本日、中村博彦元会長の惜別の会の為に今は新幹線の中です。
惜別の会を前にして、中村博彦元会長との事を語る事にします。
私が全国老施協の役員としてその当時の本部事務所があったTBRビルに行くようになったのは、平成18年8月8日に委員会が立ち上がったばかりの総務委員会幹事として行くようになってから。事務所があった二階に行きどの部屋に入って良いのかわからず、ウロウロしているとその当時の中村会長が大きな声で話をされながらこちらに向かって見える。私はおもわず金縛り状態!?そんな私に気が付かれた中村会長が優しく声をかけて下さりほっとしたのを今でも昨日の事のように覚えています。でも、優しかったのはその日だけ!!顔を真っ赤にして怒られた事は数知れず、アホじゃ馬鹿じゃとろくさいと言われるのは当たり前。何度か、「もう馬鹿馬鹿しいから役員辞めて帰ったろ」と事務所前でタクシーをひろい新幹線で横浜辺りになった頃、中村会長から私の携帯に電話が入り「今日は帰っても良いけど、これからも頼むぞ。」そんなこと言われるならぼろかすに言わなければ良いのにと私は思いながらも、律儀に本部に行き、またまたアホじゃ馬鹿じゃとろくさい。これは私に対する叱咤激励だと考え、自分が出来る事は精一杯やることにして、在宅委員会、研修委員会の幹事をさせて頂いたり、総括幹事として委員会を横断的にみさせて頂いたり。その中でも一番印象に残っているのは平成19年度の全国大会が出来ないかも知れないと言う話を幹部の皆さんでされている席に同席させて頂いた時に私が思わず「岐阜県でやります。」と口走った時に何度も何度も「本当に大丈夫か」と聞かれ「頑張ってやらせて頂きます。」うーん、今から考えてもよくそんな事を言ったなと思います。でも、中村会長のお困りの顔を見たらそう言わなければいけない。岐阜県の会長を初め皆さんにどんなに頭を下げてでも、やり遂げようと思ったものです。元気そうに見えた五月には私に「岐阜県の会長になれたのは偉いな」と声をかけて頂いたのが最後の思い出ですが、よーく考えてみると中村会長には最初と最後に優しく声をかけて貰ったわけで、起承転結が出来てモヤモヤの部分も有りますが、中村博彦元会長と言う大きな大きな大きな柱が無くなった
今は中村会長の教えを理解しながら、皆さんと力を合わせて全国老人福祉施設協議会を科学的介護の中核として私なりに支えて行きたいと思います。中村会長、これからも天国で見守りながら叱咤激励をよろしくお願いいたします。