からは「契約更新を岐阜県とするにしても、相続すべき方がきちんと出来てないと話にならないので、とにかく相続すべき整理をしっかりとしていく事を第一にしていきたいと思います。」と話をして取り敢えず昨日の話し合いは終わりました。

昭和31年の契約と言うのは私が3歳の時に結ばれたもので、その当時の事をご存じな方はみえないので、しっかりと整理をして平成29年に契約が切れたままのを今、きちんとしておかないと多分『負の遺産』が残るだけになってしまうので頑張って対応したいと考えています。

リピーターの皆さん。実は今日のコラムは余りにも眠くて途中で書いたのが消えてしまったトラブルがあり、何とかここまで書きましたが途中から意味不明の内容になっているかも知れませんが修正はしませんので『継続は力』のみを評価して頂ければ幸いです。実はメッチャ楽しいネタがあるのですが今は面白いネタも楽しく書けそうにありませんので明日に譲ります。

リピーターの皆さん本当にごめんなさい。

1日の歩数で行動がよめてきます

令和3年10月23日

私のガラケーの携帯はいわゆる『楽々フォン』と言うもので万歩計機能が付いているのですが(他のにも付いているのかは知りません。だって楽々フォン以外は使用した事が無いのでから)1日のクリアすべき数値を『6000歩』に設定しているのですが、朝のウォーキングの30分で3000歩は稼げるので、クリアすべき歩数は達成して多い時は7000歩、8000歩と歩数を伸ばし、常に目標達成100%以上の数値を示していて私は一人で「よしよし」と思っているのです。朝のコラムを打ちながら今月は14日、20日がクリア出来てないので改めて携帯でスケジュール管理を開いてみて、クリア出来なかったのはどうしてかを確認しました。

そして確認をしながら「私はこんなに面倒臭い人間だったか」とも思っています。クリア出来なかった14日は岐阜県による法人監査の日だったのです。監査の開始時間は9時30分からだったので開始の2時間前には施設に行こうと決めていたので7時30分に施設に行くとなるといつもよりかは30分早くに朝食は済ませなければいけないので6時30分の朝食にするのと『体力温存』の為に朝のウォーキングが止めにしてお経のみにしたのです。7時30分に施設に行き監査が実施される会議室の確認や書類の確認をしていて、監査官の方を迎えるまではバタバタしていましたが、実際に監査が始まると椅子に腰掛けていて、質問を投げ掛けられた時に答えるのみ。他動的な私としては最も苦手とする時間でした。と言う事で万歩計の数字が伸びませんでした。

20日のスケジュールを見ると10時から12時までが全国老人福祉施設協議会の常任理事会がリモート会議であり13時30分からは同じく全国老人福祉施設協議会正副会長委員長会議が16時までリモート会議で行われてリモート会議中はずっと椅子に腰かけていて、会議が終了後は大垣まで長城の会あり車を運転して行ったのですが、移動はしていても歩数は延びなかったようです。この結果を見るまでもなく、当然の事ながら座っているだけでは万歩計の数字は伸びないのです。

コロナへの配慮から昨年の3月14日を最後にして東京への出張は全くなくなりました。東京に行けば、例えば車で岐阜羽島駅前の駐車場に停めて駅のホームまで歩きます。そして東京駅に着き新幹線を降りて丸の内へ回りタクシー乗り場へ歩いて行くのにも結構な距離を歩く事になります。施設においては殆ど車での移動です。そういえば、東京への出張の時には10000歩を歩くのは当たり前だったです。リピーターの皆さん。コロナで出張がない今はウォーキングマシンで朝早くに歩きますのでを宜しくお願い致します。

今日こそ昨日のバタバタの様子を書きます。

2021.10.22

(昨日の早朝の感動は既に昨日のコラムで書きましたので、その後の1日を書きます。)いつものように規則正しくウォーキングマシンでの歩きとお経に続くシャワー。しばしの休憩中にコラムを少し書き、朝食後にも少し書き、時間は見計らって施設に行き書類の整理をしていると9時30分になったので慌てて車を運転して盲養護老人ホーム『和』(なごみ)に行きました。と言うのは和(なごみ)のお参りと全体会があるからです。

