理事長コラム

一生懸命の中から学んだ事

令和7年2月15日

児童養護施設の児童指導員になった26歳までの私は『自分が無くて』周りに流されながらも何とか脇道に反れる事もなく生活できたのは生母秋江さんの『溺愛』を一手に受けながら長姉光子さんの母親代わりのガードを受け、高校2年生からは父進さんの加護を受けての日々だったと思います。

そんな私が26歳の時に旧徳山村で自由奔放な生活をしている時に「児童養護施設での仕事をしないか」とのお誘いを受けて「遠く徳山村まで来てのお誘いだから半年位はやってみよう」位の軽い気持ちで勤めだしたのが正直な気持ちでした。ところが実際に勤めだして分かった事は「頑張れば形になる成功体験をさせてくれる仕事」と言う事で半年ではなくて13年も勤務させて貰い児童から高齢へとの種別の違いはありますが、26歳から71歳の今もどっぷりと福祉の仕事に関わらせて貰っています。

45年もの長きに渡って(まだまだ進行形ですが)『行動の老施協』ならぬ『行動の若山』で『労を惜しまず』が出来たのは児童養護施設時代の無手勝流の展開で『指導しているはずの私が子どもから教えて貰っている』事ばかりだった様に思うのです。その事実を具体的に語っていきます。最初に経験したのは勤務について3日程度経過した中学生の集団学習(当時は3学年で13名だったと記憶しています。)でその当時1年生だった女子から「数学の計算問題を教えて欲しい」と言われて勇んで傍に行ってその問題を見た瞬間に「解けないから教えられない」と思った事から、かつての教員仲間の先生に教えを乞うようになった事によって『分からないところが分かるカリスマ指導員』のスタートを切りました。

その後、中2の男子が小学1年生の計算も出来ないと言う事実が分かり、その当時の養護学校の先生を父進に紹介してもらい教えを請いに行き、独自の教材の作り方を教えて貰い、一人ひとりに合う教材作りの大切さを理解しました。また、小学3年生で施設の来た男子がひらがなも書けなかったので、50音が書ける様に根気よく頑張らせました。

その時に分かった事は馴染みのある言葉から書けるようにと自分の名前から始めたのですが、50音の内25文字が書ける様になるのにかなりのエネルギーが言ったのですが残りの25文字は楽に覚えられた事に驚き、その時に私自身が確信したのは『学習にはバイパスがある』と言う事でした。この様な実績が見えてくると私一人でしていた事に対して保母(今は保育士と言います)さんからの協力が得られる様になり、小学3年生で習う『九九』を覚える事を職員が子どもに合う度に問題を出すと言う協力をして貰った事により楽しく覚える事が出来たのも愉快な思い出です。

子どもたちには限りない可能性があります。その目を摘むことをしないで延ばしていく事に全力を尽くす事の大切さを実践の中から理解出来たのは私にとっての誇りです。今は高齢福祉に全力で取り組んでいます。と言う事で入居者さんには今までのそれぞれの歴史を大切にして頂き毎日を精一杯謳歌してもらえる様に「今日一日楽しかった」を実感して頂ける様に頑張って行きたいと思っていますのでリピーターの皆さんもご支援よろしくお願いいたします。