令和2年8月12日
父進が今の私の年齢(67歳)の時に私の目からどのように見えていたかと言う事について、命日の今日書く事にします。私は父進が42歳の時の子なので67−42=25歳。25歳と言えば私が教員を辞して父進さんにさり気無く勘当され私自身は半年近く旧徳山村で飲めや歌えの生活をしていた時期にも忍・忍を通した忍耐力は今の私にはいやいや10年後の私でも無理。と言う事は父進さんの忍耐力は計り知れないものを感じています。
私が結婚した30歳過ぎに(私の結婚記念は30歳と10日)父進さんと晩酌を共にすると、かなりお酒も弱くなっていたのか、「宏は今須生まれの今須育ちだから分からんだろうけど、父ちゃんは垂井から養子に来たので、70過ぎて宏より長く今須に住んでいても養子としての扱いを受ける。」と愚痴を言う事が度々ありました。父進は30歳を過ぎて遅くから(極度の近視の為になかなか兵隊さんになれなかったのに元気な男子がいなくて駆り出されたように聞いてます。)戦争に駆り出され、終戦後はどのような経過かはわかりませんがシベリアに抑留され捕虜の生活を1年近く過ごして日本に帰還したと聞いてます。戦争時代の話しの中には、はるかに年下の上官に随分理不尽な振る舞いをされたことや、上官の中には報告書を上手く書けない方がいて代書して喜ばれた事もあったとの話も聞きました。
シベリア抑留で捕虜の生活を強いられていた時には、ゼンマイの腕時計をロシア兵に取り上げられ、しばらくすると、取り上げられた時計が捨てられていて、再び自分のものにするとまたまた取り上げられると言う事があったと不思議な話を聞いてその種明かしはロシア兵の中には腕時計のゼンマイを巻く事を知らないからと教えてくれました。父進の忍耐強さは戦争中の『ひもじさ』『理不尽さ』を経験したたまものなのかとも思いますが、抑留先から帰り教員に復帰された頃の父は「とても怖い軍隊式の先生だった」と聞いた事がありますが、昭和30年代に父進の教え子の方の話を聞くと滅茶苦茶温厚な先生だったとの事だし、父進さんと一緒に教員生活をされた方々の話を聞くと「温厚で大変人情味がありいろんな面でお世話になった。」との話しばかりで、色々な情報をトータルすると、戦時中の軍隊方式の考え方を戦後の民主主義の考え方について理解してきちっと実践してきた。
表現を変えるとするならば時代の流れを読み形にしていき、苦労した経験により忍耐強い性格になっていったんだと思います。私は戦争を知らないし、その体験を想像すら出来ません。戦前、戦中、戦後と言う時代の激変期を体験された父だからこそ出来の悪い息子『宏』に対しても心広く信じてくれたからこそ今の私があるのだと思うと命日の今日お墓にお参りして頭を垂れるだけではいけないと思いつつ1年に1日だけでも父進を忍ぶのも親孝行の一つだと勝手に思っている私は何なんでしょうか。リピーターの皆さん。こんな私ですがこれからもよろしくお願いします。※本館2階の夏祭りレポートは明日にしますので乞うご期待と言う事で。