9時55分に着き、仏間に直行すると既に入居者さんはお待ちになっていたので「遅くなりました。これからお参りをさせて頂きます。私が導師を勤めさせて頂きますが決してお経は上手くありませんが大きな声でお唱えしますので、皆さんもお腹から声を出して頂いてお昼御飯がより美味しく頂けると健康でいて頂けると思いますので、宜しくお願いします。」と挨拶をした後おりんを二回に鳴らしてから大きな声でお経を始めました。和(なごみ)でのお参りは養護老人ホームと言う事で比較的お元気な方が入居されていることを差し引いても本当にしっかりと唱えられる方が多くて14人でのお参りとは(職員さんも多く参加されてはいますが)思えないほどのお参り会です。お経を唱えて、改めてご挨拶をしていると既に私のオンステージ?の準備が出来ていたので定番になっている北島三郎さんの『祭り』では余りに芸がないと思い『帰って来いよ』の替え歌で『三太郎』を歌う事にしました。替え歌の意味をご理解された入居者さんの中には口ずさんで下さった方もありましたし、何よりも嬉しかったのは皆さんが楽しそうに手拍子をして下さった事です。入居者さんの皆さんが聞き上手なので気持ちよく歌えました。そして何よりも嬉しかったのは、「祭りが聞きたい。」との声と共にアンコールの声があがり、結局『祭り』も歌わせて頂きました。その後入居者さんはフロアに戻られ職員の全体会が始まり、最初は各委員会の報告がなされてその後は吉澤施設長、法人事務局長、水野理事、最後に私が総括的な話をしました。

私が話をしている途中で大垣共立銀行の常務さんが11時30分のお約束だったのでおみえになったとの報告を受けたので先に事務局長に対応をさせて、話を終えて急ぎ待って貰っている喫茶室に行き名刺交換の後私の思いを語らせて頂き、多額の融資に対する理解を得られたと思っています。(そんな簡単な話でないことも理解してますが)話を一旦終えて玄関先の静慈圓大僧正に竣工式の折書いて頂いた愛染明王の書を見て頂いてから仏間にご案内をすると丁寧に仏壇に手を合わせて下さり、その後床の間の掛け軸や彫り物も見て頂き、その間に吉澤施設長が静慈圓大僧正が書かれた本を持って来てくれたので(この機転は素晴らしい)常務さんにお渡しして、玄関先までお見送りして、事務所に戻り打ち合わせをしている流れの中で岐阜県庁へ吉澤施設長に同行することになり、一旦私が和(なごみ)での対応をしている時に看取りの方が亡くなって家族の方が施設におみえになっているので、一旦施設に帰り家族の方にご挨拶をして、昼食を済ませて家でスーツに着替えて岩田税理士(法人理事)との打ち合わせに14時のお約束で行き、14時40分に打ち合わせを終えて吉澤施設長が待っている垂井町役場に行き、吉澤施設長の運転で県庁に行きました。県庁では先ずは高齢福祉課で和(なごみ)の件で話をして、その後でコロナ対策について県の会長としての意見を話をして、次に健康福祉政策課に行き先般の法人監査の対応について打ち合わせをしてから岐阜県庁を出て、施設に帰る途中で大垣にある棚橋衆議院議員の選挙事務所に寄ると受け付けに先生の奥さまがみえたので親しくお話をさせて貰いその後一路本部施設へ。

本部施設の駐車場に着くと17時10分で幹部会の為に幹部職員は揃っていて、パンとカップ麺を食べながら会議が進み時には法人顧問の烏野先生もいじりながら時には厳しい発言も出て、20時前に終わり、家に着くとぐったりで湯ぷねに浸かって1日の疲れを取りながらコラムを完成させました。リピーターの皆さん。私はこんな毎日に幸せ感に浸りながら頑張っていますので、和(なごみ)の施設もよい方向に行くと思っています。リピーターの皆さんもご支援宜しくお願い致します。

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